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明日、君が笑うなら  作者: あーちゃん


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10/10

明日、君が笑うなら

いよいよ最終ページです。


陽菜が最後に悠斗へ託した願い。


「明日、君が笑うなら」


その言葉を胸に、悠斗は深い別れと向き合い、陽菜のいない明日を歩き始めます。


これは、悲しい終わりではなく、陽菜が残した笑顔が未来へ続いていく物語です。

陽菜が最後に笑った日のことを、悠斗は一生忘れなかった。


雨上がりの朝だった。


窓の外には、まだ濡れた街が広がっていた。病院の中庭の木々は雨粒を抱えたまま光を受け、葉の先から落ちる雫が小さな宝石みたいにきらめいていた。


陽菜はその光の中で笑っていた。


「今日、私、笑えてた?」


そう尋ねた陽菜の声は、今にも消えてしまいそうなくらい小さかった。


けれど、悠斗にははっきり届いた。


「笑えてたよ」


悠斗は答えた。


泣きながら。


それでも、できるだけ笑って。


「すごく、綺麗に笑ってた」


陽菜は安心したように目を細めた。


「よかった」


その言葉を最後に、陽菜はゆっくり目を閉じた。


悠斗は陽菜の手を握り続けた。


離さなかった。


何度も名前を呼んだ。


「陽菜」


「陽菜」


「ここにいるよ」


「俺、ここにいるから」


陽菜の指先は、ほんの少しだけ動いた気がした。


それが返事だったのか、偶然だったのか、悠斗には分からない。


でも、悠斗はその小さな動きを、陽菜からの最後の返事だと思うことにした。


モニターの音が、静かな病室に響いていた。


一定だった音が、少しずつ、少しずつ変わっていく。


悠斗は息を止めた。


彩花が病室に戻ってきた。


美緒も涙で顔を濡らしながら、入口に立っていた。


誰も大きな声を出さなかった。


誰も陽菜を引き止める言葉を叫ばなかった。


ただ、みんなが陽菜を見つめていた。


陽菜が怖くないように。


陽菜が一人で行かなくていいように。


悠斗は陽菜の手を握ったまま、震える声で言った。


「陽菜」


涙で視界が滲んでいた。


でも、悠斗は約束を思い出した。


泣いても、最後は少しだけ笑う。


明日、君が笑うなら、私は幸せです。


悠斗は唇を噛んだ。


笑うなんて、できるはずがなかった。


胸が張り裂けそうだった。


陽菜を失うことが、こんなにも痛いなんて知らなかった。


身体のどこかではなく、存在そのものが削られていくようだった。


けれど、陽菜は最後に悠斗の笑顔を見たいと言った。


悠斗の笑った顔が好きだと言った。


だから悠斗は、泣きながら笑った。


不格好で、ぐしゃぐしゃで、笑顔なんて呼べないものだった。


それでも、悠斗は陽菜に向かって笑った。


「陽菜」


悠斗は陽菜の手を額に当てた。


「ありがとう」


声が震えた。


「俺を見つけてくれて、ありがとう」


「好きになってくれて、ありがとう」


「何度忘れても、また俺に恋しようとしてくれて、ありがとう」


「俺の明日まで、心配してくれて、ありがとう」


涙が陽菜の手に落ちた。


「愛してる」


悠斗は何度も言った。


「愛してる、陽菜」


モニターの音が、長く伸びた。


その瞬間、彩花が口元を押さえて泣き崩れた。


美緒が声を殺して泣いた。


悠斗は動けなかった。


陽菜の手を握ったまま、ただ、陽菜の顔を見つめていた。


陽菜は眠っているようだった。


ほんの少し前まで笑っていた顔のまま。


雨上がりの光を浴びながら、穏やかに目を閉じていた。


悠斗はその顔を見て、最後にもう一度だけ笑おうとした。


でも、できなかった。


代わりに、陽菜の手を握りしめて、声にならない声で泣いた。


その日、悠斗の世界から、陽菜がいなくなった。


けれど、その日、悠斗の心に陽菜の笑顔が残った。


消えない約束として。


葬儀の日、空はよく晴れていた。


陽菜らしい天気だと、美緒が泣きながら言った。


「雨女じゃなくて、最後だけ晴れ女だったね」


彩花は小さく笑った。


「陽菜はきっと、悠斗くんのために晴らしたのよ」


悠斗は何も言えなかった。


黒い服を着て、陽菜の写真の前に立つ。


写真の中の陽菜は、笑っていた。


高校時代、悠斗が撮った写真だった。


花火大会の日。


少しだけピントがずれている。


それでも、陽菜は世界で一番綺麗に笑っていた。


悠斗はその写真を見て、胸が苦しくなった。


「陽菜」


小さく呼んだ。


もちろん返事はない。


もう、病室のように手を握ることもできない。


朝が来ても、「おはよう」と言ってくれる陽菜はいない。


名前を忘れた陽菜に、もう一度自己紹介することもない。


何度でも恋をする朝は、終わってしまった。


けれど、悠斗の鞄の中には水色のノートが入っていた。


『消えない約束』


陽菜が残した文字。


悠斗が守らなければならない約束。


葬儀が終わった後、悠斗は一人で病院の中庭へ行った。


陽菜と最後に見た雨上がりの景色を、もう一度見たかった。


ベンチに座り、ノートを開く。


陽菜の文字がそこにあった。


『明日、君が笑うなら、私は何度でも幸せになれます。』


悠斗はその一文を指でなぞった。


「無理だよ」


小さく呟いた。


「まだ、笑えない」


風が吹いた。


木の葉が揺れる。


その音が、陽菜の笑い声に少しだけ似ていた。


悠斗はノートを胸に抱きしめた。


「でも、生きるよ」


涙が落ちた。


「約束したから」


それからの日々は、簡単ではなかった。


朝が来るたびに、悠斗は陽菜がいないことを思い知らされた。


目を覚まして、最初に思う。


陽菜に会いに行かなきゃ。


そう思ってから、もう病室がないことを思い出す。


もう花瓶の水を替える必要はない。


もうガーベラを買っていく必要もない。


もう、陽菜に名前を教える朝は来ない。


その事実に、何度も胸を潰された。


街を歩けば、陽菜の影を探した。


パン屋の前を通ると、メロンパンを見て泣きそうになった。


雨が降ると、一本の傘に二人で入った日のことを思い出した。


花火の音を聞くと、陽菜が「綺麗」と呟いた横顔が浮かんだ。


笑おうとしても、笑えなかった。


陽菜との約束を守れない自分が情けなかった。


けれど、美緒が言った。


「すぐに笑えなくてもいいんじゃない?」


悠斗は黙っていた。


美緒は陽菜の写真を見つめながら、泣きそうな顔で笑った。


「陽菜だって、すぐ笑えなんて言ってないよ。泣いても最後は少しだけ笑うって言ったんでしょ」


「うん」


「じゃあ、今は泣く時なんだよ」


悠斗はその言葉を聞いて、少しだけ救われた。


彩花も言った。


「悠斗くん、陽菜のために生きようとしなくていいのよ」


悠斗は驚いて顔を上げた。


彩花は優しく微笑んだ。


「陽菜はきっと、悠斗くんに自分の人生を生きてほしいと思ってる」


「でも、俺は」


「忘れなくていいの。陽菜を置いていかなくていい。ただ、陽菜と一緒に生きていけばいいのよ。心の中に連れて」


その言葉を聞いた日、悠斗は初めて気づいた。


陽菜がいない明日を生きることは、陽菜を捨てることではない。


陽菜を忘れることでもない。


陽菜が残した笑顔を持って歩くこと。


陽菜が願った明日を、自分の足で迎えにいくこと。


それが、約束を守るということなのかもしれなかった。


一年が過ぎた。


悠斗は毎月、陽菜の好きだった黄色いガーベラを持って、陽菜の眠る場所へ行った。


最初の頃は、花を供えるだけで泣いてしまった。


何も話せなかった。


けれど少しずつ、言葉を置いて帰れるようになった。


「今日は雨だったよ」


「メロンパン見つけた」


「美緒が相変わらず怒ると怖い」


「お母さん、卵焼き作ってくれたよ。甘かった」


「陽菜の好きな味だった」


そんな小さな報告をするようになった。


二年目の春。


悠斗は仕事を始めた。


忙しい日々の中でも、陽菜のノートを持ち歩いた。


つらいことがあると、ページを開いた。


陽菜の字を見る。


それだけで、胸の奥に小さな灯りがともった。


三年目の夏。


悠斗は花火大会へ行った。


一人で行くのは怖かった。


けれど、美緒に背中を押された。


「陽菜、絶対見たいと思うよ」


夜空に花火が上がった。


大きな音が胸に響いた瞬間、悠斗は涙をこぼした。


でも、泣きながら空を見上げた。


花火が散る。


光が消える。


その残像の中に、陽菜の笑顔が見えた気がした。


「綺麗だね」


悠斗は空に向かって言った。


その時、少しだけ笑えた。


本当に少しだけ。


けれど、その笑顔は嘘ではなかった。


そして数年が過ぎた。


悠斗は、陽菜と最後に見た病院の中庭に立っていた。


もう病室には行けない。


あの日のベッドも、カーテンも、花瓶もない。


けれど、中庭の木々は変わらずそこにあった。


雨上がりの朝だった。


あの日と同じように、葉の先から雫が落ちていた。


悠斗は手に黄色いガーベラを持っていた。


そして、もう片方の手には、水色のノート。


表紙は少し擦れていた。


何度も開いたから、角は丸くなっている。


それでも、陽菜の文字は消えていなかった。


『消えない約束』


悠斗はベンチに座り、ノートを開いた。


最後のページ。


陽菜の文字。


『悠斗へ。私を何度も見つけてくれてありがとう。忘れても、怖くても、悠斗がいたから私は私でいられました。明日、君が笑うなら、私は何度でも幸せになれます。』


その下には、悠斗の字。


『陽菜へ。君が笑った日を、俺は一生忘れない。』


悠斗はそのページを見つめながら、静かに息を吸った。


もう、あの日のように声を上げて泣くことはなかった。


泣かないわけではない。


今でも、陽菜を思い出すと胸が痛む。


会いたいと思う。


声が聞きたいと思う。


もう一度だけ手を握りたいと思う。


でも、その痛みの中に、温かさも混じるようになっていた。


陽菜が笑っていたこと。


陽菜が愛してると言ってくれたこと。


陽菜が悠斗の未来を願ってくれたこと。


それらは、悲しみだけではなく、悠斗を生かす力になっていた。


悠斗は空を見上げた。


雨上がりの空は、青く澄んでいた。


白い雲がゆっくり流れている。


「陽菜」


悠斗は静かに呼んだ。


風が吹いた。


ガーベラの花びらが小さく揺れた。


「今日も来たよ」


昔と同じ言葉。


でも、今は少し違う意味を持っていた。


会いに来た。


悲しみに沈むためではなく。


陽菜と一緒に生きていることを確かめるために。


悠斗はノートを閉じ、胸に抱いた。


そして、空へ向かって微笑んだ。


「今日も笑えたよ」


その声は、震えていなかった。


涙は少しだけ滲んでいた。


でも、悠斗は笑っていた。


あの日、陽菜が願った通りに。


泣いて、迷って、何度も立ち止まって。


それでも最後は少しだけ笑えるようになった。


風が優しく吹き抜けた。


中庭の木々がさらさらと音を立てる。


その音が、陽菜の笑い声のように聞こえた。


悠斗は目を閉じた。


まぶたの裏に、陽菜がいた。


白い病室ではなく、雨上がりの光の中で。


高校の制服でも、病衣でもなく、悠斗の記憶の中で一番好きな笑顔のまま。


陽菜は笑っていた。


「よかった」


そんな声が聞こえた気がした。


悠斗はもう一度、空を見上げた。


「陽菜」


風が頬を撫でる。


まるで、陽菜が涙を拭ってくれたみたいだった。


「俺、生きるよ」


悠斗は言った。


「陽菜がくれた明日を、ちゃんと生きる」


空はどこまでも青かった。


あの日の約束は、消えていなかった。


陽菜はいなくなった。


でも、陽菜の笑顔は悠斗の中に残った。


朝を迎えるたび。


雨が上がるたび。


花が咲くたび。


誰かにおはようと言うたび。


悠斗は陽菜を思い出す。


そして、少しだけ笑う。


明日、君が笑うなら。


その言葉は、別れの言葉ではなかった。


未来へ続く、陽菜からの贈り物だった。


悠斗はガーベラをそっとベンチに置いた。


そして、もう一度だけ空へ語りかけた。


「今日も笑えたよ」


風が優しく吹き抜ける。


陽菜の笑顔が、空に浮かんでいるようだった。


――完。

最後まで読んでくださり、本当にありがとうございました。


『明日、君が笑うなら』は、忘れられても、別れても、愛した時間は消えないという物語です。


陽菜は悠斗のそばからいなくなりました。


けれど、陽菜の言葉と笑顔は、悠斗の明日を照らし続けました。


泣いてもいい。


立ち止まってもいい。


それでもいつか、大切な人を思い出して少しだけ笑えたなら。


その笑顔の中に、きっと愛は生き続けています。

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