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近江の山奥から始める近代国家建設 外伝 〜美濃の蝮と呼ばれた男〜  作者: 近江もののふ


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第12話 西村勘九郎正利

 弘治二年(こうじにねん)(1556年)、春。

 美濃国(みののくに)、山県郡(やまがたぐん)、山中の陣所。


 尾張の帰蝶から、お里を迎える支度は整ったとの短い返事が届いた。わしはお里との間に生まれた倅、松波雅楽頭政綱《まつなみうたのかみまさつな》を呼び、母を連れて尾張へ行くよう命じた。斎藤の跡目には加えず、松波を名乗らせてきた倅だ。政綱は父上は、と言いかけたが、その先は問わなかった。


 出立を承知したお里は、帳面を開いたまま、残る米と日々炊く量を後任の女中に一つずつ示していた。その頁を繰る指は、山崎の店の帳場にいた頃と変わらない。


 お里は帳面を女中に引き渡すと、わしの前へ進んで手をついた。

「残る米で、ひと月は賄えます。その先をどうなさるかは、殿がお考えくださいませ」


 お里には答えぬまま、わしは政綱の言葉を聞いた。尾張から父上の分の米も送らせると言う倅に、送らずともよい、お主らが食えとだけ返した。


 * * *


 四月十八日、わしは鶴山(つるやま)に陣を移したが、集まった兵は二千七百ほどだった。義龍方は一万七千五百を超えると、物見が報せてきた。尾張の婿も大良(おおら)まで出ているものの、川を越える気配はなかった。


 十九日、わしは婿へ美濃を譲る旨の書状を認め、京にもその意向を書き送ることにした。返事の来ない家々へ命を出し続けた手が、今は自分の死後を書いている。二通に花押を据えると、それぞれ別の使いに持たせ、どちらが先に着いてもよいと送り出した。


 * * *


 二十日の朝、義龍方が川へ出たとの報せを受け、わしも鶴山を下りた。


 先に渡ってきた竹腰摂津守道鎮《たけごしせっつのかみどうちん》は、後続を待たず、六百ほどの兵で正面へ食い込んできた。左右から囲ませると、その旗が人の間に沈み、味方の鬨が上がった。続いて出てきた長屋甚右衛門(ながやじんえもん)も、柴田角内(しばたかくない)を組み伏せたところ、下から脇差で刺され、首を取られた。


 鬨が収まらぬうちに、義龍方の槍先が一斉に傾いた。押された持ち場へ兵を回しても、戻ってくる者は次第に減り、旗本まで前へ出ると、わしの周りは空いた。押し寄せる兵には、かつてわしの広間に並んだ家々の旗も混じっている。愚かだと扱ってきた倅が、今はこれだけの兵を指図し、同じ川を渡らせている。


 味方の列を割って、長井忠左衛門道勝《ながいちゅうざえもんみちかつ》が踏み込んできた。わしの太刀を受けつつ間合いを詰め、そのまま組み付いてくる。振りほどこうともがくわしの横で、小牧源太道家(こまきげんたみちいえ)が刀を振り上げた。


 その時、木立の方から銃声が響き、道家が胸から血を噴いて刀を取り落とした。わしが咄嗟に身を捻ると、組み付いていた道勝も引きずられる。続けざまに弾がその胸と脇腹を貫き、わしを掴む腕が外れた。道勝は膝から崩れ落ち、そのまま動かなくなった。


 白煙の中から覆面の男が二人、駆け込んできた。二人とも袖に同じ紐を結んでいる。わしは太刀を向けたが、一人はその横へ回り、義龍方に鉄砲を構えた。

「山城守殿、我らに刀を向けておる間はございませぬ。お急ぎくだされ」


 もう一人がわしの反対側へ回り、木立を指した。覆面の下から聞こえる声は、まだ若い。

「ここで死なれると困る。来い」

「わしを生かして、何をさせるつもりじゃ」

「それは後で考える。何もなければ茶飲み相手でもいい」


 若い男から自軍へ目を転じると、旗本はすでに散り、逃げる者と踏みとどまる者の間へ義龍方が押し寄せていた。わしはそれを見て、太刀を下げた。

「……面白い。案内せい」


 二人に挟まれ、敗兵の流れに沿って下がった。寄ってくる兵が銃声とともに倒れるたび、左右に撃ち手がいると分かる。やがて木立へ入ると、首のない骸が横たえてあった。


 骸を前に足を止めたわしは、若い男へ顔を向けた。

「わしの代わりか」

「ああ。具足を外してくれ。着替えもある」


 覆面の者たちはわしの具足の紐を解くと、外した物から順に骸へ移していった。その作業が済まぬうちに、戦場の方で枝を踏む音がした。


 肩から血を流す近習の高就が姿を現し、わしを見るなり刀を抜いた。

「殿、お下がりくだされ!」


 高就が割って入るなり、覆面の者たちは一斉にその身へ鉄砲を向けた。わしは具足を外すのを止めさせてから、片手を上げた。

「待て。わしの近習じゃ。そやつを撃つな」


 高就がわしと具足を着せられていく骸を見比べ、刀を下げかけたところで、わしは声を掛けた。

「斎藤山城守はここで死ぬ。おぬしは、それを見届けよ」


 若い男は木立の近くに倒れた義龍方の足軽を指し、その着物に替えて敵兵に紛れるよう高就に告げた。山城守は討死し、首は覆面の者に奪われたと広め、皆が信じたところで戦場を離れろという。高就がその後を尋ねると、生きていればこちらから探すとだけ答えた。


 高就が若い男に答えずわしへ向き直ると、わしはその目を見据えて命を下した。

「やれ。今日見たのは、斎藤山城守の最期じゃ。それ以外は知らぬで通せ」

「……承知いたしました」


 旅装に着替えたわしは、渡された目出し帽を被った。木立の奥へ案内されて歩きかけたが、若い男はその場に留まっている。

「おぬしは来ぬのか」

「治部大輔が、この死体を山城守だと認めるまで残る。生きていると疑われたら困るからな」

「面倒な男じゃ。助けた相手より、死体の始末が気になるか」

「あんたが後で追い回されないようにするんだから、先に行ってくれ」


 それ以上は言わず、わしは木立の奥へ入った。父の骸とされたものを倅がどう改めたかは、見届けていない。


 * * *


 舟で桑名へ下ると、後から来た者たちと落ち合った。人の出入りが続き、わしは目出し帽を外せぬままだ。若い男にいつまで顔を隠すのかと問えば、外の人間がいなくなるまでと言い、行き先を尋ねても、着けば分かるとしか答えなかった。


 北伊勢の江野(えの)に着き、離れに屋敷の者だけが残ると、男たちはようやく目出し帽を外した。わしは若い男の素顔を、しばらく見つめていた。

「若いとは思うておったが……」

「橘十兵衛だ」

「なるほど。北伊勢で名を上げておる十兵衛とは、おぬしだったか。十四の小僧が、わしを長良川から攫うとはな」

「攫ってない。自分の足でついてきただろ」

「周りを鉄砲で片付けられて、断れる者がどれだけおる」


 若い男は、橘十兵衛賢政《たちばなじゅうべえかたまさ》だった。伊吹の向こうの空が赤く染まったあの正月から、ちょうど十四年になる。


 賢政が返答に詰まる間に、わしはもう一人へ顔を向けた。

「そちらは、戦場でわしの前へ入った男じゃな」

「今井弦十郎にございます」

「名は覚えておこう。……さて、十兵衛。ここなら、わしを生かした訳も聞かせてもらえるのであろうな」


 今井弦十郎政基《いまいげんじゅうろうまさもと》が一礼して下がった後、賢政はためらいなく答えた。

「あんたの知恵を借りたい。いろいろ話を聞かせてくれ」

「戦場では、何もなければ茶飲み相手でもよいと言うておったぞ」

「茶を飲みながらでも話は聞けるだろ。家臣になれと言ってるわけじゃない」


 賢政が懐から取り出した二通のうち、一通を開いてわしは手を止めた。鶴山で花押を据えた書状だった。もう一通にも目を通し、わしは顔を上げて賢政を見た。

「どこで手に入れた」

「あんたが出した使いからだ。届く前に止めさせた」

「使いは、もう生きてはおらぬか」

「ああ」


 どちらが先に着いてもよいと送り出したのに、二通とも届け先には着かなかった。わしは重ねた書状へもう一度目を落とし、やがて膝前に置いた。

「わしを死んだことにし、書状まで奪う。ずいぶん勝手な救い方をするものじゃ」

「助け方に文句があるなら聞く。ただ、斎藤山城守は討死したことになってる。その名で表に出るのはやめてくれ」

「それで、何と名乗れと言う」

「西村勘九郎だ。諱は正利。これからは、その名で暮らしてくれ」


 長弘から名跡を継げと言われた日に、わしは西村勘九郎正利と名乗った。その時に得た扶持も屋敷も、今はない。戻ってきたのは、名だけだ。


 わしは指で二通の折り目を整え、重ね合わせて賢政へ差し出した。

「そいつはおぬしが持っておれ」

「いいのか。返すつもりで持ってきたんだが」

「斎藤山城守が書いた物じゃ。西村勘九郎には要らぬ」


 賢政が書状を懐へ収めるのを見ながら、稲葉山に残した文箱と白い石を思った。帰蝶に文を書こうにも、今はもう斎藤山城守とは名乗れない。


 わしは目を落としたが、膝前には何も置かれていなかった。

「それで、茶は出ぬのか」

「今から用意させる。飲みながら、いろいろ聞かせてもらう」

「着いた早々か。茶飲み相手も楽ではなさそうじゃな」


 障子の向こうで掛け声が上がり、材木を下ろす音がする。頼まれたわけでもないのに、わしはその音を数え始めていた。


 やがて女中が茶を運んでくると、わしは一杯目を飲み干して尋ねた。

「もう一杯もらえるか」

「ああ」


 賢政が懐から書状を出して脇へ置いても、わしは手を伸ばさず、運ばれた二杯目の茶碗を両手で包んだ。お里を見送り、二通の書状を送り出し、長良川では太刀を握った手が、今は茶碗の温もりを受けている。

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