18.宰相一家 お尻地獄①
*暫くやんごとなき貴婦人や御大方のお尻の修羅場が続きます。ご注意ください。
ファルケン宰相夫人は隣国の憤怒の龍侯爵ことバーンベルク侯爵が『うっかり』、夫人の滞在するファルケン公爵家のタウンハウス宛に届いた手紙を開いた。
シモンズ男爵夫妻が娘と再会した、5日後の事である。
「な、な、な……」
そこに書かれた唾棄すべき事実に夫人は釘付けとなった。
【ファルケン宰相閣下へ。
まず初めに、私には愛する妻と子がおります。
ですので、愛妾であるレイナルド・コールデン宰相補佐の私への牽制を止めてください。私は宰相閣下の愛人になる気は微塵もございませんが、聞き及んでくれないのです。
確か、彼には奥方が居ましたね。シモンズ男爵家から嫁いだローズマリー嬢でしたか。
私は宰相閣下とは和睦の為に交流はありました。共和国を訪れたのは1年前でしたね。
宰相補佐とも顔を合わせておりますが、宰相補佐が2年も前に婚姻しているとは初めて知りました。
ローズマリー夫人ですが、夫に冷遇された上…使用人にも惨い仕打ちを受けた様子。
現在、聖女ゼラ・ローズ氏、聖女リコリス氏の庇護下のもと、私の元で保護しております。
宰相補佐との愛の蜜月に、何の関係も無い令嬢を巻き込むとは些か度し難い。
私は愛人を持つ気はございませんが、妻と対等に愛する甲斐性くらいは在るべきでしょう。妻をないがしろにするなど以ての外。
『宰相閣下は私のもの』というレイナルド・コールデン宰相補佐の御心は存じ上げていますので、私がお二人の間に入る事はありません。
ファインブルク王国 エヴァンス・バーンベルク侯爵】
ファルケン宰相夫人は手紙を握りしめ、爪が白くなるまで力を込めながら叫んだ。
「あ・な・た・ぁぁぁああああああ!?」
隣国の侯爵からの手紙に書かれた『愛妾』の一語が、彼女の怒りに火をつけた。
夫が隣国との交渉で築いた絆を利用して、『浮気』の隠れ蓑にしている可能性が脳裏を駆け巡る。…しかも男と。
「しかもシモンズ男爵令嬢まで巻き込んで、なんて残酷なの!」
そもそも夫は政略結婚とはいえ、自分に対して愛情を示してきたはず。
いつからか仕事に没頭し始めたが、国政を担うことは重々承知だ。
だが、それを逆手に補佐官と浮気だと!?
「母上!落ち着いてください!」
息子が肩を掴んで静止しようとする。
「手紙だけで判断するのは危険です!!」
「間違いなく隣国のバーンベルク侯爵の家紋ですよ。救世の英雄です。
わざわざ偽りを話すお方ではありません。そのようなお相手に迷惑を掛けておいて?
愛人がいるならまだ理解できるけど……男ですって!?
いいえ、1000歩譲って男の愛人が居たとして…職権乱用の挙句に隣国の英雄まで愛妾にする気だったと!?
ご本人が嫌がっているのに!!??
その隠れ蓑に力の無い男爵令嬢を使い冷遇するなんて!何て姑息なの!?」
夫人の怒りの炎は燃え広がる。
「嗚呼!思い出したわ、忌まわしい事件を!!
更迭された外務大臣が!隣国のバーンベルク侯爵の弟君にセクハラをしていたのを……!!
お尻を鷲掴みにして愛妾になれと迫っているのを!!!」
「ああ…アレですか‥‥‥、私も目撃しましたよ。弟君が不憫ですよ、本当。
…で、今度はその兄君の尻を狙っているんですか‥‥‥、…我が父が」
「色ボケ共が国政に関わっている。こんな噂が広まったら国家の威信に関わる事よ!」
息子フェリクスは母親の剣幕に怯みつつも言った。
「……まあ実を言うと、カトレアから聞いたんです。宰相補佐が父…宰相閣下を見る目が『熱っぽい』と」
「やっぱり!」
カトレアは王太子殿下に嫁いだが、王太子が愛人にうだつを抜かしている間に溜まった業務を延々とこなす内に過労で倒れる寸前で在った。
現在は夫人の滞在するタウンハウスで療養中だ。…今後の婚姻継続も視野に入れて。
故に、愛人の話題にファルケン宰相夫人は過敏であった。
母の怒りに息子フェリクスは慌てて話題を変えようとする。
「まずは陛下への上申書を作りましょう!ローズマリーという令嬢を保護した事も報告すべきです!」
ローズマリー嬢を夫人とは…とても言えない。
コールデン侯爵の婚姻をフェリクスは高位貴族の恥と認識している。
婚約期間不明。結婚式に来賓や新郎不在。初夜の儀も無し。約2年交流無し。
挙句にコールデンの使用人は、ローズマリー嬢が事故に遭って碌に探さずに死んだと訃報を出した。
――実際は、隣国で保護されたようだが。
当のコールデン宰相補佐は『最後まで使えん女』と吐き捨てたのだ。
そんな男の妻となったローズマリー嬢が婚家で冷遇されているならば、夫人と称するのは令嬢への侮辱になると解釈している。
挙句に父に恋慕とは…妹が倒れた原因は宰相補佐にもあるなとフェリクスは考える。
カトレアに真偽を再確認したいところではあるが、療養する妹には刺激が強すぎる。
事実、父の疑惑を妹は顔面蒼白になって打ち明け、フラフラと横になってしまったのだ。
「それと、お爺様と叔父上にも報告しましょう。全て明らかにすべきです!」
「ええ、そうしましょう!」
夫人は素早くペンを取り、息子が差し出す便箋に文字を綴った。
〈緊急報・宰相閣下および宰相補佐に関する疑惑〉
【隣国バーンベルク侯爵閣下より、ファルケン宰相とレイナルド・コールデン宰相補佐に関する不穏な話を耳に致しました。
それによれば、宰相閣下は隣国のバーンベルク侯爵閣下に密かに愛人関係を迫っていること。
拒絶するバーンベルク侯爵へコールデン宰相補佐が執拗に、嫉妬や牽制を行っているとのことです。
また、宰相補佐は自らの立場を利用し、宰相閣下の政務に不当な影響を与えているとの情報もあります。
加えて、ローズマリー・コールデン侯爵夫人が婚家である侯爵家で過酷な環境下で苦しみ、事故死と処理をされました。
しかし、彼女は事故当日に聖女ゼラ・ローズにより救出され、隣国で保護されているという報告が入っております。
宰相閣下のご名誉に関わる事態として、早急に対応をお願い申し上げます】
宰相府は混乱の渦と化した。
「……誰かこの書面を引き返させてこい。冗談ではなく国家の信用に関わるぞ!」
***
「――バーンベルク侯爵のお尻を触って、どこぞのアホ貴族がお尻の力で手を粉砕されたの、コールデン宰相補佐は知らないのかしら?」
「知らないんだろうねぇ。ていうか、そんな芸当出来るとは思わないでしょ、他の臣下も侯爵閣下の馬鹿力を知らないのかなぁ」
「まあ、無能を据え置きしていたのですし、少し痛い目見た方がよろしいですわねぇ」
「侯爵閣下は弟君のセクハラの件もあって、お怒りだからね。
『次は無い』って先代女侯爵様に言われたのにねぇ。
シモンズの令嬢の一件もあるから、えげつない後方支援してくるだろう」
王太子と宰相補佐に割り振られた業務を終え、シモンズ男爵領が王国入りしバーンベルク侯爵の庇護下に入ったことの確認。
更にワーズ子爵家の親族らを王家の影を使い保護した第二王子夫妻。
予想されるエグイ茶番の前に、当面はのんびりと現状の修羅場を眺めることにした。
***
ファルケン宰相夫人が王城に向かおうとした矢先、邸宅の玄関ホールには騒然とした空気が漂っていた。
当の宰相が帰宅し、書類を抱えたまま青ざめた顔で立っていたからだ。
「あの文書はどういうことだ……?」
夫人は夫の姿を見るなり足音も荒々しく駆け寄り、例の上申書の写しを突きつけた。
隣では宰相夫人の父である元宰相と叔父の元近衛騎士団長が険しい表情で腕組みをしている。
一先ず邸内で話し合いとはなった。
邸内の空気は張り詰め、使用人たちは恐る恐る壁際に控えていた。
「あなた!この内容は真実なの!?」
夫人の声は甲高く響き渡る。
「隣国との外交問題どころか王家の信用まで揺るがしかねない話よ!一体何を考えているの!?」
「…だから、何のことだ?」
「しらばっくれないで!隣国から来た手紙によると、アンタはコールデン宰相補佐とデキてるらしいじゃない!?あんな男と!」
夫人は机を叩きつけた。
「そもそも!あの無能が宰相補佐のポジションについたのは、アンタの差し金なんでしょ!」
宰相は微動だにせず告げた。
「私が彼を選んだ理由は、彼の母親の生家メイソン公爵家の後押しもあっての事だった」
夫人の怒りは最高潮に達した。
「そうやって愛人を傍に置いたのね!?」
「愛人なんているわけがない!」
宰相は妻の腕を掴んで宥めようとするが、「触らないで!」と振り払われる。
「メイソン公爵家の醜聞をご存じ?彼の母君がワーズ子爵令嬢の目を潰した話よ!」
「それは――」
宰相は言葉に詰まった。事実だが表向きは不慮の事故として扱われていた。
だが今はそれどころではない。
「確かに彼はコネで役職を得たが、何故愛人などと?」
「その汚点を!息子が尻の穴で埋めているんじゃないのかと、皆が噂しているのよ!」
「お前は何を言うんだ!」
「噂が流れているのは事実ですわ!!
バーンベルク侯爵の弟君だけでなく、ご本人のお尻も無理矢理狙っておいて!!
人様のお尻を狙う連中に!国政を任せて置けるものですか!!」
「違っ」
宰相の頬が赤く染まる。療養中のカトレアが兄に制止されて、遠くから見守る中での騒動である。
そこに夫人の父親である元宰相が割って入った。
「孫に悪い影響が出る」
そう前置きしつつも、追及の姿勢は崩さない。
「お前の評判は兎も角、宰相補佐の評判は宮廷内で相当なもんだ。今すぐ説明せい」
「で?あの無能は功績を尻穴で稼いだのか?お前がその稼ぎ頭か?」
「説明も何も!そのような関係ではない!!」
宰相の声はさらに上擦った。
「コールデンとは単なる上司と部下の関係に過ぎん。第一、私は彼の趣味すら知らん!!!」
「知らない?嘘おっしゃい!!!」
「嘘ではない!宰相補佐となった記念に万年筆を贈ったくらいだ!
休暇明け等に贈り物はしたが…部下たち全員に贈っているのは君も知っているだろう!?
宰相補佐の嗜好品を聞いても『何でもいい』の一点張りだった!」
「じゃあなぜ彼が『僕のもの』みたいな態度を取ると思うのです?父上?
あと、本当にバーンベルク侯爵のお尻を狙ってはいませんよね」
「狙う訳無いだろうが!私は妻一筋だ!!何より命は惜しい!!!」
弟君の尻を狙った他の愚かな貴族の手を尻圧で粉砕したのだ、憤怒の龍侯爵は。
『――そんなに尻を狙う手は…尻の筋肉で破砕する』
と、血管ビキビキで言い放ち実行したのだ。
尻でそんな芸当出来ると認識できない者は多く、その貴族は酔った弾みで骨折という事となった。
そんな侯爵をそういう目的で狙えば手は砕け、逸物は千切れるだろう。
…そもそも、不貞はしないが!!!
「レイナルド・コールデン宰相補佐。…あの男の考えが本当に分からん。勝手に勘違いしているんじゃないか?」
「それこそが問題よ!」
夫人は指を突きつける。
「彼は『宰相は自分のモノ』だと言いふらしている。それが隣国にまで波及して国際問題になっているの!!
弟君の一件もあるからこそ!!バーンベルク侯爵はあの無能宰相補佐の言い分を受け止めて、あんたに丁重に断りの手紙を送ったのでしょうが!!!」
元宰相が口を挟む。
「バーンベルク侯爵からの手紙にはそう書いてあった。『愛妾』という単語さえ出てきたそうだし、目撃情報も多い」
「全く持って事実無根です!彼と二人きりになった事も無い!秘書官や護衛騎士が常にいた!!」
宰相は断言した。
「えっと、わたくしも参加させてくださいませ……」
カトレアが父の潔白を証言したいと、兄フェリクスの手を借り修羅場へと入って来た。
兄は妹を止められなかった事で、母の冷たい眼光を浴びて冷や汗を流す。
「以前、宰相補佐と同席したことがあります……。でも彼が父を見る視線が……、その……熱を帯びていまして」
「娘の前で逢引きですか!?」
「知らんぞ、そんなことはしていない!!それはお前が勝手に邪推しているだけだろう!」
「お母様、違うんです!恐らくは宰相補佐の一方的な恋慕かと!!」
カトレアは慌てて手を振った。
「廊下で彼がお父様の背中に向かって、『愛しています……』と小さく呟いていました!!」
――やんごとなき御方たちのお尻地獄はまだ、始まったばかりである。




