九話目
それから数時間経って、ほとんどの招待客が会場を去った今もアレクス殿下は戻られていない。特に主賓からの締めの挨拶などはなく自由解散の形式がとられているようだが、それにしてもエメセシル様を放置したまま戻って来ないと言うのは我が道を行くアレクス殿下の性格を考慮したとしてもおかしい。しかも、エメセシル様とダンスを踊る約束を自分から言いだしておきながら。突拍子もないことを言い出す方ではあるが、筋は通すタイプなのにな。
「……姫様、私達もお部屋に戻りましょう」
「……でも、約束したわ。一緒にダンスを踊って下さると。お願いルーシア、……もう少し、待っていたいの」
すっかり人が少なくなり一部片付けすら始まっている会場を見て、もうこれ以上ここにいても仕方ないと判断したルーシアが、エメセシル様を促す。しかし、最近はわがままを言われることもめっきり減っていた姫様が珍しく、ルーシアに懇願するように両手を組み合わせた。そのいたいけな表情に弱いルーシアが困惑して口を引き結ぶ。
しばし考え込んだルーシアが俺に助けを求めるように視線を向けた。
「ねぇ、エリック、少し周囲を様子を見に行ってもらえる?ここで待っていても、会場が閉じられてしまったらどうしようもないわ」
「わかった」
ルーシアと同じく会場の様子とエメセシル様の言動を見守っていた俺だが、ルーシアの意図を汲んですぐに頷いた。エメセシル様の切実な願いを考えると、会場から連れ出すにしても何かしら対応をしてからでないと納得して頂けないだろうというのは、長い付き合いの俺達からすれば一目瞭然だからだ。
エメセシル様よりは自由に動き回れる俺がアレクス殿下を探しに行って、姫様が待っていたことを伝えれば少なくともアレクス殿下も姫様に一言詫びに来てくれるはずだ。例え結果的にアレクス殿下が単純に忘れていただけだとしても、心配する姫様を安心させることは出来るだろう。
俺は一度姫様に会釈をして、片付けをする使用人の間を縫うように会場を後にする。
俺が会場を出てひとまず殿下の私室の方に向かいつつ、途中セイクリッドの騎士か使用人を捕まえてアレクス殿下の所在について尋ねようと考えていたところ複数の慌ただしい足音が聞こえて来た。
興味を引かれてそちらに視線を向けると、セイクリッドの騎士と思われる男らが数人廊下を行ったり来たりしているのが見えた。屋外にも出たのか、雨風を受けたことを示すようにその騎士装の一部がぐっしょりと濡れている。
「妃殿下は一体どこへ行かれたのだろう、最後に見たのは誰だ?」
「妃殿下付きの侍女も、いつ頃会場を出られたのか、どこへ向かわれたのかも把握されていないようです」
「使えん女中めが!もし重大な事故が起こっていたらどうするつもりだ!!」
……なんだ?やたら緊迫した雰囲気だ。妃殿下、と繰り返しているところを推測するに、王妃殿下か、メルヴィナ様に何かがあったのだろうか?
俺は何となく引っかかるものを感じ、その騎士達の行方を追いかけてみるか、しばし考え込んだ。アレクス殿下が姿を見せないのも、何か関連があるかもしれない。
ただ、俺はこの王宮の構造を把握している訳じゃない。一度通った道は覚えている自信はあるが、案内されたことのない領域に入ってあとから迷子になる可能性は十分にある。余所者が入ってはいけない領域に足を踏み入れて、国際問題になったらエメセシル様やルーシアにも迷惑をかける………いや、時には常識にとらわれない行動も必要だ。俺は今回は突拍子もない行動をとるアレクス殿下と、直感で行動をするルーシアに倣うことにした。
一瞬とはいえ出遅れた俺は、騎士達の向かった方向は分かったもののその先の行方を早くも見失ってしまう。だが、雨に濡れた足音が続いていることに騎士達が向かった先を判断し、俺は半分屋外に面している回廊に足を向ける。強い風が、回廊の奥まで雨を運び俺の騎士装もわずかに湿って来る。
再び分かれ道に出くわして、今度はどの方向に行こうか俺が判断に迷っていたところ、また別の足音が聞こえて来た。思わずその足音に振り返る。
「マ、マティアス殿下!?」
「君は……エリックか!どうしてここに?」
急いでいたらしいマティアス殿下の息はわずかに上がっていた。俺の姿を見つけ、驚いたようにその珍しい金色の瞳を見開いた。
やばい、異国人の俺が王宮内を勝手に出歩いていることを何と言うべきか……。
「それが、アレクス殿下が宴の途中で席を外されたまま戻られず、我が君が心配されていたので行方を尋ねようとして、迷っておりました」
下手な嘘をついても仕方ない、俺は結局正直に話した。
「アレクスもか……!?」
「……も、というのは?」
マティアス殿下の動揺した様子に俺は眉をひそめた。
「……宴の途中に、メルヴィナも姿を消したのだ。化粧直しに行くにしても、いつもなら侍女を伴うのだが、今日に限っては彼女がいつ席を立ったのか誰も把握していないようだ。私も最初のダンスを彼女と踊った後、恥ずかしいことだが他の貴族らと会話をしていて彼女に注意を払っていなかった」
「なるほど……しかし、王宮内におられるのは確かでしょう?それにしては騎士達もいやに慌てた様子でしたが……」
確かにその所在を誰も把握していないというのは、一大事ではある、しかしそこまで騒ぎ立てることだろうか?
「この王宮の構造上、今日のように激しい雨が降ると、滑りやすい危険な場所があるのだ。過去に事故が起こったこともある。しかも棟と棟を繋ぐ渡り廊下などはどうしても通らないといけない場所もあるからな、無事を急いで確認しなければならない。まぁ、まさかアレクスが足を滑らすなんてことはないだろうが、万が一ということもある」
……そんなに危険な場所があるなら、壁でも柵でも設ければいいのに。俺はしごく常識的な突っ込みを心の中でしながら、なるほどそれで王太子妃の所在が数時間分からないだけでこれほど大ごとになるのかと納得した。
「良ければ俺も探します」
「それは有り難い、騎士総出で探しているが、人手は多い方がいい。でもエリックも足場には気をつけてくれ」
「はい、分かりました」
拍子抜けするほど簡単に許可が下り、俺はマティアス殿下と一緒に王宮内を走り回る。
取り乱すマティアス殿下の様子から、心底メルヴィナ様の身を案じていることが見て取れる。本来なら自分の妃が行方をくらましたとしても、臣下に捜索を任せておけばいい話だ。それを外国人である俺にも協力を要請するほど冷静な判断を失い、一刻も早く見つけたい、という真摯な気持ちが伝わって来る。やはりマティアス殿下がメルヴィナ様を大切に想われているのでは、という俺の見立てにも狂いはないようだ。
「離れの塔に続く通路に、人が通った痕があったらしいぞ!」
「何だと?あそこは建付けが悪くなっているから最近閉鎖されたばかりだろ!?」
「天気読みくらいしか普段使わないからな、妃殿下はご存じなかった可能性もあるぞ!」
「どっちにしろ確認が先だ!」
再び騎士らの緊迫した会話が聞こえて来て、俺とマティアス殿下はハッとして互いに顔を見合わせた。
「離れの塔?」
「……天気読みが、気象観測に使う塔だ。最上階に寝泊まりが出来る小さな部屋があるだけで、それ以外は特に用途もない場所だが……」
「そんなところに、メルヴィナ様が行かれるでしょうか?」
「……分からないが、行ってみよう」
マティアス殿下は頭で考えるよりも、実際に目で確かめる方が早いと判断しているようだ。俺も異論はないので、マティアス殿下のあとに続いた。
いくつか廊下を曲がり、たどり着いた先に意外な人物の姿があり、俺は目を丸くした。
「ルーシア!?」
「エリック!?……マ、マティアス殿下!?」
なんでここに!?
塔に続く回廊の途中に慌てた様子で立っていたルーシアの姿を認め、俺は素っ頓狂な声を上げた。ルーシアも俺とマティアス殿下の出現に驚いているようだった。それにしても、なぜルーシアがここに一人でいるんだ?エメセシル様はどうしたんだ?
「アレクス殿下の行方を探して回っているうちに、お会いしたんだ。どうやら、メルヴィナ様も行方知れずのようで、マティアス殿下も心配して探されていたらしい」
「エメセシル王女が、この先に昇って行かれたようだが……?」
「……あ!そうなんです、姫様もアレクス殿下の姿が見えないことに居ても立っても居られないようで、ご自分で探しに……さっき騎士達がこの先の塔でお二人の内どちらかが見つかったような会話をされていて……」
俺よりも先にルーシアの存在に気付いていたらしいマティアス殿下はエメセシル様が塔の階段を昇って行かれる場面を見ていたようだ。その言葉を聞いて、いつになく大胆な行動に出られた姫様に俺は驚愕する。
「何だって!?ルーシア、姫様をどうして止めなかったんだ!」
「止めたわよ!でも、姫様いつになく頑なにアレクス殿下を探されて……」
「この先は建付けが悪くなっていて、最近閉鎖された場所だ。……行こう。二人がいるかは分からないが、エメセシル王女が足を踏み入れるには危険だ」
マティアス殿下の言葉に、ルーシアの顔が目に見えて青ざめていく。エメセシル様を止められなかった自分の迂闊さを責めているのだろう。だが反省するのはあとだ。
俺達は大急ぎで塔の階段を昇って行く。用途も気象観測のためだけという、それほど大きな塔ではない。苦も無く最上階まで辿り着くと、少し開けた空間に、分厚い木の扉があった。その奥が天気読みのための観測室兼、詰め所となっているのだろう。その木の扉の建付けが悪くなっていたのだろう、複数の騎士が剣を扉の隙間に差し入れこじ開けようとしていた。
その様子を、途方にくれた様子で階段を昇ったことで息を切らした姫様が立ち尽くしていた。
騎士らが必死に開けようとしている様子から察するに、少なくとも誰かしらが閉じ込められた形になっているのは間違いないようだ。
「俺達も手伝おう!」
人命救助に国が違うとか管轄が違うなんて言ってられない、俺はルーシアに目で合図を送りすぐさま手を貸そうと扉に駆け寄る。騎士達の努力で既にわずかに隙間が出来ているところに俺も手を差し込み、引いてみるが相当頑丈な造りらしく、分厚い扉はほんの少しだけきしんだだけだった。これは槌か何かで破壊した方が早いんじゃ……。そんな風に俺が考えを巡らせていた時―――。
「お、王太子殿下!?」
ルーシアよりも先に、俺と同じく隙間に手を差し入れる人物がいた。男の手にしては随分優美なそれが、意外なほど力強く扉を引いた。慌てて俺も力を込めて引っ張った。すると―――う、嘘だろ。それまで普段訓練で体を鍛えている屈強な騎士が何人も力を合わせて引いていたのに、わずかに隙間を開けるのがやっとだった木の扉が、ひしゃげ、音を立てて割れた。
ぐ、偶然だよな……?マティアス殿下、実はとんでもない怪力の持ち主なんじゃ……。
俺が信じられない思いで自分の両手と割れた扉を見ていると、騎士達の歓声が上がった。
「アレクス殿下!メルヴィナ様!」
そこには―――小刻みに震えているメルヴィナ様の華奢な身体を守るように抱きしめているアレクス殿下の姿があった。それも、夜会用の薄いドレスに身を包んだメルヴィナ様を、アレクス殿下のものと思われる男性物の上着が巻きつけられ、その肌を隠すように。体を丸め蹲っている二人の表情は、窺い知れない。
「……アレクス様」
「……メルヴィナ」
また別の男女の、呆然とした声が重なった。
戸惑っているのは、その二人だけじゃない。俺やルーシア、救援活動をしている騎士らも抱きしめ合っているアレクス殿下とメルヴィナ様の姿勢を認識し、どう声をかけていいか考えあぐねているようだった。
そりゃそうだ、王太子妃と王太子の弟の逢瀬にしか見えない場面に出くわせば。
「……どうやら助けが来たようだな。扉の鍵が勝手に締まっていたようでな、閉じ込められて困っていた」
周囲の物音に気付いたらしいアレクス殿下が、どういう自分達が状況で発見されたのかもまったく気にしていないようなそぶりで低い声音で呟いた。アレクス殿下の言葉に、メルヴィナ様もわずかに顔を上げた。その表情は土気色と言っても良い程悪く、鮮やかな紅い唇も今は紫色に変わっていた。意識はやや朦朧とされているようだ。
一体、どういう状況なんだ……?
だが、俺以上にその疑問を強く感じている人間がいた。
「アレクス殿下……ここで、一体何をされていたのです?」
怒りが滲む声だった。物心ついた頃からの長い付き合いである俺でさえも、これまで何回聞いたことがあるかというほど、冷たく、鋭い刃のような響きを含んだ。
「何をと言われても、ただ話をしていただけだ。お互いに何者かに呼び出されたようだが、その相手は待てど暮らせど来ず途方にくれていたら、雨風で体が冷えて敵わなかったからお互いを暖房代わりにしていたという訳だ」
これほどの怒気を含ませえたルーシアの問いにも動じないアレクス殿下は、本当に肝が据わっていると思う。実際俺なら平気ではいられない。
アレクス殿下の説明は一応筋は通っている。この部屋は窓も一部壊れているようで容赦なく雨風が入り込んでおりだいぶ冷え込んでいる。こんなところに数時間も閉じ込められれば、体温が奪われるのも当然で、閉じ込められた者同士体を寄せて暖をとるというのは、有効な手段だと言えるだろう。だが、理屈ではそうでも、感情では理解出来る内容じゃないよな。
「アレクス殿下……宴は終わってしまったのですよ。姫様はずっと、殿下のお帰りを待っておられたのです」
「ルーシア」
アレクス殿下の平静な返事に、ルーシアはさらに苛立ちを募らせたようだ。気持ちは分かるが、相手はこの国の王族、感情のまま不満をぶつけていい相手ではない。俺はさすがにまずいと思い、ルーシアを嗜めるが俺の声は届かないようだ。ルーシア、頼むから冷静になってくれ……!
「だから、閉じ込められていたと言っただろう」
さしものアレクス殿下も、ルーシアの刺々しい物言いに不快感を抱いたらしく、煩わし気に吐き捨て、メルヴィナ様ごと立ち上がる。そして、メルヴィナ様の体を自分の上着ごとやや乱暴にマティアス殿下に預けた。マティアス殿下は困惑した表情を浮かべながらも、メルヴィナ様を支えるように抱きとめた。メルヴィナ様はマティアス殿下の顔を一度険しい表情で見つめたが、疲れ切っているように大人しく寄りかかる。
メルヴィナ様をマティアス殿下に預けた後、やっとエメセシル様に向き直ったアレクス殿下は姫様に手を差し伸べた。
「……だが、ルーシアの言うことも一理ある。エメセシル、約束を反故にしてすまな……」
立ち尽くしていたエメセシル様が差し伸べられたその手に、びくりと体を震わせた。
「……触らないで!」
パシンっという乾いた音が響いた。
アレクス殿下の手を払った姫様は、逃げるように後ずさっていた。姫様が誰かに手を上げるところなんて、今まで見たことは一度もない。
可哀そうなほど震えているその細腕を、姫様は体をかき抱くように引き寄せた。
「触らないで……!他の女性を触れた手で」
「エメセシル……」
姫様は怯えたような声で、しかし再度はっきりと拒絶の意を示した。そのか細い声に、アレクス殿下の表情が常になく強張った。
「エメセシル様、違うのよ……!アレクスと私はそんなんじゃ……!」
緊迫した様子のエメセシル様とアレクス殿下の様子に、我に返ったようにメルヴィナ様が焦ったように声を上げた。
だがエメセシル様は何も聞きたくない、と全身で示すかのように首を大きく左右に振り、踵を返すと何かに追い立てられるように元来た階段を駆け下りて行った。
「姫様!!」
ルーシアが弾かれたように追おうとする。同時に動いた人物がいた。
「エメセシル!」
同じように、姫様の名を呼び階段へ駆け付けようとしたアレクス殿下に、ルーシアは顔を真っ赤にしこれ以上ないというくらい険しい表情で振り返り、制止した。
「分からないんですか!?今の姫様はあなたの顔も見たくないんです!姫様のことは私が守りますから!アレクス殿下はどうぞ、お好きな方とお好きなようにお話しなさっていては!?」
完全に理性が飛んでしまっているルーシアは、感情のままにアレクス殿下を叱り飛ばした。彼女のメリハリのある声が、塔の最上階に木霊すると、今度こそ躊躇わずに姫様を追って行った。
アレクス殿下はルーシアの声に、言葉を失い、動きを止めていた。
残された俺は、自分も二人を追うか、アレクス殿下にもう少し話を聞くべきか、判断に困っていた。その時―――。
「……あなたは私に何も言うことはないの?さっきから黙ったままだけど、この状況を見ても何とも思わないの?」
ややかすれてはいるがしっかりとした声音が、エメセシル様の一連の行動で時が止まったようになっていたその場の空気を、動かした。
明らかに体調が悪いのを堪えながら、しかしねめつけるような瞳で、メルヴィナ様はマティアス殿下をしっかりと正面から見据えた。まるで目をそらさせまいと言うかのように、マティアス殿下の衣装をしっかりと掴み、互いの呼吸すら感じとれるほどの距離で。
「……君が無事ならそれでいい、体も冷えていることだし早く休んだ方が……」
間近で見つめられ、マティアス殿下は作り笑いのような弱々しい微笑を浮かべ、僅かに体をそらしながら答えた。途端、メルヴィナ様の紅い瞳がさらにキッと吊り上げられた。
「……っ……!……私が聞きたいのは、そんな取ってつけたような上辺だけの言葉じゃないわ……!妻が夫の目を盗んで別の男と会っていたのに、あなたは何も感じないの!?」
「メ、メルヴィナ……?」
メルヴィナ様の剣幕に、マティアス様の秀麗な顔は明らかに動揺していた。しかし、目の前の射貫くような視線を逸らすことも出来ず、何かを言いかけては、口を閉ざす。
そのマティアス殿下をこれでもか、という気迫で睨み付けていたメルヴィナ様。しかし、その瞳がだんだん潤み、ついに、澄んだ瞳からこらえきれなくなった大粒の涙が、次々と零れ落ちた。
「……それほど、あなたは私のことなんて、どうでもよいということ……?だから私の声は一つもあなたに届かないの……?言葉にして駄目なら、私はどうやってあなたに気持ちを伝えたらいいの?」
「メ、メルヴィナ……?それは、どういう……」
悔し気に、唇を噛みしめながら泣く麗人に、マティアス殿下は混乱しているようだった。彼女の涙に慌てふためき、宥めるようにその肩に手を置いたマティアス殿下を、メルヴィナ様は思い切りはねのけ、その胸倉を掴んだ。
「本当に鈍い人ね……!私があなたを好きだと言うことよ!!」
「………!!」
そう言うや否や、メルヴィナ様は掴んだ胸倉をさらに引き寄せ、驚いているマティアス殿下に構わずその唇に自分の唇を重ねた。
長い口づけのあと、メルヴィナ様は子供のように泣きじゃくり、マティアス殿下の胸に顔を埋めた。
「……お願い、もっと私に関心を持ってちょうだい……夫婦なのに、どうして分かり合えないの……どうしたら、あなたに伝わるの?私を、遠ざけないで」
「メ、メルヴィナ……すまない……私は、ずっと君はアレクスと、愛し合っているものだとばかり……私は、勘違いをしていたのか……?知らずに、君を、傷つけていたのか……?」
か細い声で訴えるメルヴィナ様。まだ混乱から覚めていない様子で、呆然と呟いたマティアス殿下は、そうっと壊れ物に触れるような覚束ない仕草でメルヴィナ様の背に手を伸ばす。
「……君を……愛しても、いいのか……?」
「……!私はあなたの妻よ……、神にも許された仲だと言うのに、どうして愛し合ってはいけないの?」
メルヴィナ様は、そう呟くと、まだ恐々とした様子で自分を抱きしめるマティアス殿下を涙に濡れた目で再び睨み付け、自分からその背に手を回し強く抱きしめた。マティアス殿下の胸に額を押し付けるように顔を隠すメルヴィナ様から、堪えきれない嗚咽が漏れた。
―――すっかり出て行くタイミングを失っていた俺は、一連の流れをたまたま居合わせた騎士らと同じように、あっけにとられながら見守っていた。
目の前で、どうやら長年のわだかまりが解け心を通じ合わせたらしい夫婦に、水を差す気なんてもちろんさらさらない。出来れば、良い雰囲気を壊さずに、退散したい、そう思っていた矢先―――
「……盛り上がっているところ悪いが、マティアスお前に聞きたいことがある」
―――空気を読むことを知らない、約一名が、ものの見事に、ぶち壊した。
ア、アレクス王子……、あなたの辞書には遠慮という文字はないのか……?
「な、なんだ、アレクス?」
せっかくの良い雰囲気だったのに、いきなり水を差され、マティアス殿下も憮然とした様子でアレクス殿下に顔を向けた。いや、マティアス殿下以上に不満げな顔をしているのは、アレクス殿下の空気を読まない発言に涙も引っ込んだメルヴィナ様の方だ。それこそ親の仇でも見るような射殺さんばかりの厳しい視線を向けている。
「お前はセイクリッドの王位を継ぐつもりはないと言っていたな」
つかつかと足音高く、抱きしめ合っているマティアス殿下とメルヴィナ様に近づき、不躾と言っていい程真正面から二人を見据えた。
「そ、それは……!確かに、私よりも、お前の方が国民の支持を集めているし、能力的にも指導者に相応しいと思っていたが、しかし……!」
「つまり、自分は自信がないから王位なんて荷が重すぎると思っている、そういうことだな?」
アレクス殿下の糾弾するような視線に、マティアス殿下は思わずメルヴィナ様を庇うように体の向きを変えた。アレクス殿下はそのマティアス殿下を、何か挑発するような表情でねめつけた。
「ア、アレクス……!……お前の言う通り、私はずっと自分を情けなく思っていた、皆が望むなら、お前が王位に就くべきだと、私では分不相応だと……でも、メルヴィナのことと同じように、私が見落としていたことはまだたくさんあるのかもしれない。努力もせずに諦めるのは、間違っているのかもしれない……」
「マティアス……!そうよ、その通りだわ!あなたは、あなたが思っている以上に多くのことが出来るのよ。私が誰よりも知っているわ」
明らかにアレクス殿下の空気に呑まれつつも、マティアス殿下は自分の言葉を自分自身に言い聞かせるように噛みしめながら返事を返す。そのマティアス殿下の言葉にわずかに表情を明るくさせたメルヴィナ様が大きく頷きながら肯定した。
しかし、アレクス殿下はそんな二人の様子をは、と鼻で笑い嫌味な笑みを浮かべた。
「……単純なものだな、女の気持ち一つでころころと意見を変えるのか。王位を継ぐと言うことを、そんな薄っぺらい覚悟で引き受けてもらわれては、国民が不憫だな」
「アレクス……?」
アレクス殿下の物言いに、マティアス殿下も、メルヴィナ様も眉をひそめた。本当に、急にアレクス殿下どうしたんだ……?何がしたい?
「そんなに王位に就くことが気が重いなら、俺が代わってやろう。元々俺の役目だったものだ。お前の言う通り、俺が継いだ方がよほど物事は円滑に進むだろう」
「ま、待ちなさいアレクス、一体何を血迷っているの!?あなたはエメセシル様との婚姻で、アルカディアを導いて行かないといけないでしょう……?」
思いもよらないアレクス殿下の発言に、その場の誰もが目を丸くした。さっきまで土気色だったメルヴィナ様も怒りのためか、肌の色にやや赤みが戻って来ている。メルヴィナ様にはっきりと抗議されても、アレクス殿下は肩をすくめ、片手をひらひらとさせた。
「心配は無用だ。見ての通りついさっき、エメセシルには振られている。アルカディアには別の候補が立てられるだろうさ」
「ア、アレクス殿下……!?」
さすがの俺も、アレクス殿下の無神経な発言に困惑と怒りが込み上げて来た。この野郎、エメセシル様を散々不安にさせておきながら、一度拒絶されたくらいであっさり手のひら返しやがって……!!
「そういうわけで、遠慮はいらないぞ、俺がセイクリッドを引き受けてやるから、マティアス、お前は田舎でもどこへでも引っ込んで、好きな研究でもなんでもすればいい。……ああ、だが一つだけ言っておく、メルヴィナはお前の妃ではなく、王位継承者の妃だ。お前が王太子位から退くなら、俺に返してくれよ」
「ア、ア、アレクス………ふざけるのもたいがいにして!!」
完全に切れたメルヴィナ様が、身振り手振りでも大きく異議を唱えた。マティアス殿下はあまりの暴言の数々に、信じられないものを見るような目であっけに取られている。だが、肝心のアレクス殿下はあくまで涼しい顔だ。
「ふざけてなどいない、これがセイクリッドの流儀だ、臆病者の王も、無能な指導者もいらん」
「マティアスは無能なんかじゃないわ!!!彼が王位継承のためにどれだけ努力していたか、私は知っているもの!!!」
「メルヴィナ……!」
まるで地団太を踏むかのように、今度は悔し涙を浮かべながらメルヴィナ様は大声で叫んだ。そのメルヴィナ様の言葉にはっと我に返ったマティアス殿下が、改めてメルヴィナ様の肩をしっかりと抱き寄せた。
「……アレクス、お前の言う通り私は小心者で、決断力も遂行能力にも欠いている。だが、これからは気持ちを改める、もう弱音は決して吐かない。誰よりも努力し、必ず良い王になると誓う!だから、私にチャンスをくれないか……!!」
恥も外聞もかなぐり捨て、マティアス殿下はアレクス殿下に頭を下げた。しかし、アレクス殿下は、冷笑を浮かべ、耳を貸す様子はない。
「はっ、寝言だな。国の統治は子供の遊びじゃない、民を導くのに失敗は許されない。適合者である俺が最初からやった方がよほど上手くいくというものだ」
「ならば、私は必ずお前を越えて見せる!!絶対にメルヴィナも、民も失望させない!!!!」
ついに、カッと金色の双眸を怒らせたマティアス殿下が、その穏やかな気性からは想像も出来ない断固とした声音で、はっきりとアレクス殿下の発言を跳ねのけた。
その強い意志表示に、アレクス殿下は
―――満足げに笑った。
「―――言ったな。ならばそれを、王の資質を証明して見せろ」




