二話目
まるで蛇に睨まれた蛙のような心境で突っ立っていた俺を、その蛇、もとい、俺の最愛にして最恐の奥様が氷のような表情のまま大股で近づいて来て、有無を言わさぬ調子で俺の襟元を掴んだかと思うと、そのまま来賓室の中に引っ張り込んだ。
俺は久しぶりの再会にもかかわらず、かつての直接の主君であり護衛対象であったエメセシル様の前で、実に情けない様子で部屋に入る。
……ああ、俺がルーシアの尻に敷かれているのが丸わかりじゃないか。
だが、そんな俺の小さな虚栄心なんてルーシアの発言によって、次の瞬間には吹っ飛んだ。
「エリック、私は今日は王宮の自分の部屋に泊まるから、一人で帰るかあなたも右宮の宿舎に泊まるなりして頂戴」
「……そんな!い、一体何があったんだ?俺には何が何やら」
目をひん剥いて問いかける俺を、ルーシアは相変わらずこの上なく不機嫌な顔で見ている。お、俺が一体何をしたというんだ……。
「ルーシア、良いのよ。私の事は心配いらないわ、気にせず自宅に戻って頂戴。エリックも、休暇中なのに巻き込んでごめんなさいね」
ただならぬルーシアの剣幕に、見かねたのかエメセシル様が俺に気を遣って声を掛けて下さった。しかし、ルーシアは勢いよくエメセシル様に向き直ると、まるで俺の存在を無視するかのような口調でその言葉を遮った。
「いいえ、姫様、私は姫様とどんな時も共にあります。エリックなんて、その辺に転がしておけばいいんだわ!」
「だから、何があったんだよ!?どうして俺がそんな理不尽な扱いを受けなければならないんだ!!」
ついに俺の混乱も極まって、主君の前であるのに声を荒げてしまう。いや、本当に状況が分からないんだって!!
「アレクス殿下の派手な女性関係が明らかになったのよ!!男なんて最低だわ!!」
ルーシアの言葉に俺は耳を疑った。アレクス殿下の派手な女関係!?一体どんな会話が中で繰り広げられていたんだ!?
「そ、そうなのか!?っておい、だからと言ってそれで俺まで一緒くたに見るのはやめてくれ!」
「さっきメルヴィナ様を鼻の下を伸ばして見ていたくせに!!」
訳も分からず俺まで怒られ、目を白黒させてしまう。一体何のことだよ!?
「メ、メルヴィナ様??」
「セイクリッドの王太子妃殿下よ!!」
その彼女の言葉に、やっと俺は先程見かけた美しい女性のことを思い出す。た、確かに美人に見惚れてはいたけど……そ、それは決してやましい気持ちじゃなくてだな……!
思わず勢いを失う俺に、ルーシアは再びすっと目を細め、ほら、見なさいと言わんばかりの表情をする。ご、誤解だから!
しかし、弁解をする暇も俺には与えられず、ルーシアは俺にくるりと背を向ける。
「それよりも姫様!!私もセイクリッドに同行しますからね!!」
「ル、ルーシア!?」
断固とした口調で言い切ったルーシアに、エメセシル様も勢いに呑まれ、その美しいエメラルドグリーンの瞳を丸くしている。
セイクリッドに同行!?一体何の話だ!?
「将来のご夫君のお父上がお命の危機とあらば、姫様もアレクス殿下と共にセイクリッドに向かわれるのでしょう?私は姫様の近衛騎士筆頭として、いついかなる時もどんな状況であっても姫様をお支えする所存です!!ご心配なく、今はまだアルカディア国王陛下もご健勝であらせられますし、姫様が少しの期間アルカディアを離れられても何ら問題ありませんよ!!」
「お、おい!?ルーシア!?何勝手に決め……!」
「エリックは黙ってて!!」
再びぴしゃりと言葉を遮られ、俺はそれ以上続けることも出来ず、口をパクパクと動かす。
アレクス殿下のお父上、つまりセイクリッドの国王陛下が命の危機?!アレクス殿下とエメセシル様がセイクリッドを訪問する?その上、ルーシアがそれに同行する!?
断片的にしか得られない情報に、俺は必死で話に追いつこうと頭をフル回転させる。
そんな風に意識を飛ばしていた俺が気付くと、目の前では何故か感極まって泣き出した姫様と、その手をしっかりと握るルーシアの姿があった。
「ご安心下さい、姫様。私がいつでも側におりますから……」
「……ルーシア、……ごめんなさい、あなたにばかり頼ってしまって……でも、あなたが側にいてくれるなら、心強いわ……」
その弱々しい姫様の姿にルーシアもひどく共感した様子で、自分よりも体の小さい姫様を守るように優しく抱きしめていた。
……これは一体何のメロドラマなんだ?
自分の愛する妻と、絶世の美少女である姫様の抱擁に、俺が何とも気まずい気持ちで見つめているのを、当のルーシアは完璧に無視していた。
彼女達の口ぶりからは、二人がセイクリッドに行くことは決定事項になっているらしかった。
―――それから間もなく、どこからか戻って来られたアレクス殿下とエメセシル様はセイクリッド行きの許可を得るため、国王陛下の私室へと連れ立って向かわれた。殿下が戻られる頃には、エメセシル様もルーシアに宥められ落ち着かれていて、アレクス殿下とエメセシル様が言い争う様なことはなかった。ただ、心なしか、その空気感はぎこちなかったような……?
二人を見送った―――特に、アレクス殿下に対してはまるで昔からの仇敵を見るかのような鋭い目で見つめていたルーシアは、二人が見えなくなると矢も楯もたまらず、と言った様子でどこかに向かい始めた。
俺は、その彼女の腕を慌てて掴み、引き止めた。
「ルーシア!!」
腕だけじゃ振り解かれそうだったので、俺は仕方なしに少々強引だったが彼女の背と腰に腕を回し、抱き込むような形で拘束した。
一瞬たじろいだ彼女が、恥ずかしそうに俺を上目遣いに睨み付ける。場違いとは思ったが、その表情も可愛いと思ってしまった。
「ちょっと、エリック、私は急いでいるのよ、放して!」
「いやいやいや、ルーシア、落ち着け!!何をムキになっているのか知らないが、変なことに首を突っ込むなよ!!」
バタバタと俺の腕の中でもがく彼女を、俺は苦労しながら押さえつける。
「変なことって何よ!私は姫様の近衛騎士よ、主君が行くところにはどこへだって同行するわ!」
「だから!俺達が今休暇中だってことを忘れたのか!?姫様の旅行に近衛騎士が同行しないといけないのは、もちろん俺だって分かる。でも近衛騎士はお前一人じゃないんだし、今の担当者に任せておけばいいだろ!!」
「大事な姫様を他の人に任せてなんておけないわ!!」
全く聞く耳を持たない様子の彼女は俺の腕から何とか逃れようと、俺の体を押しのけようとしているが、力に関しては負けたことはない。中央宮の廊下で傍目には痴話げんかにしか見えないだろうことは分かっていながらも、俺はルーシアを相変わらずがっちりと押さえ込んでいた。ルーシアの耳が羞恥で赤く染まっているが、あとで何と言われようと今彼女を暴走させる訳にいかない。
「婚約者の昔の恋人が現れて不安に思っているに違いない姫様を、親友の私が支えて差し上げなくてどうするのよ!!男のエリックには、繊細な乙女心なんて分からないんだわ!!」
「いやだから、なんで王太子妃がアレクス殿下の昔の恋人になるんだよ!?」
たまりかねて俺は叫んだ。しかしルーシアも負けじと言い返す。
「アレクス殿下ご自身が認めたのよ!!」
「そ、そうなのか!?……い、いや、それにしてもだ!このことは、アレクス殿下とエメセシル様の個人的なことであって、外野のお前がそんなに熱くなって引っ掻き回すのはどうかと思うぞ!?エメセシル様が落ち着いておられるのに、どうしてお前の方が怒り狂っているんだよ!?」
兄王太子の妃が元恋人なんて、アレクス殿下も案外隅に置けな……い、いや、今の問題はそこじゃない。
俺の拘束から逃れられず、恥ずかしさと苛立ちの頂点に達していたらしいルーシアは、冷静さを完全に失っていたのか次の瞬間、思いもよらないことを俺に投げかけて来た。
「何よ、じゃあエリックは私が仮にあなたの昔の恋人に何か言われても、大人しく笑っていろとでもいう訳!?」
―――……はぁ!?
一瞬、そのあまりに非現実的な問いかけに俺は思考停止する。
ありえない。
何がって、昔の恋人、とか、その発想自体が。
だから俺の口をついて出たのは、紛れもなく、ありのままの告白だった。
「え……!……そもそも、お前以外を好きになったことがないから……そんなことある訳ない……」
俺の発言に一瞬、ルーシアは意表を突かれたように目を丸くし、そして次の瞬間、さっきまでの比では無い程顔を真っ赤にした。
「か、仮にって言ってるでしょ!!本気に受け取らないでよ……!」
まごつくように言ったルーシアの言葉の語尾がだんだん小さくなり、恥ずかしさに耐えられないとでも言うかのように、俺の胸に顔を隠すように埋めてしまった。
か、可愛いんですけど……!
俺は一度、コホン、と小さく咳払いして、落ち着きを取り戻そうと深呼吸をする。そして、俺達を好奇の目で遠巻きに見ている王宮付きの使用人達を睨みつけ、退散させた。
「……とにかく、落ち着こう、ルーシア。君の気持ちは、俺も理解したから。俺もアレクス殿下に呼ばれているから、あとで問題を整理しよう、いいな?」
俺は居住まいを正すと、一度ルーシアから体を放し代わりにその両肩に手を置いて、言い聞かせるようにその琥珀の瞳を覗き込んだ。
ややあって、観念したようにルーシアは小さく頷いた。まだその頬はうっすら桜色に染まったままだ。
「……分かったわ。でも、エリック、姫様は大切な主君であり、私の親友なのよ」
「……分かってる。まずは俺も、アレクス殿下に話を聞いてみるよ」
幾分聞く耳を持ち始めた彼女をこれ以上刺激しないよう、俺は極力冷静に言葉をかける。まるで幼い少女のように素直になった彼女に、俺は思わず口元を綻ばせ、労わるようにその栗色の髪が美しい頭をくしゃり、と撫でた。
事故で重傷を負って見舞いに行かないといけないのが、アレクスの父、セイクリッド国王でエメセシルの父アルカディア国王は元気です。分かりにくかったら申し訳ありません。




