第三十三話 己の命以上の価値
―――無我夢中で、馬を走らせていた。腕に抱えるエメセシル様を気遣うこともせず、ただひたすら前だけを見ていた。姫様をノルズ城砦に送り届けて、すぐさまルーシアの待つ場所へ取って返す。そうだ、やるべきことは至ってシンプルだ。ただそのことだけを考えるようにしていた。そうしていなければ、油断した俺の中の狂気が、守る対象であるエメセシル様までも攻撃対象に見立ててしまいそうだった。
ひたすら抑え込んでいるのに、悪魔のささやきが、姫様を放り出してルーシアの元に今すぐ引き返せと俺を苦しめる。何故、かけがえのない世界で一番愛しい女が命の危険に晒されている時に、他の人間なんか守っているんだと。騎士の使命なんて知ったことか、お前は取り返しのつかないことをしているんだと。永遠にルーシアを失うことになってもいいのかと。
そう悪魔が俺を唆そうとするたびに、俺は必死で別れ際に見たルーシアの笑顔を思い浮かべる。彼女の想いを汲んで彼女より姫様を守ることを優先する、と言った俺を、さも誇らしそうに笑ったその笑顔を。
そうだ、一体何のために、どんな想いで今彼女がその命を懸けていると思うんだ。どんな時でも正しく騎士であろうとする、彼女の決意を無駄にするのか!?俺は自分を叱咤する。
余計なことは何も考えるな、エメセシル様をアレクス王子に託したら、彼女を救いに行く。それだけだ。ただそのことだけを考えろ。お前の身勝手な望みなんて知ったことか!本当に彼女を愛しているなら、彼女の生き様ごと愛して守り通して見せろ!!
荒れ狂う波に抗っているような、弄ばれているような心境で俺は何度も自分の胸を掻き毟った。食いしばった歯の間から、血の味がした。
―――俺の心の中で渦巻く葛藤を、姫様も理解して下さっているんだろうか。随分乱暴にとんでもない速さで馬を走らせているのに、文句の一つどころか俺に話しかけることもない。不安と焦燥に苛まれているのは、俺だけではない。分かっていても、今の俺には姫様にほんの僅かな気配りすら出来る余裕はなかった。
まるで俺達を追い立てるように、陽が沈んでいく。ノルズ城砦までの距離を夜通し、俺は休むこともなくただがむしゃらに馬を走らせた。
―――ノルズ城砦に辿り着いたのは深夜過ぎだった。暗闇の中に、城砦の門番の掲げるたいまつの炎だけが浮かび上がっていた。俺は安堵した。少なくとも、アレクス王子は既にノルズ城砦に到着していたようだ。
「―――何者だ!」
門番の兵士がとてつもない勢いで駆けて来る騎馬に気付き声を掛けて来る。俺はその門番の顔が見える位置まで近づいたところでやっと、馬の速度を落とした。
「アルカディアの者だ!エメセシル王女をこちらにお連れする間に暴漢に襲われ、馬車を捨てて来た!主君エメセシル様の保護をお願いしたい、夜分に申し訳ないがアレクス王子に取り次いでくれないか!」
俺が馬上から兵士に返事をすると、その兵士は憔悴しきっているエメセシル様の様子を見て慌てたように「しばしお待ちを!」と城砦の中に入って行った。深夜の来訪で門前払いされることも予想していたので、兵士が俺達を疑うこともなく取次に行ってくれたのは心底有り難い。
「エメセシル様、ご無理をさせて申し訳ございません。もう少しのご辛抱です。まもなくアレクス王子が姫様のお身柄を保護して下さるでしょう」
「……ええ、私のことはいいのよ。それよりも……ああ、ルーシアが心配だわ……」
「………はい」
立て続けに起こった衝撃的な事件に加え長い時間馬に揺られて、エメセシル様は相当参っているようだった。相変わらず血の気のない顔で、かろうじて意識を保っておられるようだ。かくいう俺も、傍目にはひどい様相に違いないが。
門番の兵士が中に入って十数刻で、その兵士が別の騎士らを連れて戻って来た。
「アルカディア王国のエメセシル王女様と、近衛騎士の方ですね。我が主君より、お話は伺っております。アレクス殿下がお会いになりますので、どうぞこちらにおいで下さい」
現れた騎士に促され、俺は乗って来た馬を兵士らに預け、よろめきながら歩く姫様を支えながら騎士に案内されるまま城砦内を進んだ。
「―――予定よりも到着が遅れていたからな、気になっていたところだ。無事に辿り着いて良かった」
「アレクス様。深夜の突然の訪問、申し訳ございません」
「……気にするな。お前が無事ならそれでいい」
アレクス殿下が居室代わりに使用している部屋に通され、エメセシル様は疲労困憊の体を押して跪くように挨拶をした。俺はその後ろに傅いて控えていた。そんな俺達の様子を夜中に叩き起こされたにも関わらず気にした様子もなく、夜着にガウンを羽織っただけのアレクス王子は一人掛ソファから素っ気ない返事を返した。
「エリック・カーシウスかご苦労だったな。見たところ、護衛はお前だけか?」
「……は、途中反国王派の追手らしき輩の襲撃に遭い、仲間を失いました。馬車を引く馬も死にましたので、こうして単騎で姫をお連れするよりほかにありませんでした」
「……そうか、それは難儀だったな。俺も配下の報告を受けて、アルカディアで起こったクーデターの話は聞いている。話は明日、改めて聞こう。明日中にテオドールも到着するだろう。今はゆっくり休むといい」
アレクス殿下はそう言うと自分の近習に俺達の寝所を準備するように命じた。
「殿下、お気持ちは有り難いのですが……殿下にお願いがあります」
「なんだ?それは今でないといけないことか」
「俺にとっては一刻も無駄に出来ない大事なことです」
傅いたまま俺が言うと、アレクス殿下はすっと目を細めた。
「言ってみろ」
「アレクス殿下の所有する、一番体力のあり一番速い馬を俺に貸して下さい」
「……何だと?」
アレクス殿下の眉が不審げにひそめられたのも構わず、俺は続けた。
「姫様の近衛騎士の一人である俺の婚約者が、道中敵の襲撃のため負傷し救援を必要としています」
「……あの女騎士か。馬車を失いエメセシルの避難を優先し残ったということか。なるほど、騎士の鑑だな。しかし、それは今すぐでないといけないのか。その騎士は命に係わる怪我を負っているのか?もし、そうであれば救援を向かわせたとて、無駄足ではないのか?」
アレクス殿下の淡々とした物言いに、こみ上げてくるものを堪え、俺は奥歯をギリリ、と噛みしめる。
「……すぐに命に係わる負傷ではありません。しかし、いつまた敵襲が彼女を襲うかもわかりません。一刻も早く助けてやりたいのです」
「そうか。……なるほど、お前の言い分も分からなくはない。しかし見たところお前自身ろくに寝ていないのだろう、疲労困憊のようだ。そんな状態で行っても、お前が途中で野垂れ死ぬのがオチだぞ。それに、昨日俺の配下がお前の言う反国王派らしき一派に出くわし一触即発だったらしいからな。お前一人で行く事自体危険だ」
「危険など承知の上です!」
思わず俺は声を荒げた。そんなことは百も承知だ!でもだからこそ、一刻も早くルーシアを迎えに行かなくちゃいけないんだ!
「案ずるな。見捨てるとは言っておらん。明日俺の配下に隊を編成させ救援部隊を送ってやろう。だからお前は安心して休め」
「そうですよ、近衛騎士殿。今は貴公しかエメセシル王女の側についていられる人間はいないのですよ、騎士として主君の側で警護をするのが第一の役目でしょう」
「我らがセイクリッドの部隊を信頼して下さい」
「今は王女殿下と共に、体を休めて下さい」
「……エリック……」
アレクス殿下の言葉に殿下の側近らしい騎士も意見を重ねた。それにつられて、周りにいたアレクス殿下の近習たちも俺を宥めるように声を掛けて来る。エメセシル様も、困惑した表情で俺を見つめていた。
―――うるさい。
俺の中の苛立ちは最高潮に達していた。騎士としての心得とか、俺の体の心配とか、今はそんなことどうだっていい。
「……アレクス殿下、重ねてお願い申し上げます。どうか俺に、一番丈夫な馬を貸して下さい。今は一瞬たりとも時間を無駄にしたくありません」
「無礼な!殿下が明日、救援部隊を派遣して下さると言っているだろう!貴公は騎士として主君の側を離れるつもりか?!」
そのセイクリッドの騎士の言葉に、俺のかろうじて堪えていた理性の糸がぷつりと切れた―――。
「………うるさいな!!自分の命よりも大事な女が危険に晒されているんだ!!!今の俺にそれ以上に重要なことなんてない!!!騎士の正しい在り方なんてくそくらえだ!!!」
思わずそう怒鳴りつけ、拳を床に叩きつけていた。俺の剣幕にひるんだ騎士らが、一瞬息をのみ押し黙った。
「誰でもいい、馬を貸してくれ!時間が惜しい!!」
俺はそう叫ぶなり立ち上がり、アレクス殿下の部屋を暇乞いもせずに立ち去ろうとした。
「エリック……!!アレクス様、私からもお願いです、エリックに協力して下さい!!ルーシアはエリックを待っているに違いないんです!!」
エメセシル様の嘆願するような声にも、俺は振り返らず騎士や近習らがあっけに取られる中を足早に進んだ。
次第に俺の尊大な態度に不満を感じた騎士らがざわめき始める。邪魔をするなら、強行突破も辞さない、そう俺が剣の柄に手を掛けた、その時――――。
「……っふははははっ!!エリック・カーシウス!!お前はなかなか気骨のある奴だな!!気に入ったぞ!!!」
という、アレクス殿下の上機嫌な笑い声が返って来た。俺もその声の大きさに思わず振り返った。そこには、満足げにふてぶてしく笑うアレクス殿下が立っていた。
「いいだろう!!俺の馬を貸してやる。セイクリッド一の名馬だ!!遠慮なくお前の命よりも大事な女を迎えに行くがいい!!」
アレクス殿下はそう豪胆に言い放つと、自分の馬を門前に準備するように部下に素早く命じた。主君の思わぬ判断に、セイクリッドの騎士らは困惑したように静まり返った。
俺は礼を言う代わりに、深く頭を下げた―――。




