第三十二話 命の天秤
マクシミリアンの亡骸を獣に喰われることがないようせめてもの弔いとして土に埋め、彼の剣を墓標代わりに立てた後、俺は仲間を喪った悲しみに暮れるルーシアとエメセシル様の側に歩み寄った。もちろん、俺とて信頼する友の死の喪失感に襲われていたが、それでも立ち止まっていられない状況でもあることを強く自覚していた。こんな短期間の間に二度も襲われたのだ、今また敵の新手が俺達に迫っているかも分からない。
「……ルーシア、お前も脚の手当てを……」
自分でも驚くほど、掠れた弱々しい声だった。ルーシアは、涙が引いた後も呆然と地面を睨み付けたままで、返事をしなかった。俺は構わずに彼女の負傷した脚を取り上げ、その部分の彼女のズボンの布を引き裂くと、アルコールで傷口を消毒し清め、包帯を巻いて行った。ルーシアは抵抗もせず、言葉を発することもなく思い詰めた表情のまま俺の作業を淡々と見守っていた。彼女自身、何かを思い巡らせているように見えた。
その深刻な、悲愴感さえ漂う彼女の様子から、じわじわと俺にも得体の知れない不安が伝染していくようだった。俺は込み上げてくる悪い予感をすんでのところで抑えていた。
ちらりと盗み見たルーシアの横顔が、その真摯な光を宿す琥珀の瞳が、彼女が何か重大な決意を固めたことを物語っていた。いや本当はこの時、俺には彼女が考えていることが手に取るように分かっていた。否定したかったのだ。どこまでも真面目な彼女の、高潔な騎士であろうとするその、決意を。
―――どうか、俺の予感が当たらないでくれ。お願いだから口に出さないでくれ、君が今、考えていることを。それを聞いてしまったら、後戻りが出来なくなる―――。
ふいに彼女が顔を上げた。その顔は、どこまでも透明な強い意志に満ちていた。俺は息をごくりと呑み込んだ。
「……エリック、姫様と先に行って……」
―――俺の願いはあまりにあっけなく、破られた。
とうとう彼女から、恐れていた言葉が放たれてしまった。
「……何を言っているの、ルーシア!?怪我をしているあなたを置いてなんていけないわ!!」
俺と同時に鋭く息を呑んだエメセシル様が、堪らずに叫んだ。
ルーシアの意図を理解出来ていない姫様だからこそ、自分の気持ちに正直にルーシアの言葉に真っ向から異を唱えることが出来るのだ。
「……一頭の馬で3人も乗せれば、速度も落ちるし、馬もすぐにばててしまいます。今は何としても、姫様を安全な場所にお連れすることが第一です。負傷している私では、姫様をお守りすることはおろか、足手まといにしかなりません」
彼女の言葉は、紛れもなく正論だった。先程の戦いで、敵が俺達に放った矢が馬車の本体や車輪を傷つけるだけでなく、引いていた馬の内3頭も殺めてしまっており、残っているのはたった1頭だけだった。この状態で、3人同時に移動することは難しい、いや実質的に不可能だった。とはいえ馬で移動出来なければ、敵の追手に見つかる前にノルズ城砦に辿り着くことは絶望的だ。ルーシアは俺に、残った1頭で姫様をノルズ城砦に連れて行けと言っているのだ。俺達がここを去ってしまったら、自分がどれだけ危険に晒されるかも見越した上で。
騎士としては正しい判断だ。何も間違っていない。そうだ、俺も正しく騎士であろうとするなら、彼女の言葉を称賛しこそすれ、拒否するなんて出来ない。ああ、だけど―――!
「それでもよ!私も、自分の身を自分で守るようにするから、馬が駄目なら、歩きだって構わないわ、だからお願いだからそんなこと言わないで、一緒に行きましょう!」
ルーシアの言葉の意味を分からない愚かな方ではない、しかし長年共に過ごして来た姉とも慕うルーシアを喪うかもしれない恐怖に居ても立っても居られないのだろう。信頼していた侍女も、身近な近衛騎士らも次々と失った姫様がルーシアに縋る気持ちは俺にだって痛い程理解出来た。しかし、当のルーシアはその姫様の必死の説得にも動じず、まるで全てを悟っているかのような静かな表情で見つめ返していた。
「……いいえ、国王陛下の身柄がバレン公爵に支配されている今、この上あなたまで敵の手に落ちてしまえば公爵を止める術はありません。あなたには王族として、この混乱を鎮める使命がおありです。一介の騎士のために、個人的な感情でご自分の身をさらに危険にさらすことは許されません」
「……ルーシア!」
「そして私達騎士は、負傷者は戦場に置いていくように教えを受けています。私が怪我を負ったことは私自身の落ち度に他なりません。どうぞ、捨て置いて下さい」
あくまでも淡々と、まるで人ごとのように続けるルーシアの言い分に、姫様の顔色は見る見るうちに青ざめ血の気を全く失ってしまう。言葉もなく彼女達のやり取りを見守っていた俺に、姫様は一縷の望みをかけたのか、必死な顔で振り返った。
「エリック、あなたからも何か言って……!ルーシアはあなたの婚約者でしょう、大切な人を置いてなんていけない、そうじゃないの!?」
俺を責めるようなエメセシル様の鋭い声音に、俺はさらに混乱する。
そんなことは分かってる。言われなくても俺が、一番思ってる。だって彼女は俺の―――最愛なのだ。
ふいに見上げた俺の視線と、彼女の視線が―――かち合った。
彼女のひたむきな想いが、姫様を守りたいという強い感情が、騎士として正しくありたいという誇りが、俺に容赦なく襲い掛かる。お願いだ……そんな目を、俺に向けないでくれ!!!
本当は、思い切り否定したかった。騎士の誇りなんてくそくらえだと、俺が守りたいのはお前なんだと、そう言ってしまいたかった。でも―――出来ない。彼女の魂を踏みにじることは、誰にも許されない。
俺の身勝手な願望と、彼女への狂おしい程の愛情、彼女から伝わって来る確固たる意志が俺の中で暴れ、互いに呑み込み合いながら渦を巻く。今にも爆発してしまいそうだ!―――そんな、刹那とも永遠とも言える攻防―――そして。
―――俺は、彼女から、目線を逸らした。
「……姫様、彼女の言う通りです。今俺は、ルーシアより、あなたの身の安全を優先しなければなりません……!」
体中の血が逆流したかと思うくらい、強烈な吐き気に襲われていた。わずかに残った理性が、俺の全身が吐き出した言葉をすぐさま撤回してしまいたいと抵抗するのを、死に物狂いで抑えていた。
だって―――君が笑うから。
俺の言葉に、満足そうに、誇らしげに、君が笑うから。君を、君の心を何よりも守りたいから。
なんで、こんな時でさえ、君の笑顔は何よりも美しいんだろう……!
「そんな……!」
俺の言葉に絶望的に呟いたエメセシル様が、とうとう両手で顔を覆い地面に頽れた。その姫様をルーシアが宥めるように寄り添いながら、俺にも視線を向けた。もはやその目には迷いのかけらもない。
「こうして会話している間にも、時間を消耗してしまいます。エリック、私のことはいいから、早く準備を」
「……分かった」
俺は返事をしながら、心を凍てつかせようと決めた。今は彼女のために俺の卑しい望みなど、固く封印してしまおう。
ひたすらに無心に徹した俺は残った一頭の馬の装備を、姫様を乗せれるように二人乗りのものに淡々と交換して行く。背中ごしにルーシアの姫様を気遣う声を聞きながら。
「姫様、大丈夫です。ここからなら、半日ほどでアレクス殿下の待つ砦に辿り着けますよ。ご不便かと思いますが、もう少しだけご辛抱下さい。エリックはあれでも優秀な私達のリーダーですから、彼に任せておけば、万事問題ありません」
……やめてくれ、今はそんな言葉聞きたくない。俺は、君の思う理想の騎士とは違うんだ。俺の心の中はこんなにも薄汚れている。
「……どうして……」
ぞっとするような、呪いを吐くような声音だった。姫様から発せられたとは、とても思えないほどの。
「どうして、そんなに冷静でいられるの!?どうして平気なの!?」
糾弾するような、全身で叫んだ姫様の悲痛な叫びに、堪らずに俺は一瞬動きを止めた。ああ、もうやめてくれ!苦しくてたまらない!!
そう、叫びだしそうになった俺をすんでで押し止めたのは、やはり君だった。
「―――だって、私達はあなたの騎士ですから」
凛とした声で、迷いなく君は言った。その潔さが、汚れ無き心が、俺はどうしようもなく愛おしくて、どうしようもなく―――憎らしい。
―――準備を終え、俺はエメセシル様を馬上に乗せた。とうとう観念した姫様も、気力を無くしたように俺の誘導に大人しく従った。
ふいにルーシアに視線を向けると、彼女は俺達を見送ろうと痛むだろう脚の怪我を押して近くの木を支えにして立っていた。その姿を見て、俺の中で何かが―――振り切れた。
「……ルーシア!」
感情のままに俺はルーシアに大股で近づいた。この時の俺はおそらく、鬼のような形相になっていたに違いない。だがもう今の俺には何も構うものはなかった。
「……言っておくが、俺はお前を諦めた訳じゃない。必ず救援に来るから、俺を信じて待っていろ」
険しい顔を取り繕うこともせず、俺は感情に任せて彼女にぶっきらぼうに吐き捨てた。そうだ、もう既に賽は投げられてしまったんだ。それならば、その先の未来は自分の力でむしり取るしかない。
ルーシアは俺の言葉にひどく驚いたような表情をした、そしてまるで「無理をしないで」とでも言うかのような穏やかな顔で微笑んだ。
「……エリック……!……ありがとう、でも今は姫様を守ることにだけ集中して欲しい」
「…………っ!」
それまでかろうじて保っていた理性が、ぷつりと音を立てて、切れた―――。
「……馬鹿、野郎がっ……!!」
俺は無我夢中で目の前のルーシアの体を引き寄せ、力の限りきつく抱きしめた。全力で、彼女が苦しそうに息を呑むのも構わずに、ありったけの想いを込めて。
「エリッ……」
―――彼女の喘ぐような苦し気な声を聞いて、ようやく俺は彼女を離した。突き放した、という方が正しいくらい引き寄せた時と同じ乱暴さで。
それ以上はもう彼女の顔を見ることさえ無理だった。俺は目も合わさずに彼女から背を向け、姫様の待つ馬の方へ歩き始めた。
「……無事でいろよ……!!」
俺の願いは、たった一つだけだ。その一つだけでいい、彼女に届いてくれるなら。
勢いよく馬に飛び乗ると、俺とルーシアのやりとりに可哀そうなくらい困惑している姫様が俺達を見比べた。俺は構わず手綱を手繰り寄せた。
最後に、君とまた目が合った。
―――どうか、俺が君を迎えに来るまで無事で。
彼女に送る視線に、全身全霊の想いを込めたあと、俺は手綱を強くしならせた。




