第三十四話 君がいなければ
―――逸る気持ちを抑え、再び俺は元来た道をアレクス殿下に借りた馬で、死に物狂いで駆けていた。殿下がセイクリッド一の名馬と評するだけはある、もう何時間も走っているのにこの馬は少しもペースを落とすことなく、疾風のごとく駆けて行く。それでも、俺には随分遅く感じられた。
アレクス殿下は、昨日ノルズ城砦の周辺にも反国王派の追手が迫って来ていると言っていた。セイクリッドの軍とやり合わなかったのは、他国との衝突は反国王派が避けているということか?だが一体、どれだけの追手を放っていやがるんだ。こんな数日の間に、立て続けに接触してくるなんて。
心臓が嫌に激しく脈を打っている。
追手はまず、俺達が敵の罠にかかったのかどうか、俺達をおびき寄せたあの水車小屋のある場所を探すはずだ。そこには、脚を負傷し遠くに動けないルーシアがいる。他国の軍には手を出せなくても、王女付きの近衛騎士であるルーシアには容赦しないだろう。人質にするか、それとも……!
嫌な予測ばかり俺の頭を次々と過ぎる。ああ、不安で気がおかしくなってしまいそうだ!
もう何日も眠っていない状態で昼夜問わず馬を走らせているのに、俺の気は昂ったままでまるで常に火花が体中を弾けているような、奇妙なエネルギーが駆け巡っていた。感覚の一部分だけがやけに研ぎ澄まされ、それ以外の感覚が全部麻痺しているようだ。疲れも空腹も、喉の渇きさえも感じない。ただ、意識が彼女のことだけに集中している。
―――どうか、無事でいてくれ。
俺は、天を仰ぎながら全身全霊で祈った。想いだけで彼女を守れたらいいのに。
『……もし、主君の命か、愛する者の命のどちらか一つしか助けられない状況に陥ったとしたら、君ならどうする?』
こんな時に、いつかバレン公爵に聞かれた問いが、頭に浮かんで来る。主君と、愛する者の命のどちらか一つしか助けられなければ、どちらを選ぶかと。あの時俺は、想像だけでどちらも守り切ると言った。その気持ちは紛れもない、本心だった。なのに、ああ、バレン公爵の言う通りだ。現実はかくも残酷で、俺に選ぶことすら許さなかった。
彼女の命を優先すれば、彼女の騎士としての誇りを踏みにじることになる。彼女の精神を尊重すれば、その命を危険に晒すことになる。
……ひどい話だ。まるで運命の女神が俺達を弄んで、嘲笑っているようだ。
―――まだだ。俺は彼女を完全に失ったわけじゃない。
俺は弱気になる自分を叱り飛ばし、言い聞かせた。今は、彼女の元に出来るだけ早く辿り着くことに集中しろ―――!
少しずつ白んで来る東の空を背に、俺はさらに馬を加速させようとその腹を蹴った。
―――復路を半分以上過ぎたくらいだっただろうか、俺の進行方向に複数の騎士が現れた。紛れもなくアルカディアの正騎士だ。しかし、顔なじみのない奴らだ。反国王派かどうかは分からない。
「そこの騎士止まれ!」
その騎士らは俺の行く手を阻むように、立ち塞がった。
「その制服は、王女エメセシル付きの騎士か!王女はどこにいる?」
俺に向け剣を抜いた騎士らを見て、彼らが反国王派に間違いないと俺は確信する。俺も馬を走らせながら剣を抜く。
「お前らの目的は何だ!!なんでバレン公爵はクーデターなんて起こしている!!」
「上の奴らの考えなんて、下っ端の俺達は知らないさ。俺達はただ、上官のネルソン将軍が軍主導の強い国にこのアルカディアを改革すると仰るから、それに従っているだけだ」
「ネルソン将軍……?!」
マクシミリアンが生前に俺に警告してくれた、王国軍内の保守派筆頭である人物の名を耳にし、俺はまるでパズルのピースが合わさって行くように感じた。バレン公爵と、ネルソン将軍が共謀して国王陛下に反旗を翻したのだ、軍主導の政権を作るために―――?!
「水車小屋の方を見に行った連中には悪いが、張っていた甲斐があったな。王女の場所を吐いてもらうぞ」
騎士の一人の言葉を聞き、俺は戦慄した。こいつらの他に、俺達を罠にかけた水車小屋に向かった奴がいる―――?!そこには、負傷したルーシアが!!
「……そこを、どけ!!お前らの相手に時間を取っている場合じゃないんだ!!」
叫ぶが早いか、俺は馬を操り地面を跳躍し、上空から敵の頭上に剣を振り下ろした―――。
突撃した勢いのまま俺は騎士の一人を落馬させ、また別の騎士を一太刀のもと切り捨てる。さらに追って来た騎士も、逆手に突きあげた剣で急所を一突きにした。どんな手練れも今の俺の勢いを止めることなんて出来やしない。俺の気迫に呑まれた残りの騎士は、恐怖に竦んだのか後を追ってくることすらなかった。
……今は敵を全滅させることに拘っている場合じゃない。最早一刻の猶予もない。
「ルーシア!頼む……!間に合ってくれ!!」
全速力で走っているのに、やけに時間が流れるのが遅く感じる。背中に嫌な汗が噴き出して、騎士装の内側に着込んだ鎖帷子と肌の間のシャツを不快に濡らしていく。
体が重い、まるで鉛のようだ。意識を集中しなければ視界が憤怒と焦燥、不安、苛立ちで真っ黒に染まってしまいそうだ。
ルーシア、君を失いたくない。―――俺は、まだ君に直接愛してるとさえ伝えられていない。君がいなければ、俺の人生は虚しいだけだ。君を助けることが出来るなら、例えそこでこの命が尽きたって構わない。君の存在がいつだって俺を奮い立たせるんだ。だから、どうか―――!!
―――林を抜け、道の悪い岩場を抜け、荒野をひた走りようやく遠目にマクシミリアンが火薬で破壊した水車小屋の残骸が見えて来た。
そのほど近い場所、木々が乱立している辺りに複数の人影が見えた。そのうちの小柄な人間を取り囲み、覆いかぶさるように抑え込んでいる男らを見て、俺は体中の血が沸騰したような心地だった。
複数の男に組み敷かれているのは、俺の愛しい婚約者だ。彼女は自由にならない手足でも、精一杯の抵抗をしようとしているのか、目の前で彼女を押さえつける男の首筋に死に物狂いで噛みついた。ひるんだその男が、彼女を力任せに突き飛ばした。それだけでも許しがたい。堪えようのない怒りが全身を駆け巡る。しかし、次の瞬間俺を襲ったのは、形容しがたいほどの恐怖だった。
男に突き飛ばされたことで、男らからわずかに距離をとることに成功したルーシアが、彼女の髪を縛っていた、銀の簪を一気に引き抜いた。彼女の美しい栗色の髪がばさりと宙に広がった。俺は目を瞠った。心臓を鷲掴みにされたような衝撃だった。
『随分先が尖っているんだな……、危なくないか?』
『ちょっとね……、でもお父様に頂いた、お守りのようなものだから』
いつかのトーナメントで、彼女と交わした会話が脳裏に蘇る。
あの銀の簪は、彼女の父テオドール閣下がルーシアの正騎士叙任のお祝いとして贈ったものだ。王国唯一の女騎士である愛娘が、戦場で敗れた時にその名誉を汚されぬように。最後の最後まで、穢れなき体を守れるように。
ルーシアは天を仰ぎ、その簪を確認するように一度首筋にあて、そして大きく掲げ持った―――!
―――駄目だ!!!ルーシア、俺は君を失えない―――!!!!
まだ、君まで遠い。走っているだけじゃ間に合わない。
「ルーーシアーーーーー!!!!!!」
この喉がつぶれようが張り裂けようがかまわない、ありったけの力を込めて俺は彼女の名を叫んだ――――




