8話 そして舞台は幕を上げる
夢の中、白でも黒でもない空間、ラインは、一つの言葉に耳を傾けていた。
〔忘れないで〕
何を?
〔あなたは選ばなくてはならない〕
選ぶ?
風に乗って聞こえてくるその声は、少女のものだった。
その声はどこか寂しく語りかけ、声にラインはただコタエを求めてしまう。
手に頬を添えるような、ふいに思う出す母を思うかのような柔らかな声に。
〔セカイがあなたに示す宿命を、あなた自身が選ぶ時が迫っている。
それは揺るぐことのない事実、避けることのできないセカイの流れ〕
わからない。
〔今はね。でも忘れないで、希望を、あなたの側にいる人のことを〕
ラインは傍らへと視線を移す。
そこには誰もいない。けれど、いてほしい誰か、それはいるのだと心が訴える。
声は多くを語らない、それでも何となくラインは感じていた。
この声の主は願っているのだと。
希っているのだと。
そして、声は最後に、言葉を残す。
〔二人ならば、きっと越えていけるはずだから〕と。
夢から目覚め、ラインは長いため息をもらす。
まるでずっと水に浮かんでいたような、宙に浮いていたような奇妙な感覚。
身体が重いわけではない、まるで揺さぶられ方向を見失い酔ってしまったのような。
ラインは顔から噴出す汗を拭い、目覚まし時計を手に取った。
「……あ、あれ?」
その目に映るのは、クラレスとの待ち合わせ一〇分前を刻む時計の姿だった。
思わず時計を裏返す、電池は入っていた。
もう一度、時間を確認する。待ち合わせまで、九分前となっていた。
だんだん血の気が引いてゆく、顔面蒼白、ラインの頭の中にそんな文字が浮かんでくる。
「いっ!?」
これから準備をして待ち合わせ場所まで行くには、急いでも三〇分はかかる。つまり、完全に遅刻ということが決定していた。
涙を浮かべて佇むクラレス、怒りに震えるアニス、その隣で本を読むターコイズ。そんな図式が脳裏に描写される。
「やばい!!」
ラインは部屋着を脱ぎ捨て、必死に制服のズボンに足を通していく。
部屋と頭をかき乱す焦燥、そのときには、すでにラインの中からは夢のことは消えていた。
「ライン遅い」
俯いたクラレスの口から、ボソリと言葉が発せられる。
沸き立つ歓声、緊張感の漂う空気。ヴェルシュピネの東端、会場である闘技場に到着したのは約束の時間からすでに二〇分が経過していた。
(がんばった、ぼくは、がんばったけど――)
すでに開会式も始まろうとしており、アナウンスや音楽が会場外にも響いている。
その闘技場の門の前、一人クラレスは待ちほうけていた。
「ご、ごめん、本当に」
焦りなのか、限界を越えて走ったからなのか、滝のような汗を拭いながら遅刻の主は頭を垂れる。
クラレスからの返事はなく、沈黙は胃をチクチク刺激する。
周囲を歩く生徒も微妙な空気を察してか、距離を取ってくる。二人をの周りだけを賑わいが避けているようにも感じられ、胃に更なる痛みが加わった。
「すごく、心配した」
「えっ?」
クラレスが顔を上げ、心配そうにラインの目をのぞきこむ。
髪と同じ銀の睫毛と眼、場違いにもそんな彼女を愛おしく思う自分を自制する。
そこまで怒ってはいない様子にラインは内心で胸をなでおろし、胃はようやく本来の働きを取り戻していく。
「ライン、普段なら遅れないし。でも、寮に行っても行き違いになっても困るし」
「うん、ごめん。でも大丈夫、クラレスのヒーリングのおかげで調子もいいんだ」
「本当? よかった。また何かあったのかと思って」
控えめに笑うその姿に、ラインはそっと拳を握りしめて違和感を抑え込む。
走ってきた疲労とは異なる重さ、わずかな心の揺らぎによって強く脈打つ鼓動。
昨日から何かが違う。それを痛いほどに感じるのに、それをいいだすことはできなかった。
二人はクラレスがとっておいた席に向かう。
途中、級友のひやかしを交わしつつ、ラインは会場の中央に目を向ける。
すり鉢状の闘技場を象った会場は、中央で開会式が今にも始まろうとしていた。
吹奏楽の音楽の中に、ヴェルシュピネの旗がはためいている。場は風格高い空気に包まれていて、それが生徒たちを、熱狂的なまでに掻き立てているようだった。
喧騒の中、二人は何とか席に腰を下ろす。
「女の子を待たせるなんで、紳士がすることじゃないわ。今度やったら炙り焼くわよ」
「やめてくれ、オレはアニスに理解ある級友をこれ以上失いたくない」
「アニス、ターコイズ!?」
すると、そこにはクラス代表の二人が待っており、聞きなれた掛け合いでラインたちを出迎えた。
ただ、漆黒のパーティドレスを身にまとったアニスが鬼の形相でラインに詰めより、
同じく漆黒のスーツに身を包んだターコイズがそれを諌めていた。
アニスの炎がラインの頬を掠め、それをクラリスが癒す。
「タ、ターコイズ、君までそんな格好を」
ラインは級友の姿に思わずため息をつく。
ターコイズ・ヴォルハイト、ラインと同じく水を専攻する生徒。
髪と同じく翡翠のような色をした瞳は、ラインと異なり冷静沈着という印象を受ける。
パープルの系統で統一されたタイとポケットチーフ。スラリと伸びた手足は、隣のアニスのドレスと並んでも全く引けを取らない。
けれど、明らかに場違いな格好でもあり、彼らの姿は完全に浮き上がっていた。
「どうした、ライン。間の抜けたような顔をして」
闘技会は一種のお祭りとしてみなされており、選手に関してはこの日に限り、どんな衣装を着ることも許される。
ただ、損傷の可能性が明らかに高く、通常は高価な服は避け、動きやすい服装や宗教的な装束を着ることが多かった。
二人の格好に唖然とするラインに、ターコイズは不思議そうに言葉を続ける。
「似合ってないか?」
「いや、かなり似合っているとは思う」
「なら、いいじゃないか」
先ほどから容姿に恵まれた二人に対し、周囲からは感嘆の声が振舞われていた。
ラインの頭の中には、次の日、熱い想いを紡いだ手紙が詰め込まれた二人の靴箱が目に浮かぶ。
「でも、何かちょっと場違いというか。そもそも、どうやって用意したの」
「正装とはこういうものだとアニスがいうからな。手配をお願いした」
「そうよ、ライン。学生といえどもクラスの代表として戦うのだから、きちんとした格好をしなくてはいけないのよ」
アニスは口元に手をかざし、上品そうに笑う。
その姿はさまになっていて、お嬢様といったところである。もちろん、服装はパーティ用のドレスにしか見えず、戦闘用には程遠い。
常識人のはずのターコイズがアニスに毒されていく! 帰ってきてターコイズ!
「あら、何かすごく失礼なことを考えてない」
「うっ!」
アニスの視線が突き刺さる。
本日二度目の痛みに、胃は悲鳴を上げていく。
「そ、そもそも、なんで二人が観客席にいるんだ? 今の時間だと、選手はもう一回戦の準備をしている頃じゃないか」
「良くわからんが、相手チームの一人が貧血で棄権したらしい。だから、開会式をここで見るくらいはできるんだ」
ラインの脳裏に、何故か昨日の女子生徒の姿が浮かび上がる。
もし、彼女のことだとすれば本当は貧血どころの事態ではすまされないのだけど。ラインは、かの有名な爆弾娘が行ったであろう情報操作に身を震わせていた。
ラインたちが会話をするうち、開会式はルールの説明、去年の優勝者の宣誓を終え、開催宣言まで進んでいく。
四方から鳴り響くファンファーレの中、ラーマンは舞台へと上がる。
すっ、と会場の喧騒が止み、闘技場上方の舞台に視線が集まっていく。
ラーマンは周囲を見渡した上で天を仰ぎ、堂々と、高らかに声を上げる。
「今ここで、大地の息吹を知るものたちに、戦いの場が開かれることを宣言する。
どうか皆に等しくブレスの加護のあらんことを」
宣誓の声と共にラーマンの手にした共鳴石が強く光を放った。
深緑の森を思わせながら、木々からチラつくこぼれ日のような眩い、
緑の輝きが会場に降り注ぎ、森の中にいるような清閑な空気で満たされる。ラインたちも、その光景を神妙な面持ちで見守っていた。
だが、そうして始まった闘技会は、彼らにとって忘れることのできないものとなる。
けれど、その場にいる誰もがそんなことを予想できるはずはなく、ただ時の流れに身を任せるのみだった。
その間にもゆっくりと、運命の歯車はかみ合わぬ歯を軋ませ続けるのだった。




