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最後の鐘が止む前に ― 四万八千二百四人を救う、七日間の停戦回廊 ―  作者: ありんこ


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【第5話】最後の鐘が止む前に

七日目の朝。


先頭の約四万人は、中立領(ちゅうりつりょう)へ渡っていた。


第二鐘楼(だいにしょうろう)より後ろに残っているのは、八千三百十七人。


歩けない負傷者。


幼い子ども。


高齢者。


最後尾の野戦病院(やせんびょういん)


鐘楼(しょうろう)を補修していた職人。


隊列を守ってきた兵士たち。


エマと赤子。


ミロ。


オルド。


アーダ。


誰かが置き去りにしても仕方ないと言いそうな人々が、最後に残った。


王国軍は回廊(かいろう)の西側へ展開していた。


帝国軍は東側から迫っている。


双方とも、停戦終了後にカレルと白い回廊を制圧するつもりだった。


王国から命令が届く。


《四万人以上の退避をもって、人道上の目的は達成された》


残存集団(ざんそんしゅうだん)には敵性協力者てきせいきょうりょくしゃが含まれる》


白誓師(はくせいし)リゼット・エイルは、直ちに回廊を解除し帰還せよ》


左手の軍名(ぐんめい)が焼けた。


リゼットは膝をつきそうになり、石壁へ手をついた。


ノアが近づこうとする。


「触らないで」


「リゼット」


「自分で立ちます」


痛みは、命令へ従えば止まる。


回廊を解除すればいい。


八千三百十七人を置いて、自分だけ戻ればいい。


通信誓印(つうしんせいいん)からヴァルターの声がした。


《リゼット、聞こえるか》


「聞こえています」


《戻れ》


「戻れば、この人たちは死にます」


《四万人を救った。作戦としては成功だ》


「誰にとっての成功ですか?」


《戦争とは、誰を救い、誰を捨てるかを選ぶことだ》


ヴァルターの声は震えていなかった。


けれどリゼットには、その奥にあるものが分かった。


エドガーを失った父親。


ノアを憎む将軍。


リゼットまで失いたくない人間。


「父上」


公の通信で、初めてそう呼んだ。


向こう側が沈黙した。


「あなたが私を炎から救ったことを、忘れた日はありません」


《ならば――》


「でも、私を生かしたことを、私の人生を所有する理由にしないでください」


通信の向こうで、息を呑む音がした。


「私は戻りません」


軍名が激しく燃える。


左手の皮膚が裂け、血が落ちた。


それでもリゼットは立っていた。


背後では、帝国の軍名がノアを罰している。


彼の灰色の文字が、皮膚の下で赤く光っていた。


「帝国は何と?」


リゼットが聞く。


「君を殺せ。回廊を落とせ」


「従いますか?」


「従うなら、十一回目の停戦で終わっている」


ノアは剣を外し、地面へ置いた。


リゼットも白銀の剣を捨てた。


七日目、最後の夕鐘(ゆうがね)が鳴り始める。


一打目。


二人は向かい合った。


周囲では、最後の八千三百十七人が橋へ入る準備をしている。


原証(げんしょう)を返します」


リゼットが言った。


「受け取る」


「軍名を捨てます」


「僕も」


「生きてください」


ノアが頷く。


「君も」


二打目。


二人は、幼い日に預け合った鐘律(しょうりつ)を思い出した。


第一節。


三つ。


二つ。


一つ。


間を置いて、もう一つ。


第二節。


村の丘。


夕暮れ。


家へ帰るときの鐘。


第三節。


燃える夜。


離れてしまった手。


第四節。


もう一度、帰るための拍。


三打目。


リゼットの軍名が白く燃え上がった。


王国から与えられた力。


命令。


称号。


救われた命を返さなければならないという思い込み。


すべてが、皮膚から文字となって剥がれていく。


痛みは一瞬、これまでで最も強くなった。


その後、消えた。


完全に。


四打目。


ノアの軍名が灰色の光となって崩れた。


帝国の階級。


兵を従わせる権限。


撤退戦を成立させる魔力。


自分だけを数から外す癖。


死ねば責任を終えられるという逃げ道。


文字が雪の空へ舞い上がる。


五打目。


二人から解放された魔力が、白い回廊へ流れ込んだ。


崩れた誓印(せいいん)がつながる。


第二鐘楼から第三鐘楼(だいさんしょうろう)まで、巨大な光の天蓋(てんがい)が広がる。


これが、解銘(かいめい)だった。


軍名を殺すためではない。


国に奪われた名を、本人へ返すための鐘。


誰かを消すためではなく、誰かを帰すための古い術式。


王国軍が砲撃(ほうげき)した。


帝国軍の軍事魔法が放たれた。


白い光がすべてを受け止める。


砲弾が空中で止まる。


炎が光の壁を走る。


雪原が、昼のように明るくなった。


六打目。


最後の八千三百十七人が走り始めた。


最初に進んだのは、歩ける兵士ではなかった。


車輪の軋む荷車だった。


その上で、エマが赤子を胸に抱いている。赤子は泣いていた。泣いて、生きていることを周囲へ知らせていた。


「もう少しです」


リゼットは、遠くから聞こえない声で呟いた。


エマの母が、帝国語を知らないまま夫の背を押す。夫は王国語を知らないまま頷き、荷車の後ろを支えた。


次に、野戦病院の担架が続いた。


担架の脚が橋の段差へ引っかかるたび、兵士と市民が一緒に持ち上げる。昨日まで敵と呼び合っていた者たちが、誰の命令も待たずに同じ布を握っていた。


オルドは鍵箱を胸へ抱え、片腕を吊ったまま歩いていた。


「落とすんじゃねえぞ! 帰る扉が泣く!」


誰かが笑い、誰かが泣いた。


ミロは列の端を走っていた。


自分より小さな子どもの手を引き、足を痛めた老人の杖を拾い、何度も後ろを振り返る。


もう、誰の荷車にも乗れない子ではなかった。


彼は、誰かを連れていく側にいた。


アーダは第二鐘楼を見上げていた。


「鐘守の道は、死ぬ道じゃないよ」


その声がノアへ届いたかは分からない。


それでも老女は、崩れかけた塔へ向かって杖を掲げた。


「戻ってきな、悪童」


リゼットは第三鐘楼へ向かう。


ノアは第二鐘楼へ戻る。


分かれ道で、二人は立ち止まった。


「私に黙って残るつもりなら、行かせません」


リゼットが言った。


「死ぬために残るんじゃない」


ノアは答えた。


「最後の一人を通すために残る」


排水路(はいすいろ)を使ってください」


「使える状態なら」


「戻ろうとすると約束しました」


「覚えてる」


「私は、まだあなたを許していません」


「知ってる」


「今のあなたを、まだ十分に知ってもいません」


「それも知ってる」


「だから」


リゼットは彼の外套(がいとう)を掴んだ。


「続きを聞かせてください」


ノアは一瞬、目を閉じた。


「戻れたら?」


「戻ろうとして」


「戻ろうとする」


それが、彼に言える最も誠実な約束だった。


リゼットは外套から手を離した。


「行ってください」


「命令?」


「お願いです」


ノアは少し笑った。


「なら、断れないな」


彼は第二鐘楼へ走った。


リゼットは第三鐘楼へ向かった。


最後の鐘が、鳴り始めた。



第二鐘楼は、既に半分崩れていた。


ノアは塔の内部へ入り、血のついた綱を両手で掴んだ。


軍名はもうない。


帝国の魔力もない。


身体を守る灰色の鎧もない。


鐘を鳴らすのは、ただの腕力だった。


綱を引く。


一打。


白い回廊が明滅する。


橋の上を、八千人余りの灯りが進む。


二打。


ミロが一度振り返り、後ろの老人の手を引いた。


三打。


王国軍の砲撃が、光の天蓋へ突き刺さる。


第二射の準備が始まる。



王国軍の砲列で、若い将校がヴァルターへ尋ねた。


「次弾、撃ちますか?」


ヴァルターは望遠鏡を下ろさなかった。


白い回廊の向こうに、リゼットがいる。


白銀の鎧はない。


王国の紋章もない。


もう白誓師ではない。


炎の中から救った少女でもない。


自分へ逆らい、自分で人生を選んだ、一人の人間だった。


「将軍」


部下が再び呼ぶ。


ヴァルターは手を下ろした。


「最後の鐘が鳴り止むまで、撃つな」


「しかし」


「命令だ」


王国軍の砲口が下がる。



帝国側の攻撃は続いていた。


四打。


第二鐘楼の床に亀裂(きれつ)が走る。


ノアは綱を腰へ巻きつけた。


石が落ちる。


片耳の近くで爆発が起こり、音が遠くなる。


それでも綱を引く。


五打。


最後の野戦病院が橋へ入った。


担架の上の少女が、空を見ている。


白い光の上で止まった火矢を、星だと思っているようだった。


六打。


リゼットが第三鐘楼へ到着する。


遠すぎて、表情は見えない。


それでも彼女だと分かる。


ノアは思った。


昔のリゼットではない。


自分が守らなければならない少女ではない。


自分の判断を拒み、自分とは違う答えを作り、五万人を導いた人間。


彼女が今の自分を知りたいと言った。


それなら、戻らなければならない。


七打目。


最後の担架が中立領の門を越えた。


エマの荷車が続いた。


赤子の泣き声が、鐘の余韻に混ざる。


オルドが鍵箱を抱えたまま門をくぐった。


ミロが最後に振り返り、第二鐘楼へ向かって木彫りの鐘を掲げた。


アーダが彼の肩を押す。


「行きな。あの子は、帰り道を知ってる」


最後の子どもが中立門を越えた。


ノアは残った力をすべて使い、鐘を鳴らした。


音が峡谷を渡る。


第二鐘楼の床が抜けた。


鐘が傾く。


石壁が崩れる。


足元の闇に、古い水路の入口が見えた。


鐘守(かねもり)の帰り道。


使える保証などない。


水音がする。


ノアは綱から手を離した。


戻ろうとすると約束した。


塔が崩れた。


白い煙と雪が、峡谷を覆った。



リゼットが振り返ったとき、第二鐘楼は消えていた。


塔の上部が崩れ、橋の一部とともに谷へ落ちていく。


白い煙の中で、最後の鐘の余韻だけが残っている。


「ノア!」


声は届かなかった。


第三鐘楼の誓印を離せば、最後の人々を守る光が消える。


リゼットは動けない。


目の前では、最後尾の灯りが中立門の内側へ消えていく。


背後では、一人が消えた。


彼女は叫ぶことしかできなかった。


白い回廊が砕け、空へ消える。


リゼットは第二鐘楼へ戻ろうとした。


だが橋は崩れ、道はなかった。



捜索隊(そうさくたい)が出たのは三日後だった。


鐘楼の瓦礫(がれき)から見つかったのは、ノアの外套の切れ端と、血に染まった綱。


遺体はなかった。


排水路は崩れ、入口の先を確かめられなかった。


「生存は考えにくい」


誰もがそう言った。


リゼットも、否定できなかった。


あの高さ。


あの崩壊。


魔力を失った身体。


希望を持つ方が残酷だった。


避難民名簿は、リゼットへ引き継がれた。


七日間で、最初の人数は変わっていた。


生まれた者。


亡くなった者。


途中で合流した者。


最後まで見つからなかった者。


ノアは死者の名を消していなかった。


ただ、横へ日時と場所を書き添えていた。


リゼットは名簿の最後を開いた。


空白が二行あった。


ミロへ「最後に書く」と言っていた二人分。


リゼットはペンを取った。


一行目。


リゼット・エイル。


二行目。


ノア・セルカ。


ノアの名の横へ、死亡とは書けなかった。


行方不明(ゆくえふめい)


そう記した。


「あなたも、救われる側に入ってください」


誰もいない部屋で呟く。


返事はなかった。

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