【第4話】名前を知らなかった死
五日目の朝、回収部隊がオルドの鍵箱を取り戻した。
ただし、無傷ではなかった。
オルドは自分も戻ると言い張り、途中で転倒して腕を折った。鍵箱は泥まみれになり、いくつかの鍵は失われていた。
「だから言ったろうが」
彼は医療天幕で腕を吊りながら、ノアへ怒鳴った。
「鍵は重いんじゃねえ。戻る場所の重さだ」
ノアは深く頭を下げた。
「僕の判断ミスです」
「頭を下げれば錠前が開くか?」
「開きません」
「なら覚えとけ。人が持ってる荷物には、てめえが知らねえ扉がぶら下がってる」
ノアは何も言えなかった。
リゼットは、その場面を見ていた。
ノアが謝るだけでは足りないことを、彼自身が理解しているのが分かった。
罪は、謝れば消えるものではない。
だが、謝らずに進んでいいものでもない。
*
その午後、隊列はエドガー砦の横を通った。
崩れた外壁。
黒く焼けた石。
折れた旗竿。
雪の下に突き出した鉄片。
リゼットの胸が、冷たくなった。
彼女は旅嚢の中を探り、エドガーの剣帯がないことを思い出した。
橋の補強に使った。
今は白い回廊の一部になっている。
それでよかったはずなのに、手元にないことが急に心細かった。
「ここを通る必要があるのですか?」
「橋から離れる道は雪崩で塞がっている」
ノアが答えた。
「野戦病院を迂回させれば一日遅れる」
「一日遅れれば?」
「最後の八千人が渡れない」
リゼットはそれ以上言わなかった。
砦の中で、彼女は焼け残った命令書を見つけた。
防水袋に入ったまま、崩れた机の下に挟まっていた。帝国側の文書。
署名はない。
だが無地の布印があった。
そして書き方で分かる。
短い命令。
余計な言葉のなさ。
撤退路の指定。
損耗を抑えるための細かな指示。
ノアの文書だった。
「この砦を攻めたのは、あなた?」
ノアは命令書を見る前に答えた。
「そうだ」
リゼットは振り返る。
「兄がいたことを知っていた?」
「知らなかった」
「なら、あなたには責任がない?」
「違う」
ノアはすぐに答えた。
「名前を知らなかったことは、責任がないという意味じゃない」
「東門を塞いだのは?」
「僕だ」
「王国兵が逃げられなくなると分かっていて?」
「分かっていた」
「兄は東門で死にました」
ノアの顔が少しだけ青ざめた。
「……そうか」
「そうか?」
リゼットの声が震えた。
「兄は、最後に新兵を三人逃がしたそうです。自分は門を押さえて、戻らなかった。私はそれを、勇敢な死だと教えられました」
ノアは何も言わなかった。
「でもその門を塞いだのは、あなた」
「そうだ」
「あなたは、何人を帰したのですか?」
「帝国兵、千二百余」
「兄の命と引き換えに?」
ノアは答えなかった。
リゼットの指が、彼の胸へ伸びる。
原証の第一節。
三つ。
二つ。
一つ。
間を置いて、もう一つ。
灰色の軍名がひび割れた。
続ければ殺せる。
ノアは剣を抜かなかった。
「最後まで鳴らしてもいい」
その言葉で、リゼットの怒りはさらに強くなった。
「そうすれば、楽になると思っているのですか?」
「君が」
「勝手に、私のために死なないでください」
ノアの顔が歪んだ。
「あなたを殺さなかったのは、許したからではありません」
リゼットは原証を止めた。
「まだ、野戦病院が橋のこちら側に残っている。この列を止めないためです」
「分かってる」
「分かっていません」
彼女は記録を彼の胸へ押し返した。
「あなたはいつも、自分だけは帰らなくていい顔をする」
「兵を帰すのが僕の仕事だ」
「では、あなたを帰すのは誰の仕事ですか?」
ノアは答えなかった。
*
その夜、リゼットは彼の作戦書を見つけた。
第二鐘楼の補修計画。
第三鐘楼への誘導時間。
最後尾の野戦病院が橋へ入る時刻。
そして最終頁に、短い一文があった。
《第七日夕鐘後、第二鐘楼に一名残置。鐘守、ノア・セルカ。生還見込みなし》
リゼットは作戦書を握り締めた。
ノアは、鐘楼の外で一人、壊れた橋を見ていた。
「説明してください」
彼は振り返らなかった。
「最後の八千人余りを通すには、誰かが残る」
「私に黙って?」
「言えば、君は止めただろう」
「当然です」
「だから言わなかった」
リゼットの怒りが、冷たいものへ変わった。
「あなたが死ねば、八千人は助かる」
「そうだ」
「そして私は、死んだと思っていたあなたを、今度は自分の意思で置き去りにした人生を生きる」
ノアは何も言わない。
「その人生まで、あなたが勝手に決めるのですか?」
「ほかに方法がない」
「あなたも、私の国も同じです」
ノアがようやく振り返った。
「同じ?」
「四万人を救ったから、残りを諦める。八千人を救うために、自分一人を消す。数字が違うだけです」
「では、どうする?」
リゼットは作戦書を破った。
「誰を数から外すかを、本人に聞かず決めることをやめます」
「それだけでは、人は救えない」
「だから、方法を探します」
「残り二日だ」
「二日もあります」
「見つからなければ?」
リゼットはノアの目を見た。
「そのときは、一緒に決めます」
それは許しではなかった。
愛の告白でもない。
ただ、彼一人に結末を決めさせないという宣言だった。
その夜、二人は別々の場所で眠った。
どちらも、ほとんど眠れなかった。
*
六日目の朝、リゼットはノアから避難作戦の指揮権を奪った。
「王国軍人が帝国将官から指揮権を奪うのは、停戦協定違反では?」
ノアが言った。
「あなたが勝手に死ぬ計画を作るのも、協定にはありません」
「痛いところを突く」
「返してください」
ノアはしばらく彼女を見た。
やがて、隊列表と鐘楼の鍵束を差し出す。
「君の指揮に従う」
「ずいぶん素直ですね」
「今の僕が逆らえば、君は本当に原証を鳴らしそうだ」
「必要なら」
「必要にしないでほしい」
リゼットはオルドから受け取った古い鍵束を持って、第二鐘楼の記録庫へ向かった。
アーダが杖で石扉を叩く。
「この奥だよ。百年は誰も開けていない」
「鍵は?」
「オルドが死守した」
「腕を折ってまで」
「だから、無駄にするんじゃないよ」
扉が開くと、冷たい空気と古い紙の匂いが流れ出た。
記録庫には、国境がまだ王国にも帝国にも属していなかった時代の文書が残っていた。
軍名についての記録。
原証についての鐘律。
白い回廊の構造図。
リゼットは一頁ずつ読み解いていった。
最初は、そこに答えがあると思った。
しかし古い文書は断片的だった。
《軍名は国が与える第二の名》
《原証はその人が所属する以前の証》
《原証をもって軍名を断つことは可能》
《ただし殺傷は後世の軍律による歪曲である》
肝心な部分が欠けている。
リゼットは自分の左手を見た。
軍名は、命令に逆らうたび痛みを走らせる。
だが、ミロを通したとき、橋を支えたとき、完全には彼女を止めなかった。
王国の命令と、彼女自身が刻んだ誓印が衝突したためだ。
ノアの軍名も、原証の第一節で亀裂を生じた。
だが彼は死ななかった。
なぜか。
「軍名を壊すだけなら、命まで壊す必要はない」
リゼットは呟いた。
ノアが顔を上げる。
「何を見ている?」
「軍名の流れです」
彼女は白い回廊の図面を広げた。
三つの鐘楼は、独立した鐘ではない。
第一鐘楼が所属を記録する。
第二鐘楼が通過を保証する。
第三鐘楼が帰属を解除する。
もともと白い回廊は、戦争用の道ではなかった。
国境をまたいで移動する人々を、どちらの国にも奪われずに通すための道だった。
「軍名を断つと人が死ぬのは、国から借りた魔力が逆流するからです」
リゼットは早口になった。
「でも二人が同時に原証を返し、解放された魔力を回廊へ流せば、肉体へ逆流しない。所属だけを解ける」
「そんな記述があるのか?」
「完全な記述はありません」
リゼットは文書を指した。
「ここに原証の本来の意味があります。こちらに第三鐘楼の帰属解除式。こちらは軍名の逆流防止図。三つを合わせればできる」
「危険すぎる」
「死ぬ計画を立てていた人に言われたくありません」
ノアは黙った。
「これを解銘と呼んでいたようです。軍から見れば反逆でしょう」
「君の軍名も消える」
「ええ」
「王国は君を白誓師として扱えなくなる」
「ええ」
「二度と同じ誓印は使えないかもしれない」
「あなたも同じです」
「僕は」
ノアは言葉を切った。
「僕は死ぬ方が簡単だ」
リゼットは彼を見た。
「分かっています」
「分かるのか」
「あなたは死を恐れているのではありません。何者でもなくなって、生き残ることを恐れている」
ノアの表情がわずかに崩れた。
「僕は、君の兄を死なせた」
「はい」
「ほかにもいる。命令した。罠を置いた。退路を塞いだ。名前を知っている者も、知らない者もいる」
「はい」
「将軍でなくなった僕に、何が残る」
リゼットは答えを急がなかった。
「あなたが出した命令が残ります」
ノアの表情が固まる。
「助けた人も、死なせた人も残る。責任も残る。名前を知っている人には答え、知らなかった人の名も探す。それをする人間が残ります」
「重いな」
「死んで軽くしないでください」
ノアは記録へ目を落とした。
「君は、僕に生きろと言うの?」
「はい」
「まだ許していないのに?」
リゼットは少し考えた。
「私はまだ、あなたを何と呼ぶべきか決めていません」
「何と?」
「幼馴染。敵将。信頼していた交渉相手。兄を死なせた指揮官」
ノアは苦く笑う。
「多いな」
「だから、勝手に一つへ決めて死なないでください」
ノアは長い間、何も言わなかった。
やがて、古い鐘律の上へ手を置いた。
「分かった」
「本当に?」
「死なずに済む方法があるなら、それを選ぶ」
「生きたいから?」
ノアは一瞬迷った。
「今はまだ、約束を破りたくないから」
完全な答えではない。
けれど、死ぬことを当然と思っていた男が、初めて生きる側へ半歩だけ動いた。
リゼットには、それで十分だった。
ただし問題は残っている。
解銘によって魔力を回廊へ流しても、壊れた第二鐘楼は自動では鳴らない。
誰かが残り、最後まで鐘を引かなければならない。
さらに解銘の魔力を回廊へ定着させるには、原証を預け合った二人が、壊れた区間の両端へ立つ必要があった。
リゼットは第三鐘楼。
ノアは第二鐘楼。
離れなければ、最後の八千人を救えない。
「排水路を開けます」
リゼットは言った。
「鐘守の帰り道です」
「使えない可能性もある」
「使えるようにします。オルドが鍵を戻してくれた。アーダが道を知っている。ミロは狭い場所を抜けられる。私たちだけで決めません」
ノアは少しだけ目を見開いた。
「人を頼るのが、そんなに意外ですか?」
「僕より将軍に向いている」
「褒め言葉としては最悪です」
ノアがほんの少し笑った。
リゼットも、少しだけ笑った。
笑える自分に、驚いた。




