表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
最後の鐘が止む前に ― 四万八千二百四人を救う、七日間の停戦回廊 ―  作者: ありんこ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
3/6

【第3話】戻る場所の重さ

カレルの灯りが、二晩かけて消えていった。


家々の明かりは、持ち主の手でランタンとなり、白い回廊(しろいかいろう)の上へ移っていく。丘から見れば、都市そのものがほどけ、長い光の糸になって峡谷(きょうこく)へ流れているようだった。


だが、その光の一つひとつには重さがあった。


エマは二日目の夜に産気(さんけ)づいた。荷車(にぐるま)の上、毛布と薬箱に囲まれ、王国語しか話せない母と帝国語しか話せない夫が、互いの言葉を分からないまま同じように泣いた。


赤子が泣いた瞬間、近くの人々が静かになった。


ノアは名簿に一行を加えた。


出生。女児。未命名。母エマ・ルヴィ。第二列荷車四番。


「名前は?」


リゼットが尋ねると、エマは疲れた顔で笑った。


「橋を渡ってから決めます。渡れたら、その子の名前にします」


「橋?」


「はい。どちらの国の言葉でもないでしょう?」


リゼットは言葉に詰まった。


別の場所では、オルドが鍛冶道具(かじどうぐ)鍵束(かぎたば)を詰め込んだ大きな箱を荷車へ載せようとしていた。


「それは重すぎる」


ノアが言った。


「水と薬以外は減らす」


オルドは白い髭を震わせた。


「これはただの鉄くずじゃねえ。カレルの家の鍵だ。店の鍵、井戸の鍵、礼拝堂の鍵、古い記録庫(きろくこ)の鍵。戻る日まで誰が守る」


「戻る保証はない」


「だから持っていくんだ」


ノアは一瞬だけ沈黙した。


だが隊列は詰まり始めていた。後ろには野戦病院(やせんびょういん)がいる。橋までの到着時刻は遅れ続けている。


「鍵束だけ腰へ。箱は置いていく」


「全部は持てん!」


「では代表だけ選べ」


オルドが抗議した。


ノアは命令を変えなかった。


結局、箱は置かれた。


オルドは怒鳴り、泣き、最後には鍵束の一部を腰へ縛りつけて歩き出した。


リゼットはその様子を見ていた。


「あなたは、荷物を切り捨てるのが早い」


「遅ければ、人を切り捨てることになる」


「その箱が、彼にとって何だったか聞きましたか?」


「聞いていたら列が止まる」


「聞かなかったから、彼の中で何が置き去りになったか、あなたには分からない」


ノアは反論しかけ、やめた。



その日の夜、問題が起きた。


第二鐘楼(だいにしょうろう)の損傷について、ノアは群衆(ぐんしゅう)に知らせていなかった。


「混乱を避けるため」だった。


だが、煙を見た先頭の者たちから(うわさ)が広がった。


橋が落ちる。


先頭しか助からない。


後ろは置いていかれる。


誰かが走り出し、荷車が横転した。


エマの荷車が傾き、赤子が落ちかけた。ミロが咄嗟(とっさ)に飛びつき、赤子を抱きとめたが、自分は荷車の車輪へ足を挟まれた。


幸い骨は折れていなかった。


だがミロは泣かなかった。


ただ木彫りの鐘を握りしめ、震えていた。


リゼットはノアを見た。


「これが、知らせなかった結果です」


ノアは群衆を落ち着かせる指示を出し終えた後、彼女の前に立った。


「僕の判断ミスだ」


言い訳はしなかった。


だから余計に、リゼットは怒りを収められなかった。


「なぜ隠したのですか?」


恐慌(きょうこう)が起きると思った」


「起きました」


「そうだ」


「情報を与えられなかった人々は、噂でしか判断できない。あなたは、彼らに選ばせる材料を渡さなかった」


ノアは黙った。


「あなたは一人ずつ数える。なのに、決めるときは一人ずつ聞かない」


その言葉に、ノアの顔がわずかに強張った。


「リゼ」


「今は白誓師(はくせいし)と呼んでください」


彼は一瞬、目を閉じた。


「白誓師。君の言う通りだ」


その夜から、第二鐘楼の損傷状況、橋の通過予定、置いていく荷物の基準は、すべて隊列ごとに読み上げられることになった。


時間はかかった。


不満も出た。


それでも、人々の足取りは少しだけ安定した。


リゼットは、その変化を見ていた。


ノアは完全な善人ではない。


彼は人を救う。


しかし救い方を、自分一人で決めようとする。


その危うさが、初めて誰かを傷つけた。


それを見たからこそ、リゼットは彼をただの懐かしい人としては見られなくなった。


そして、ただの敵としても見られなくなった。



三日目の午後、第二鐘楼が見えた。


峡谷の中央へそびえる巨大な石塔(せきとう)。そこから伸びる白い高架橋(こうかきょう)は、谷底の青い氷河(ひょうが)をまたぎ、中立領へ続いている。


先頭の二万人以上は既に橋へ入っていた。


最後尾は、まだ数キロ後方にいる。


五万人の隊列は、あまりにも長い。


その中央で、爆発が起きた。


鐘が歪んだ音を立てる。


第二鐘楼の側面から黒煙(こくえん)が上がり、石片が谷へ落ちていく。


白い回廊の光が、一度消えかけた。


「伏せろ!」


ノアの声が響く。


群衆が揺れる。


前へ進む者と、戻ろうとする者がぶつかる。


子どもが倒れ、荷車の馬が暴れた。


爆発は停戦中の砲撃ではなかった。


停戦前に仕掛けられた機械式の破砕具(はさいぐ)


誰が置いたかは分からない。


停戦を望まない王国軍の強硬派(きょうこうは)か。


帝国側の将軍か。


カレルの住民を敵視する者か。


犯人を探す時間はなかった。


第二鐘楼が止まれば、橋の中央にいる一万人が、武器の届く戦場へ投げ出される。


リゼットは塔へ駆け込んだ。


鐘を動かす誓印機構(せいいんきこう)は半壊していた。


石の導管(どうかん)が割れ、白い光が漏れている。


「直せるか?」


後から来たノアが尋ねた。


応急処置(おうきゅうしょち)なら。ただし自動鐘は保ちません」


「どうなる?」


「今夜から人力の補助が必要です。最終日には、誰かが鐘楼へ残って直接綱を引き続ける必要があります」


ノアが塔の上を見た。


リゼットは、その目を見逃さなかった。


「今、決めましたね」


「何を?」


「自分が残ればいい、と」


ノアは答えない。


「やめてください」


「橋の構造を理解し、敵軍の動きを読める人間が必要だ」


「あなた以外にも指揮官はいます」


「第三鐘楼では、君が解いた結界を誰かが導かなければならない」


「だから自分が残ると?」


「合理的だ」


「あなたは昔から、合理的という言葉で、勝手な行動を正当化します」


ノアが少しだけ目を伏せる。


「昔よりは、ましになったつもりだった」


「悪化しています」


橋の上で悲鳴が上がった。


石床に亀裂(きれつ)が走っている。


立ち止まった一万人の重みを、損傷した橋が支えきれない。


リゼットは手袋を外した。


軍名(ぐんめい)が白く光っている。


「何をする?」


「橋へ誓印(せいいん)を刻みます」


「王国軍の許可は?」


「ありません」


「軍名が君を壊す」


「橋が落ちれば、一万人が死にます」


リゼットは石床へ左手を押し当てた。


白い誓印が、橋全体へ走った。


亀裂を縫う。


荷重を分散する。


揺れを抑える。


同時に、王国の軍名が命令違反を罰した。


焼けた鉄が手首から肩へ入り、胸の内側を掻き回す。


視界が白く弾ける。


「リゼット!」


「列を、進めてください!」


ノアは一瞬だけ彼女を見た。


それから振り返り、叫んだ。


「荷車の積み荷を三割下ろせ! 水と薬以外は分散! 馬を橋へ乗せるな! 歩ける者は担架を交代で持て!」


だが今度は、命令だけでは終わらせなかった。


ノアは広場の鐘を鳴らし、隊列の代表者たちを呼んだ。


「荷を捨てる基準を言う。異議があれば今言え。止まる時間はないが、聞く時間は作る」


市民たちが顔を上げた。


薬師が、乾燥草だけは残せと言った。


鍛冶屋が、橋の補強に使える金具は捨てるなと言った。


エマの母が、赤子用の布を捨てれば夜に死ぬと叫んだ。


オルドは、残してきた鍵箱のことをまだ怒っていた。


「だから言ったろうが! 古い鐘楼を開ける鍵も、あの箱の中だ!」


ノアが一瞬、言葉を失った。


リゼットはその横顔を見た。


彼が自分の判断の重さを、本当に理解した瞬間だった。


「鍵箱は?」


「置いてきた」


「回収部隊を出します」


ノアはすぐに言った。


「僕の判断ミスだ。責任は僕が取る」


「今は責任ではなく、鍵が必要です」


リゼットはエドガーの剣帯(けんたい)を外した。


古いが頑丈な革だ。


「これを綱の補助に使ってください。橋の揺れを抑える誓印を通します」


ノアが剣帯に目を留める。


「それは」


「兄のものです」


「……使っていいのか?」


「兄なら、使えと言います」


エドガーは、物を大事にする人だった。


けれど、人が死ぬなら惜しむなと怒る人でもあった。


リゼットは剣帯を橋の補強材(ほきょうざい)へ巻きつけ、白い誓印を流した。


市民たちが動いた。


兵士だけではない。


鍛冶屋が橋へ補強材を打ち込み、農民が綱を引き、商人が荷車を解体した。老人も子どもも、運べるものを持った。


誰もが、自分たちの避難を誰か一人の奇跡へ任せなかった。


白い光が橋を包む。


石が軋む。


リゼットの膝が落ちかける。


誰かの手が肩を支えた。


ミロだった。


足を引きずりながら、小さな両手で、何の役にも立たないほど弱く、それでも彼女の背を押していた。


「白い人、立って」


リゼットは息を吸った。


立った。


夕暮れまでに、橋の中央にいた一万人は向こう岸へ渡り切った。


最後の担架が通過すると、白い誓印の一部が砕けた。


リゼットは塔の壁へもたれた。


左手の感覚がない。


ノアが水袋を差し出す。


「飲め」


「命令ですか?」


「お願いだ」


リゼットは受け取った。



二人は鐘楼の上へ座った。


眼下には地平線まで続く灯り。橋を渡った列、まだ手前で休む野戦病院、家族を探す人々。


頭上には、白い回廊へ阻まれた火矢が、赤い星のように止まっている。


しばらく沈黙が続いた。


「昔のあなたを探していました」


リゼットは言った。


ノアは隣で動かなかった。


「見つかった?」


「いいえ」


彼の呼吸が少しだけ変わる。


「でも」


リゼットは眼下の光を見た。


「三年間、文面だけで信じていた無旗将があなたで、よかったと思っています」


ノアは何も言わなかった。


言葉が返ってこないことに、リゼットは安堵した。


ここで好きだと言われても、受け取れない。


ここで昔へ戻ろうと言われても、戻れない。


今の彼を、まだ知らない。


知り始めたばかりだ。


「鐘守には、帰り道がある」


背後で、しゃがれた声がした。


振り返ると、カレルの老鐘守(ろうかねもり)アーダが立っていた。


リゼットとノアが子どもの頃、鐘楼へ忍び込むたびに叱った女だった。


「アーダ婆さん」


ノアが立ち上がる。


「ようやく顔を見せたね、悪童」


「生きていたのか」


「そっくり返すよ」


アーダは壊れた床を杖で叩いた。


「古い鐘楼の腹には、排水路(はいすいろ)がある。塔が崩れたとき、鐘守を谷の外へ流すための道さ。使えるかどうかは知らないけどね」


「図面は?」


リゼットが尋ねると、アーダは首を振った。


「記録庫にあるかもしれない。誰も開けていないなら」


「記録庫の鍵は?」


アーダはノアを見た。


「街の鍵師が持っていたはずだよ。置いていかされた箱の中にね」


ノアは唇を結んだ。


リゼットは何も言わなかった。


責める必要はなかった。


彼はもう、自分が切り捨てたものの意味を知っていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ