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最後の鐘が止む前に ― 四万八千二百四人を救う、七日間の停戦回廊 ―  作者: ありんこ


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【第2話】四つの拍

第一鐘楼(だいいちしょうろう)の下は、すぐに混乱した。


軍人の負傷者を優先するよう求める王国側の役人。


帝国側の許可証を持つ者だけを先へ通そうとする帝国兵。


家族とはぐれた市民。


荷車を押し戻され、道の端で泣く老人。


リゼットは停戦書(ていせんしょ)を広げ、白い回廊(しろいかいろう)誓印(せいいん)へ新しい通過条項(つうかじょうこう)を刻んでいった。


《武器を捨て、保護を求める者は、所属国を理由に通過を妨げられない》


軍名(ぐんめい)が熱を持つ。


王国の正式な許可を得ていない条項だった。


左手から肩へ、焼けた針を差し込まれるような痛みが走る。


リゼットは手を止めなかった。


白誓師(はくせいし)


無旗将(むきしょう)が近づいてきた。


「休め」


「命令ですか?」


「提案だ」


「却下します」


「君が倒れれば、全員が止まる」


「あなたも止まります」


「だから困っている」


面頬(めんぽお)の奥で、彼がわずかに笑った気がした。


そこへ、ミロが兵士に連れられてきた。


「この子は名簿にありますが、戸籍(こせき)がありません」


王国の役人が言った。


「母は王国民、父は帝国民。現在どちらの保護権(ほごけん)も確認できない。協定(きょうてい)上、通過対象外です」


ミロは木彫りの鐘を握りしめていた。


リゼットは屈んだ。


「名前は?」


「ミロ」


「歩ける?」


頷き。


「家族は?」


「いない。たぶん」


リゼットの背後で、役人が冷たく言った。


「ならば保護責任者(ほごせきにんしゃ)不在です」


無旗将がミロの前へ膝をついた。


「木彫りの鐘は?」


「お母さんの」


「大事か?」


ミロは頷く。


「なら、落とすな」


それから無旗将はリゼットを見た。


「通せるか?」


「根拠は?」


「名前がある」


「名前だけでは国籍(こくせき)の証明になりません」


「国籍がないから、名前までないことにするのか?」


その言葉は、静かだった。


けれどリゼットの胸を鋭く突いた。


彼女は誓印へ新しい一文を刻んだ。


《保護を求める未成年者は、国籍証明の有無を問わず通過できる》


軍名が激しく焼けた。


思わず膝が揺れる。


無旗将の手が伸びたが、リゼットは自分で踏みとどまった。


「触らないでください」


「分かった」


彼はすぐに手を下ろした。


ミロが列へ入る。


無旗将は彼の名を名簿(めいぼ)へ書き加えた。


その筆の運びを見て、リゼットは息を止めた。


数字の七を書くとき、最後に小さく横線を引く。


ノアもそうしていた。


国境(こっきょう)の村では誰もそんな書き方をしなかった。帝国式だと旅商人に習ったのだと、得意げに言っていた。


「その書き方は、どこで?」


リゼットが尋ねると、無旗将の手が止まった。


「帝国では珍しくない」


「国境の村でも、一人だけ同じ書き方をする子がいました」


「人は似た癖を持つ」


「剣の構えも?」


返事はなかった。


鐘楼の上から、技師(ぎし)が叫んだ。


「西側の()ぎ手が動きません! 合図が通らない!」


無旗将が顔を上げる。


鐘木(しゅもく)を手動へ切り替えろ。北列はそのまま、西列だけ止める」


騒音(そうおん)で、声が届かない。


無旗将は鐘楼の手すりを剣の柄で叩いた。


三つ。


二つ。


一つ。


間を置いて、もう一つ。


リゼットの身体から、すべての音が消えた。


雪原も、人々の声も、荷車の軋みも遠ざかる。


四つのまとまり。


帰るときの合図。


幼いリゼットとノアだけが使った鐘の拍。


迷子になったとき。


丘の向こうにいる相手を呼ぶとき。


夜、家を抜け出して鐘楼へ忍び込んだとき。


三つ。


二つ。


一つ。


間を置いて、もう一つ。


リゼットは無旗将の腕を掴んだ。


「今の合図を、どこで覚えました?」


男は答えない。


「答えてください」


「偶然だ」


「嘘です」


リゼットは彼の胸当て(むなあて)へ指を当てた。


同じ拍を、指先で刻む。


三つ。


二つ。


一つ。


灰色の軍名が反応した。


胸当ての下から亀裂(きれつ)のように光が走る。


リゼットの指が止まった。


これは単なる合図ではない。


幼い二人が互いに預けた原証(げんしょう)の第一節。


国や家や軍から名を与えられる前、その人が一人の人間として存在したことを証明する古い鐘律(しょうりつ)


全文を鳴らせば、軍名を断ち切れる。


目の前の男が、低く言った。


「続けるな」


声の(ゆが)みが消えかけていた。


「最後まで鳴らせば、僕の軍名が裂ける」


僕。


その言い方。


リゼットは手を離さなかった。


「面頬を外してください」


男は動かない。


停戦交渉代表ていせんこうしょうだいひょうとして命じます」


「王国軍には、僕を殺せと言われているはずだ」


「外してください」


長い沈黙の後、男は面頬の留め具へ手をかけた。


黒い金属が外れる。


軍名による声の歪みが消える。


頬に、見知らぬ傷があった。


髪は短い。


少年だった頃より痩せ、目元には深い疲れが刻まれている。


けれど、少し首を傾げる癖だけは変わっていなかった。


「久しぶり」


彼は言った。


十二年前と同じ声で。


「リゼ」


リゼットは何も言えなかった。


再会の喜びより先に、怒りが来た。


生きていた。


生きて、何も言わず、敵国の将軍になっていた。


三年間、文書を交わしていた。


自分が誰であるかを知りながら、黙っていた。


左手の軍名が燃え上がる。


《敵国将官の原証反応を確認。直ちに軍名を断て》


命令が骨へ入り込む。


リゼットの指先が、原証の次の節を思い出す。


あと三節。


鳴らせば、彼を殺せる。


ノアは逃げなかった。


「七日目まで待ってくれ」


雪の戦場で初めて会ったときと同じ言葉だった。


「五万人を通した後なら、君の判断に従う」


リゼットは震える指を握り込んだ。


「あなたがノアだから、信じるのではありません」


「分かってる」


「十二年前の約束を、今へ持ち込まないでください」


「分かってる」


「これは」


リゼットは喉の痛みに耐えながら言った。


「十二回目の停戦協定です」


ノアは静かに頷いた。


「今回も守る」


リゼットは原証を鳴らさなかった。


第一の鐘の下、死んだはずの少年と、信頼してきた敵将が、一人の人間になった。


それでも彼女は、まだ彼を抱きしめなかった。


剣も捨てなかった。


二人は敵同士のまま、歩き始めた都市の後を追った。

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