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最後の鐘が止む前に ― 四万八千二百四人を救う、七日間の停戦回廊 ―  作者: ありんこ


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【第1話】十二通目の停戦書

# 第1話 十二通目の停戦書


無旗将(むきしょう)から届いた十二通目の停戦書(ていせんしょ)には、四万八千二百四人の名が記されていた。


羊皮紙(ようひし)を継ぎ合わせた名簿は、両腕で抱えても余るほど厚い。表紙は泥で汚れ、端は雪解け水で波打っていた。けれど、文字は乱れていなかった。


名前。

年齢。

家族。

歩行の可否。

必要な薬。

荷車の有無。

王国語しか話せない者。

帝国語しか話せない者。

どちらの国の戸籍にも載っていない者。


昨夜生まれた子どもの欄には、まだ名前がなかった。


死亡者の名は消されていない。ただ横に、死亡時刻と場所が細く書き込まれている。


行方不明者には、最後に目撃された場所が添えられていた。


カレル城塞都市(じょうさいとし)の鍛冶屋、オルド・バレン。七十二歳。歩行遅延。腰痛。所持品、鍵束多数。


帝国語教師、エマ・ルヴィ。二十九歳。妊娠九か月。夫は王国兵。


戸籍なし、ミロ。推定十歳。両国語混在。木彫りの鐘を所持。


薬師見習い、サナ。十四歳。王国語のみ。母を捜索中。


名簿の中の人々は、ただの避難民ではなかった。


それぞれに持ち物があり、癖があり、失った相手があり、まだ諦めていない名前があった。


リゼット・エイルは、指先でその名簿をなぞった。


およそ五万人、とは書かれていない。


四万八千二百四人。


一人単位だった。


「相変わらず、細かい男だ」


背後でヴァルター将軍が言った。


王国軍本営(おうこくぐんほんえい)天幕(てんまく)には、濡れた革と鉄の匂いがこもっていた。外では雪が降り、兵士たちが七日間の停戦へ備えて武器へ封印布を巻いている。


リゼットは名簿を閉じた。


「細かい、という言葉では足りません」


「褒めているのか?」


「事実を述べています」


ヴァルター将軍は短く息を吐いた。


灰色の髪。右頬の古い火傷。指揮官としての鋭い目。


けれどその目がリゼットの左手へ向いたときだけ、少しだけ父親のものになる。


「手を見せろ」


リゼットは反射的に左手を引いた。


「大丈夫です」


「大丈夫なら見せろ」


彼女は観念して手袋を外した。


白い軍名(ぐんめい)が、手首から手の甲にかけて浮かび上がっている。国家が軍人へ与える魔法の名。力を与え、命令を通し、兵士を軍という一つの機械へ組み込む印。


リゼットの軍名は、他の兵士より深い。


彼女は王国軍の誓印師(せいいんし)だった。


防御結界(ぼうぎょけっかい)停戦条項(ていせんじょうこう)捕虜交換区域(ほりょこうかんくいき)、軍名の修復。そうしたものを読み、書き換え、縫い直すのが彼女の仕事だ。


兵たちは彼女を白誓師(はくせいし)と呼ぶ。


美しい名だった。


だが、命令へ逆らえば軍名は骨まで焼く。


ヴァルターは彼女の手を取り、軍名の縁が裂けかけている部分を見た。


「また無理をしたな」


「昨日の負傷兵回収で、少し」


「少しではない」


「まだ動きます」


「動くかどうかではない。痛むかと聞いている」


リゼットは返事をしなかった。


ヴァルターの手は温かかった。


十二年前、燃える村からリゼットを抱き上げた手だ。


家族を失った彼女を王都へ連れて帰り、娘同然に育てた手。


夜に熱を出せば額へ水布を置き、軍学校で孤立すれば遠くから見守り、剣の稽古で転べば「立て」とだけ言って待っていた手。


その温かさが嘘ではないからこそ、苦しくなる。


「私はお前を壊したいわけではない」


ヴァルターが言った。


「分かっています」


「だが、命令は変わらない」


その一言で、天幕の空気が軍議(ぐんぎ)へ戻った。


ヴァルターは停戦書の表紙を指で叩く。


「無旗将は、カレルの全住民を中立領へ逃がすつもりだ」


「全住民ではありません」


リゼットは名簿へ視線を落とした。


「四万八千二百四人です。全、という言葉では足りません」


「王国から見れば、彼らは危険な集団だ。昨日まで帝国へ食料を売り、先月までは王国へ税を納めていた。両国の血が混じり、両国の言葉を話す。どちらにも忠誠を持たない」


「だから、どちらの国も保護しないのですか?」


「だから、敵兵が紛れ込んでいても見分けられない」


ヴァルターの声は冷たく聞こえた。


しかしリゼットは知っている。


彼は冷たい人ではない。


ただ、戦争の中で冷たい判断を引き受けてきた人だ。


そしてその判断によって、彼自身の息子を失った。


エドガー。


ヴァルターの一人息子であり、リゼットにとって兄のようだった青年。


剣の稽古では容赦がなく、笑うのが下手で、でもリゼットが熱を出すと廊下で一晩中うろうろしていた。


軍学校へ入る前夜、彼は自分の剣帯(けんたい)をリゼットへくれた。


「泣くなよ」


と言った本人が、一番泣きそうな顔をしていた。


その剣帯は今も、リゼットの旅嚢(りょのう)に入っている。


三年前、エドガーは国境の砦で死んだ。


帝国軍の奇襲(きしゅう)によって。


「無旗将は、エドガー砦攻略に関わった可能性がある」


ヴァルターが言った。


リゼットは指先を止めた。


「確証は?」


「焼け残った命令書に、無地の布印(ぬのじるし)があった」


「布印は複製できます」


「お前は敵将を庇うのか?」


「庇ってはいません。事実と推測を分けています」


左手の軍名がじわりと熱を持った。


命令に従え。


王国のために判断しろ。


敵を疑え。


軍名はいつも、そう囁く。


ヴァルターは彼女の手を離した。


「停戦には応じる。だが、住民全員の退避(たいひ)は認めない。敵兵が混じる恐れがある者は除外しろ」


「除外の基準は?」


「王国に忠誠を証明できない者」


「カレルの半数以上が該当します」


「ならば半数以上が危険ということだ」


リゼットは名簿を抱える腕に力を込めた。


ヴァルターは続けた。


「無旗将が協定を破る、あるいは王国軍へ脅威を与えると判断した場合は、討て」


「正体も分からない敵将を、どう討てと?」


原証(げんしょう)があれば、軍名を断てる」


リゼットの喉が固まった。


原証。


その言葉は、彼女にとって戦場のものではなかった。


国境の村の子どもたちが、秘密の友へ預ける古い証。国の名でも、家の名でも、軍の名でもない。その人が誰かに所有される前から、その人であったことを示す鐘の拍。


三つ。


二つ。


一つ。


間を置いて、もう一つ。


十二年前、リゼットはそれを一人の少年へ預けた。


少年の名はノア。


カレル近くの小さな村で、一緒に鐘楼へ忍び込み、叱られ、丘の上に家を建てようと笑った幼馴染。


彼は、村が焼けた夜に死んだ。


少なくとも、リゼットはそう信じている。


「原証は、人を殺すためのものではありません」


リゼットが言うと、ヴァルターは目を伏せた。


「本来はな」


「なら」


「本来など、戦場では真っ先に踏みにじられる」


沈黙が落ちた。


外で、兵士が雪を踏む音がした。


ヴァルターは命令書を机へ置いた。


「明朝、第一鐘楼で無旗将と交渉しろ。お前が白い回廊を監督する。必要なら条項を書き換えろ。ただし、王国に害をなすと判断した場合は、彼を殺せ」


軍名が命令を受け入れた。


熱が骨へ沈む。


「承知しました」


天幕を出ようとしたリゼットの背に、ヴァルターが低く言った。


「帰ってこい」


リゼットは振り返らなかった。


「はい、父上」



外へ出ると、雪が頬へ触れた。


遠くに、カレルの城壁が見える。


その向こうに四万八千二百四人がいる。


そして明日、リゼットは十一通の停戦書を交わした敵将と、初めて顔を合わせる。


彼女は旅嚢の中へ手を入れた。


エドガーの古い剣帯に触れる。


その下に、小さな青銅片(せいどうへん)があった。


四つの刻み。


三つ。


二つ。


一つ。


間を置いて、もう一つ。


ノアと交換した、帰るときの合図。


リゼットは青銅片から手を離した。


過去と明日の交渉には関係ない。


そう思うことにした。



無旗将は、顔を隠していた。


黒い面頬(めんぽお)と、雪をかぶった濃灰色の外套。軍旗も従者も連れず、白い停戦標(ていせんひょう)の前に一人で立っている。


リゼットも護衛を下がらせた。


二人の間には、まだ武器を封じる結界がない。


第一の鐘が鳴るまで、あとわずかだった。


「王国軍誓印師、リゼット・エイルです」


「知っている」


低い声だった。


軍名によって響きが歪められている。年齢も、表情も読めない。


それでも胸の奥に、小さな違和感が残った。


どこかで聞いた声だ。


いや、そんなはずはない。


死んだ人間の声を、戦場で探す方がおかしい。


「あなたも名乗ってください」


「名乗らないから、無旗将と呼ばれている」


「交渉相手へ名を明かす礼儀もないのですか?」


「名を明かせば、交渉より先に殺し合うことになる」


「心当たりが?」


面頬の奥で、男がわずかに息を吐いた。


「ありすぎる」


リゼットは停戦書を掲げた。


「住民全員の通過は認められません」


「理由は?」


「協定の対象外です。敵兵の混入も否定できない」


「通過時に武器を捨てさせる。軍名のある者は別列で確認する」


「五万人近い人間を、七日間で確認できると?」


「近くない」


男が即座に言った。


「今朝の時点で、四万八千二百四人だ」


同じ数字。


停戦書と同じ、迷いのない言い方だった。


「昨夜から死亡者が三人。出生が二人。行方不明者のうち四人を発見した。数字は夕刻に更新する」


リゼットは彼を見つめた。


過去十一通の停戦書も、そうだった。


「負傷兵多数」ではない。


二百十一人。


「子どもたち」ではない。


三十四人。


無旗将はいつも、数字を丸めなかった。


「全員を覚えているのですか?」


「覚えられないから記録する」


面頬の奥から、静かな声が返る。


「数えなければ、誰かを置いていっても気づかない」


胸の奥の違和感が、少しだけ大きくなった。


その言葉を知っている気がした。


誰かを一人にしないため、何度も人数を数える少年を、昔見たことがあるような。


そのとき、遠くで金属音がした。


リゼットが振り向くより先に、無旗将が動いた。


彼の腕がリゼットの肩を抱え、身体を雪の上へ引き倒す。


次の瞬間、二人が立っていた場所を鉄の矢が通過した。


王国側でも帝国側でもない。


崩れた砦の陰に、停戦を望まない傭兵(ようへい)が潜んでいた。


無旗将は剣を抜いた。


左足を半歩引き、右肩を下げる。


リゼットの呼吸が止まった。


木剣を持ったノアが、いつも同じ構えをしていた。


右へ踏み込むように見せて、左から打つ。


少年時代、リゼットが何度も引っかかった癖。


無旗将が雪を蹴った。


傭兵の第二矢を剣で払う。刃を返す。殺さず、弓だけを断つ。


リゼットも立ち上がり、誓印の鎖で傭兵の手足を拘束(こうそく)した。


無旗将はリゼットへ背を向けない。


けれど剣先も向けない。


「負傷は?」


彼が尋ねた。


「ありません」


「ならよかった」


その言い方まで、似ていた。


似ているだけだ。


そう自分へ言い聞かせた瞬間、第一の鐘が鳴った。


低く、長い音が雪原を渡る。


カレル旧市門(きゅうしもん)の第一鐘楼。


鐘の響きが空気を震わせ、両軍の武器へ広がっていく。


大砲の火が消える。


魔術師の杖から光が落ちる。


弓の弦が緩み、剣に宿った軍事誓印が沈黙する。


七日間の停戦が始まった。


そして、カレルの城門が開いた。


最初に出てきたのは、白い布を掲げた老人たちだった。


続いて荷車。担架。子ども。家財を背負った女たち。


街の鍵師オルドが、城門の錠前に最後の油を差していた。


彼は腰に何十本もの鍵束を下げている。


「この街の扉は、誰かが戻るまで錆びさせねえ!」


そう叫ぶ声が、雪の中でも聞こえた。


妊婦のエマは、荷車の上で腹を押さえていた。王国語しか話せない老母が、帝国語しか話せない夫へ何かを叫んでいる。二人は言葉が通じないまま、同じ毛布を引っ張り合っていた。


ミロという少年は、木彫りの鐘を胸に抱え、列の隙間を行ったり来たりしている。誰の子でもないため、誰の荷車にも乗れないらしい。


家々の灯りが一つずつ消えた。


その灯りがランタンとなり、街道へ移っていく。


城壁の内側にあった都市の光が、雪の大地へ流れ出してくる。


まるで街そのものが、光の川になって歩き始めたようだった。


「全員を通すつもりですか?」


リゼットは尋ねた。


「全員でなければ、始める意味がない」


「不可能です」


「不可能に近い」


「同じでしょう」


「違う」


無旗将は、動き始めた人々を見ていた。


「君がいれば、近い方になる」


昔、ノアも似たことを言った。


川へ落ちた子どもを助けようとしたとき。


一人では無理だとリゼットが止めたとき。


二人なら、無理に近いだけになる。


そう言って、縄を持たせた。


リゼットは面頬の横顔を見た。


何も分からない。


「私は、あなた自身を信頼しているわけではありません」


彼女は言った。


「承知している」


「信頼しているのは、過去十一回、無地の印が約束を破らなかったという事実だけです」


「それで十分だ」


「七日間だけです」


「十分だ」


男は迷わなかった。


第一の鐘が鳴り続ける中、二人は並んで歩き始めた。


まだ名も知らないまま。

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