2 到来
「おはよう。あら、早いのねえ」
牛乳配達のお姉さんがいった。
「おはようございます。モグモグ……」
ジャムパンを食べながら、小さな男の子が答えた。
「ジャムパン、好きなの?」
「ウン」
パンを口にくわえたままの格好で両手を伸ばすと、男の子はお姉さんから牛乳瓶を三本受け取った。大きな目がいたずらっぽく、クルクルまわる。
「この辺も変わっちゃったわねえ」
両手と口が塞がった男の子を見るに見かねて牛乳瓶を受け取ると、牛乳配達のお姉さんはいった。男の子の家の玄関先に瓶を置く。
「あのハラペコ怪獣がトキオに降ってきてから、まだ一月も経っていないってのにさ、シュールな建物はそこいらじゅうに花盛り」
嬉しそうに自分を見つめる男の子に目を向けて、
「きっと建築屋さんは上がったりでしょうね」
男の子の家の前に広がる公園の向こう、ひっそり閑とした材木問屋を肩越しに見た。
「あたしの好みからいえば、怪獣さんの建物は嫌いじゃないけどさ、みんながみんな真似っこしてたら、いまに日本全部がおもちゃ箱の中みたいになっちまうよ」
うなずく男の子に化粧っ毛のない顔を寄せ、
「だいたいがさ、この国の人間には個性ってモンがないんだよ。誰かがとんがった車を買えば、他の誰かがそれを欲しがる。議会はドイツ、服はアメリカ、文法の用語だって、よその国からの借りもんだろ」
男の子の鼻先をちょんと突くと、にかっと笑い、
「坊や、本当はすっごく頭がいいんだろう、ちがうかい? まともに考えたら、あたしだって、子供相手にこんな話はしてやしないさ。でもね」
ふっと、ため息。
「あたしにはわかるんだよ。たぶん、だけどね。坊や、もしかしたら、遺伝子改造かなんか受けてやしないかい? あたしは、これでも、生物学のコースドクターだかんね。なんとなく、わかるんだよ」
乗ってきたオートバイにさっそうとまたがり、それを走らせて、
「バイ、坊や!」
それだけいうと、牛乳配達のお姉さんは立ち去った。
「バイ、お姉さん!」
男の子も叫ぶ。
「名前を教えてよ」
「頭文字はMだよ」
「サンキュー!」
部屋に戻った小さな男の子は電子ピアノの前に腰かけた。最新式のシンセサイザーで、コンピューター制御によって千種類以上の合成音が出力できるという代物だ。もちろん、設計者は大乗寺啓之助。もっとも、本人は暇にまかせて余計な機能をつけ過ぎたといっていたが……
部屋にはハードロック&ヘビーメタルがかかっていた。いまかかっているのはインペリテリのファーストアルバム『スタンド・イン・ライン』。男の子のお気に入りのCDだった。
「この速弾きがなんともいえないね」
ひとり呟くと、男の子はキーボードに向かい、ギターに合わせて指を動かしはじめた。とたんに曲が流れだす。速く、遅く、速く、速く、速く。イメージと思い入れたっぷりに、シンセサイザーの音が部屋に溢れかえった。いま聞こえているのはエレピ(電気ピアノ)の音だ。スイッチを切り換えると、それがグランドピアノの音色に変わった。左手が踊って、また音色が変わる。バイオリン、ビオラ、マリンバ、バラライカ、ハープ、オカリナ、ティンバーロム、ホルン、ティンパニ、笙の笛。めまぐるしく音が氾濫し、旋律を追って駆けてゆく。次のCDは、イングヴェイ・マルムスティーンのレニングラード・ライヴ『トライアル・バイ・ファイア』だ。途中に挿入されるパガニーニのパッセージが格好良い! アルビーノの『アダージョ』を経て、やがてバッハの『小フーガ・ト短調』がはじまった。ベートーヴェンの『運命』が潮騒のせせらぎで奏でられ、大バッハの『G線上のアリア』が雨だれの音で後を飾った。最後にバルトークの『ミクロコスモス』を数曲弾くと、さすがに男の子もくたびれた。指を休めて、ほっとひと息つくと窓を見る。
すると、そこには――
渦巻があった。
向かってくる。男の子めざして飛んでくる。そして形がはっきりしてきた。ぼやけた渦巻の輪郭が薄れ、何かの塊がまわっていた。近づいてくる。もっと、はっきり見えてくる。その塊は無数にあった。そしてそれは――
文字だった!




