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プラトンの洞窟

【あらすじ】

セリーン、オリア、ロキシー、そしてレイラの死闘を描く、プラトン戦・中編!

レイラのサディスティックな笑みはこれ以上広がることはなく、代わりに粘ついた暗闇が彼女から滲み出した。


たった二本の指……。プラトンの銀の刃を止めるには、それだけで十分だった。


「あらあら……。わたくしの家族を傷つけておいて、タダで済むとでも思いまして?」


──『パラドックス:網の饗宴』!


剣の周囲の空間が歪む。絶対に狂わぬはずの直刀が、まるで主君に反逆する金属の蛇のごとく、あり得ない軌道で捻じ曲がり……唐突に反転した。

その鋭利な切っ先が、プラトン自身の顔面へと牙を剥く!


プラトンは驚愕に目を見開いた。


一歩後退し、跳ね返ってきた刃を躱すために首を傾ける。それは完璧な動作であり、一切の瑕疵もない理想的な回避行動だった。


だが……レイラの狙いは、この一撃で彼を殺すことではない。

ほんのコンマ一秒、彼の『集中をへし折る』こと。


そしてその刹那の隙に……一匹の獣が待ち構えていた。


「獲ったぜェ、クソ野郎!」


セリーンの部分的な治療と、己の剣に気を取られたプラトンの演算の死角を突き、「ロキシー」が跳躍する。

砲弾の如き速度で放たれた、捨て身の側頭部への回し蹴り。


プラトンは『イデアのエコー』を駆動させ、再び上体を後方へ反らした。距離を完璧に支配し、その蹴りをミリ単位で躱しきる。


躱した……そう、彼は確信した。


ギィィィィィンッ!


蹴りそのものが直撃したわけではない。

だが、通り過ぎるロキシーのブーツの『先端』が、彼の左頬を浅く削り取ったのだ。


世界が、完全に静まり返った。


血飛沫を撒き散らしながらロキシーが床を転がる中、プラトンは彫像のごとく硬直していた。


震える手を、ゆっくりと……ひどくゆっくりと持ち上げ、自身の左頬に触れる。

指を引き戻し、目の前へかざした。


彼の純白の手袋を、ドロリとした漆黒のオイルが一滴、汚らしく染め上げていた。


完璧なる磁器の顔に傷がついた……。

一切の瑕疵なきエコーの最高傑作が、醜く細い一本の線によって汚されたのだ。


「私の……顔が……」


震える声で、プラトンが呟く。


「私の顔が……私の、完璧が……」


ギリ……ギギギギギ……ッ!


全身が痙攣する。

中性的な美貌と貴族的な気品が、一秒にしてドロドロに溶け落ちた。眼球がこぼれ落ちんばかりに見開き、両耳まで裂けるような醜悪な笑みが口元を歪ませる。


「アアアアアアアァァァッ!! 私の完璧が! 私の顔がァ!! この薄汚い生物学的汚物どもがァァァ!!!」


貴族には到底似つかわしくない、鼓膜を劈くような醜くヒステリックな絶叫が空間を切り裂いた。


握りしめていた純白のハンカチを乱暴に投げ捨てる。

『完璧な計算距離』は消え失せた。『優雅な所作』も跡形もなく消え去った。


プラトンが、襲い掛かる。


哲学者としての威厳をかなぐり捨て、ただの狂犬へと成り果てて。


ドゴォォォォンッ!


彼はレイピアを刺突に用いず、無骨な棍棒のように振り回し、純白のタイルを粉砕した。

身を起こそうとするロキシーへ向けて突進し、彼女が瞬きするよりも早く、その磁器の腕で首をわし掴みにし、宙へと吊り上げた。


「汚物ッ! 汚物ッ! 汚物ゥゥゥッ!!」


バァァァンッ!


ロキシーの肉体を、床へと激しく叩きつける。


バァァァンッ!


再び吊り上げ、叩きつける。狂気に満ちたヒステリックな笑い声が、打撃のたびに彼の喉から漏れ出ていた。


「私の顔をッ! 貴様と同じ、醜い赤い肉片に変えてやるッ!!」


「その手を離しなさいッ!」


レイラは傍観などしない。ドレスから漆黒のエネルギーを溢れさせ、勢いよく扇子を開き放った。


──『アクシオム・パラドックス:真鍮の渓谷』!


大地が割れ、幾千もの悍ましき幻影と影が這い出す。

牙を持つ漆黒の腕、幻の鎖、精神を食い破る怪物たち。それらすべてが、狂乱するプラトンの四肢を縛り上げようと殺到する。


だが、獣と化した貴族は、もはや痛みなど意に介さない。


「虫ケラの幻影がァッ!」


あらゆる防御を無視し、プラトンは前進する。黒い手形が優雅な服を引き裂き、鎖が肉体に食い込んで漆黒のオイルが火花のように散る。

それでも止まらない! 悪夢のようにボロボロになった身体で、『真鍮の渓谷』を強行突破したのだ。


瞬きする間にレイラへと肉薄し、汚れた剣による暴力的な横薙ぎの一撃を見舞う。


(殺される……!)


レイラは悟った。その一撃には、彼女が反射できるような『予測可能な軌道』など一切存在しないことに。


ドンッ!


ギリギリの瞬間、温かい体温を持つ誰かが、レイラを突き飛ばした。


ザシュゥゥゥッ!


「セリーン……ッ!!」


レイラが悲鳴を上げる。


セリーンが、彼女の身代わりとなって凶刃を受けたのだ。

肩から胸にかけての肉が大きく抉られ、赤と緑の血液が混ざり合って宙を舞う。心優しき癒やし手は、自身の血の海に倒れ込み、苦しげに喘いだ。


プラトンの足が、止まる。


崩壊した戦場の中央に立ち、醜い機械音を立てて荒い息を吐き出す。


自らの両手を見る。剣を見る。純白だった装甲を見る。

そのすべてが、彼女たちの赤い血と、彼自身の黒いオイルで完膚なきまでに汚染されていた。


悍ましいほどの吐き気と嫌悪感が、彼という存在を支配する。


「私を……汚したな……」


もはやその声にヒステリーはない。宇宙の真空のように冷酷で、底なしの虚無感を湛えた、恐ろしい声色へと変わっていた。


その手から剣を投げ捨てる。そして、ゆっくりと両腕を天へと掲げた。


「貴様らの存在で、この世界は穢れた……。貴様らが生まれた虚無へと還元してやろう。影の中へ……絶対の幻影の中へな!」


彼の肉体から、極めて濃密で粘ついた漆黒のエネルギーが爆発し……光を、大気を、音すらも貪り食っていく。


──『イデアのエコー:洞窟の比喩』!


すべてが、消失した。


一枚岩の塔も。森も。空でさえも。

四人は、完全なる暗黒に包まれた洞窟の底にいる自分たちに気がついた。触れられる壁すら存在しない。


レイラは動こうと試みたが、見えない鎖が——山のように重い鎖が、彼女の四肢を縛り付けていた。


彼女たちの眼下、暗闇の最奥で、巨大なスクリーンが淡い光を帯びて燃え上がる。


スクリーンに映し出されたのは、ひどく歪んだ『影』。

首を吊られるレイラの影。炎に焼かれるセリーンの影。押し潰されるロキシーの影。苦痛に身をよじり、絶叫する影たち。


(何ですの、これは……? わたくし精神あたまが……!)


レイラは内心で悲鳴を上げた。


この『影の洞窟』の真の恐怖は、狂った視覚情報ではない……現実そのものが悍ましく反転していることだ。


彼女たちの五感は、完全に狂っていた!


セリーンの傷の激痛は、脳髄を凍らせるほどの『極寒』へと変貌し。

影たちの絶叫は音として聞こえず、鼓膜を破るほどの『重圧な静寂』へと反転し。

重力は消失し、永遠に終わりのない奈落を真っ逆さまに堕ちていく感覚に囚われる。


それは、人間の精神からアイデンティティそのものを剥奪する、抽象の地獄。


セリーンの瞳から光が失われ始め、何度も引き裂かれる己の影を見せつけられたレイラの精神防壁が崩壊していく。


ここでの死は、肉体的な死ではない。それは永遠の拷問であり、存在と意識そのものの消去なのだ。


(終わりですわ……。わたくしたちは単なる幻……。ただの、影……)


レイラが、絶望に呑まれかけたその時——。


最強の精神すらもへし折る、この完全なる虚無の中で……。


キヒ……キヒヒヒ……。


微かな声がした。

この静寂の世界では、絶対に聞こえるはずのない音が。


アハハハハハハハハハハッ!!


耳障りなほど無邪気で、ヒステリックで、そして野蛮な笑い声が、暗闇を斬り裂いた!


疲弊しきったレイラが目を見開き、やっとの思いで声の主を視界に捉える。


「ロキシー」だった。


ロキシーが、笑っていた!


五感が反転し、痛みが別の何かへとすり替わったことで……ロキシーの頭脳は、現状を『理解する』ことすら放棄していたのだ。


彼女はただ単純に、純粋なる『獣の直感』に身を委ねていた。幻影など見向きもしない。ただ、獲物の血の匂いだけを嗅ぎ取る、純度百パーセントの本能に!


獣は、己が洞窟にいようが幻影の中にいようが知ったことではない。獣が望むのは、ただ眼前の肉を引き裂くことのみ。


そのおぞましくも狂った光景が、レイラの心に再び生命の火を灯した。


(エコーはここでは機能しませんわ……論理あたまなど無意味……ならば!)


痛覚が反転していようとも、レイラは己の舌を噛み切って強引に意識を繋ぎ止めた。残されたすべての力を『パラドックス』へと注ぎ込み、ただ一つのテレパシーを送信する。

暗闇の奥、静かに佇むたった一人の人物へと放たれた、起死回生の囁きを。


(オリア……!)


オリオンの姫の脳髄へ、レイラは直接語りかける。


(純粋なるアノマリーは、内側からは宇宙の記録アカシャの影響を一切受けない……そうでしょう、わたくしのお姫様? この暗闇も……呪縛の鎖も……貴女の純度の前では、すべてがただの幻ですわ)


漆黒の洞窟の片隅で、「オリア」がゆっくりと顔を上げた。


(ロキシーが場を引っ掻き回しますわ……あの盲目の獣が彼を捕らえた瞬間……貴女の手を、あの男の心臓に押し当てるの。あの不愉快な茶番に、引導を渡してやりなさい!)


絶対的な暗黒の中で、オリアが瞳を開く。

そこに、恐怖の色はない。絶望の影も、微塵も存在しなかった。


虚無の空間へ、静かに右手が掲げられる。


指先から、微弱だが恐ろしいほどに純粋な、エメラルドグリーンの光線が灯り始めた。


それは、哲学者の地獄に生じた、たった一つの致命的な希望の光だった。



【作者からの問いかけ】

今回は長く、そして恐ろしい展開のチャプターとなりましたが、いかがでしたか? 長すぎると感じましたでしょうか、それとも白熱した展開のおかげであっという間に読めましたか? ぜひご感想をお聞かせください!


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