イデア(理想形)
【あらすじ】
プラトン対セリーン、オリア、ロキシー。その死闘の幕開け。
規則正しい足音が響く……。
静寂で……吐き気を催すほどに、完璧な足音が。
一枚岩の塔の無秩序に積み上がった頂へ、一本の羽のように軽やかに「プラトン」が舞い降りた。
大気は微塵も揺れず、埃一つ立つことはない。
冷徹な磁器の双眸が場を舐め回す。
そして、「ロキシー」「セリーン」「オリア」の三人へと視線を据えた。
その眼差しに宿るのは、絶対的な優越感と、底知れぬ嫌悪だけ。
「……何と薄汚い肉袋だ」
プラトンは優雅なコートのポケットから純白のハンカチを取り出した。
磁器のように滑らかな機械の腕から、存在しない埃を拭い始める。
まるで、彼女らと同じ空間に立つことすら、己の純潔を汚すかのように。
「貴様らが存在するだけで、この宇宙の完璧な秩序が傷つく……。血の臭いと、生物特有の生々しさが、私に吐き気を催させるのだ」
彼が、その優美な靴の爪先で軽く床を叩く——。
それだけで、世界が変貌した。
「イデアのエコー!」
モノリスタワーの乱雑な金属の床が蒸発する。
無数のスクラップが虚無へと消え去る。
たった一秒。戦場は、一切の瑕疵なき鏡面——プラトンの姿を完璧に反射する純白のタイルへと塗り替えられていた。
三人の妻たちは、思わず一歩後ずさる。
彼から放たれる威圧感は、単なるエネルギーではない。
意志を砕き、心臓を恐怖で握り潰すほどの絶対的な『法則』。
自分たちが対峙しているのは、次元の異なる絶対強者なのだと、本能が警告していた。
だが、狂犬ロキシーに『忍耐』の二文字は存在しない。
「あァ……? アタシの事を誰が肉袋だって、このクソ磁器野郎がァ!!」
ロキシーが牙を剥く。
血に飢えた野蛮な笑みが顔に張り付き、その肉体が爆発的に前傾した。
「その完璧なツラ、泣いて命乞いするまでブチ壊してやるよ!!」
「獣のアクシオム!」
ドゴォォォンッ!
ロキシーの足元のタイルが粉砕される。
音速を遥かに凌駕する踏み込み。
鼓膜を劈く轟音と、引き裂かれた乱気流を置き去りにして。
要塞すら消し飛ばす圧倒的な暴力が、彼女の右拳に収束していく。
狙うは、プラトンの顔面ただ一つ!
しかし……彼は瞬きすらしない。
ズドォォォンッ!
空気を引き裂く巨大な衝撃波が吹き荒れた。
だが、ロキシーの瞳に見開かれていたのは、驚愕。
彼女の破壊の拳が……止まっていた。
エネルギーの壁でもない。
磁器の盾でもない。
ただ一本の、極細の銀のレイピアの『切っ先』によって!
プラトンは、人間の動体視力を超越する優雅な所作で剣を抜き放ち……
突進するロキシーの拳のど真ん中へ、ミリ単位の狂いもなく切っ先を添えていたのだ。
「——完璧なる数学的距離だ」
プラトンは酷薄に言い放つ。
その視線はロキシーではなく、己の剣の煌めきだけを見つめていた。
「貴様がどれほど無秩序で野蛮な力を振るおうと、意味はない。私が攻撃点と防御点の『距離』を支配している限り……貴様の攻撃は、常にゼロなのだ」
「チッ……! ナメんじゃねェぞ、クソが!!」
ロキシーは咆哮し、さらに力任せに押し込もうとする。
しかし、彼女の肉体は、自らの異能による凄惨な代償を支払い始めていた。
ビキッ! ビキキッ!
内側から筋繊維が千切れる悍ましい音。
揺るぎなき哲学者の盾に対し、限界を超えてアクシオムを流し込んだ結果、己の肉体を内側から破壊し始めたのだ。
毛穴という毛穴から、おびただしい血が噴き出す。
「ロキシー! 今すぐ下がってください!」
セリーンがパニックに染まった柔らかい声で叫んだ。
彼女は純白のタイルに素早く膝をつき、両手を当てて能力を発動する。
(わたし自身の意識を、この星の根脈に繋ぎます……! 安全な距離から自然の生命力を引き出して、ロキシーの筋肉を癒やさないと……!)
だが……意識を地下深くへ沈めた瞬間……。
セリーンの全身の血が凍りついた。
(何にも……ない……!?)
土がない。
根がない。
脈打つ微生物の細胞一つすら存在しない!
このザイロスの大地には、そもそも自然も、根も、植物も存在しなかった。まるで、最初から星などではなかったかのように。
セリーンの狼狽に気づいたプラトンが、侮蔑の眼差しを向ける。
「この私の完璧なる世界で、自然などを探しているのか? 下等生物が命に執着する様は、実に吐き気を催す。薄汚い生物学的な宇宙の記録め……私の空間を汚すな」
プラトンが、虚空に向かって冷徹にレイピアを振るう。
シュィィィン!
大気中に展開されかけていたセリーンの『生命の流転』が、直接斬り裂かれた!
「かはっ……!」
霊的な繋がりを無残に断ち切られ、セリーンは血を吐いてその場に倒れ伏す。
数歩離れた場所で、オリアは歯の根を鳴らしながら、極限の速度で思考を巡らせていた。
(隙がない……どこにも!)
オリアは悔しさに唇を噛む。
(彼のエコーを消去するために『純粋なるアノマリー:浄化』を使うには、私の手が直接彼の身体に触れなければならないわ。でも……あの速度と絶対的な距離の支配……。一歩でも近づけば、確実に殺される……! どうすればいいの……!?)
「……イデアとの戯れは、ここまでだ」
プラトンの声が一段低くなり、底知れぬ冷酷さを帯びた。
「清掃の時間だ。この視覚的汚物を、存在ごと消し去ってやろう」
プラトンの姿が掻き消えた。
移動したのではない。
最初から『動く』という概念すら存在しなかったかのように——。
筋繊維を引き裂かれ、荒い息を吐くロキシーの目の前に、彼は立っていた。
「ハァッ!!」
殺意を剥き出しにして振り向くロキシー。
だが。
一秒にも満たない刹那の間。
プラトンのレイピアから、数百もの刺突が放たれた。
そのすべてが、狂いのない完璧な精度で急所を貫く。
「あああああっ!!」
赤い雨のごとく血飛沫が舞い、空気を赤黒く染め上げる。
「ロキシー!!」
セリーンが涙を浮かべて飛び出した。
吸収すべき自然が存在しないと悟った彼女は、自身の能力の恐るべき暗黒面を行使する!
そこにある、あらゆるものを対象に。
「生命の流転:収奪(逆流ライフ・フロウ)!」
大気中に残留する微かな生命エネルギーすらも強制的に収奪し、灰へと変えながら、ロキシーの引き裂かれた肉体へ瞬時に細胞再生を施す。即死だけは免れさせるために。
同時に、オリアが全身を光らせた。
プラトンの両目を目掛け、連続してエメラルドグリーンの光線を放ち、なんとか注意を逸らそうと試みる。
しかし、プラトンは一瞥だにしない。
宇宙の記録の爆発が吹き荒れる中を、彼は悠然と歩みを進める。
すべての光線は、完璧な磁器の装甲によって弾かれていた。
わずか数秒……。
三人の妻たちは、冷たい床に崩れ落ちていた。
荒い呼吸……。
止めどなく流れる血。
血の海に沈む彼女たちの前に、プラトンは悠然と立っている。
その純白の装甲はまばゆく輝き、一滴の血潮に触れることも、一ミリの傷を負うこともなかった。
プラトンは、血溜まりに横たわるロキシーの肉体へとゆっくり近づく。
彼女を見下ろすその眼差しは、死にかけの羽虫を眺める絶対的な超越者のそれであった。
銀のレイピアが高々と振り上げられ、切っ先がロキシーの心臓を捉える。
「消えろ、生物学的汚物」
傲慢な笑みとともに、稲妻の速度で剣が振り下ろされた。
セリーンが絶望の悲鳴を上げる。
オリアが、無力さに目を閉じた。
……。
…………。
ギィィィィンッ!!!
鼓膜を破壊するほどの、鋭く甲高い金属の摩擦音が鳴り響いた!
時が止まった。
プラトンの双眸が、驚愕に見開かれる。
初めて、その磁器の顔から冷徹な仮面が剥がれ落ちた。
剣が……。
虚空をも切り裂く鋭利な刃が……。
空中で、完全に停止していたのだ!
一瞬、プラトンは彼女に盾が張られたのか、あるいは別の剣が受け止めたのかと錯覚した。
だが、そのどちらでもない。
レイピアの刃は、たった『二本の指』によって受け止められていたのだ!
「な……なんだと……!?」
プラトンの視線が、信じられないものを見るように下へと向かう。
床に倒れ伏すロキシーの『影』が……不自然に歪んでいた。
もはや光や論理の法則に従っていない。
まるで、底なしの黒インクの沼のように波打っている。
そして、その漆黒の影の中から……。
一本の女の腕が伸びていた。
絹の手袋に包まれたその指が、たった二本で銀の刃を摘み、プラトンの『完璧なる数学的距離』の概念を粉砕していた。
影が形を成していく。
蠱惑的な女の輪郭が浮かび上がる。
パラドックスを行使し、影と同化することで、予測不可能な死角から這い出てきたのだ。
影の中から、ゆっくりと「レイラ」が顔を上げる。
真紅の唇が歪み……大気すら震え上がるような、サディスティックで恐ろしい笑みを浮かべていた。
「あらあら……」
気高く、優雅で……それでいて猛毒を滴らせるような彼女の声が、戦場に響き渡る。
「ずいぶんと鬱陶しいクズ鉄の塊ですわね……。私の家族を傷つけるなんて」
【次回への問い】
レイラの参戦により、戦局は覆るのか!?




