A² + B² = C²
【章のあらすじ:戦いの終焉が徐々に近づく中、イヴとピタゴラスの死闘が始まる。果たして勝者はどちらか?】
科学の信奉者たちは、存在のすべてが方程式に支配されていると盲信し、意志が奪われた時、論理などただの迷信にすぎないことを忘れている。
この宇宙において、不変のものなど存在しない。
真理すらも、変革の意志を持つ者の前では平伏すのだ。
認識が書き換えられた時、科学に何の意味があるのだろうか?
冷たく、荒涼とした青の空間。
一切の瑕疵がない幾何学的な立方体。
その壁は、一寸の狂いも許さない鋭角なネオンの交差線で輝いていた。
錆も、腐敗も存在しない。生物の穢れを一切寄せ付けない、絶対的な純粋さ。
その静寂の中心に、第四の哲学者ピタゴラスが浮遊していた。
絶対的な暗闇を彫り抜いた彫像のような、滑らかで漆黒の肉体。
その周囲を、マトリックス状の数字とホログラムの図形が、まるで軌道を描く天体のように回転している。
その対極には、イヴが立っていた。
彼女の顔はいつものように無機質であり、恐怖も焦燥も一切浮かんでいない。
両手は静かに下ろされ、医療用眼鏡のレンズが、立方体の冷たい青い光を反射していた。
「血肉の解析……完了しました」
ピタゴラスは一切の抑揚も感情も欠落した、単調な機械音声で告げた。その両眼が、赤い光を明滅させる。
「あなたの生存確率は、限りなくゼロに近い。その肉体は脆弱さの塊であり、病という名のバグの墓場にすぎない。生物学的動物の運命は、消滅のみ。我々の世界において信じるべきは、科学と論理。そして、計算式に基づく宇宙の解釈だけです」
イヴは瞬き一つせず、その言葉に心を乱すこともなかった。
静かに手を上げ、眼鏡のフレームを押し上げる。
「その思考アルゴリズムは、すでに時代遅れです。僕も科学を信奉する者ですが……だからといって、あなたと同じ計算式を信じないというだけで、他の生命体に死の判定を下す権利は誰にもありませんよ、クズ鉄の塊」
ピタゴラスの周囲を回る幾何学図形が、激怒の赤に染まり明滅した。
「私の信念が陳腐なデータだと……? 侮辱するな、害虫め!」
「幾何学牢獄のエコー(エコー・オブ・ジオメトリック・プリズン)!」
ガガガガッ!
無から青い壁が実体化し、イヴを完全に包み込んだ。
彼女を周囲の空間から切り離し、頑絶な金属の檻に閉じ込める。
直後、牢獄の壁が収縮を開始した。
上下左右、前後。
六つの面がゆっくりと迫り、彼女の肉体を体積ゼロの点へと圧殺しようと這い寄ってくる。
「数字は嘘をつきません」
ピタゴラスは後ろ手で組み、冷徹に檻の中を観察した。
「あなたの占有空間は、定数の方程式に従って収縮している。いかなる装甲も、筋肉の力も防ぐことは不可能。死を受け入れなさい。あなたの消滅は、100%確定した数学的必然なのですから」
終わりを視認できる知能を持つ者であれば、誰もが死の恐怖に狂うだろう。
だが、イヴは迫り来る壁を叩くことすらしなかった。
パニックを起こすこともなく、恐怖のノイズが彼女の論理回路に混入することもない。
肩に触れるほどに迫った壁を、ただ無表情で見つめていた。
「数字は嘘をつかない……」
彼女は微かに唇の端を上げ、静寂を鋭利なナイフのように切り裂く声で囁いた。
「ですが……僕の望む解を出力するように、再プログラミングすることは可能です」
ピィィィィンッ!
眼鏡の奥の瞳が、荒野の夜を切り裂く稲妻のように、激しく青い閃光を放った。
彼女はゆっくりと、迫り来る壁に向かって平手を開く。
「共鳴のアクシオム(エコー・アクシオム):イヴの定数」
イヴが頼ったのは、筋肉の脆弱さでも装甲の強度でもない。
自らの絶対法則を、周囲の次元座標に直接上書き(インストール)したのだ。
「新たな数学的法則です……」
背筋が凍るほどの冷たい声で、彼女は絶対的な解を宣告した。
「『1+1=0』……であると」
ピタッ……。
瞬きする間に、ピタゴラスの論理回路では処理不可能な事象が発生した。
立方体の壁の収縮が、完全に停止したのだ。
ジジジジジッ!!
ピタゴラスの周囲を回るホログラムの数字が、狂ったように激しく明滅し始める。
静かな青色から、おぞましい鮮血の赤へと変色し、整然とした数字は破損したバグデータを出力する不気味なノイズへと歪んでいった。
イヴは、数学の定数を根底から書き換えてみせたのだ。
パリンッ!
絶対の檻がガラスのように砕け散り、空中で霧散して完全に消去された。
「な……っ!?」
勝利を確信していたピタゴラスの双眸が極限まで見開かれ、未知の恐怖がその回路を侵食する。
「何を……何をした!? これは非論理的だ! あり得ない! 定数が破壊されるなど、計算外だ!」
数学の信奉者は完全に平衡感覚を失い、無様に地面へと膝を突いた。恐怖が露わになる。
バチバチバチッ!
関節部から高温の火花が吹き出し、漆黒の装甲に亀裂が走る。
中央演算装置(CPU)の温度が融点を超え、首の付け根から黒い煙が猛烈な勢いで噴き出してきた。奴の論理回路がドロドロに溶け出していく。
「不可能だ! 論理は絶対だ! ロジックは間違えないッ!」
ピタゴラスは狂乱し、震える両手で自身の金属の頭部を激しく殴りつけた。
数学が嘘をつき、論理が死滅するという事象を処理できず、その機械の脳は致命的なメルトダウンを起こしていた。
カツッ……カツッ……。
イヴは一定のリズムで、静かに歩み寄る。
その足音は、死へのカウントダウンのように空間に響き渡っていた。
無数の数学と物理学の法則を泣き喚きながら這いつくばるピタゴラスを見下ろし、その前に立つ。
イヴは人差し指を伸ばし、溶けかけた奴の額へと冷酷に突き立てた。
「言ったはずです……。上位三名でもないあなたでは、僕の敵にはなり得ないと」
ピタッ……。
ピタゴラスの眼の光が、完全に消失した。
狂乱の叫びが静寂に吸い込まれる。
魂を悼まれることも、鼓動する心臓もないまま、ただのクズ鉄の塊として崩れ落ちた。
第四の哲学者の完全停止と同時に、構築されていた青の世界が崩壊する。
蜃気楼のように空間が溶け落ち、イヴの足は再び、濃煙が立ち込めるザイロス星の大地を踏みしめていた。
——同時刻。
化学的なスモッグの帳の向こう側、また別の次元空間において。
腐敗したオイルと揮発性の有毒ガスが混ざり合った、酷く澱んだ空気が漂っている。
そこは、長い年月放置された廃墟の実験室のようなおぞましい空間だった。砕け散ったガラス管と、黒く乾いた血痕が至る所に散乱している。
その中心に、第三の哲学者、ソクラテスが立っていた。
白骨死体のように極端に痩せ細り、背を丸めたサイボーグ。汚れて引き裂かれた白衣を羽織っている。
耳から耳まで裂けたような、恒久的な金属の笑みが、見る者の臓腑をかき回すような嫌悪感を抱かせる。
奴は首を不自然な鋭角へと傾け、期待に胸を膨らませるように錆びた両手を擦り合わせていた。
「キヒヒヒヒ……さて、今日このささやかな実験室を訪れるのは誰かな?」
純粋な悪意とサディズムが滴る、神経を逆撫でするような声でソクラテスが笑う。
「私の研究の痛みに泣き叫ぶ、新鮮な生肉かな? それとも、救いを求める哀れな迷い虫かな?」
辺りを漂う戦闘の煙が、ゆっくりと晴れていく。
だが……。
ソクラテスの喉の奥で、下劣な笑い声が完全に凍りついた。
耳まで裂けた金属の笑みが、徐々に、しかし確実に消え失せていく。
奴の前に現れたのは、恐怖に怯え、精神をへし折るのを楽しむような『獲物』ではなかった。
そこに立っていたのは、第一夫人、ヴェロニカ。
シワ一つない、厳格で完璧なフォーマルスーツに身を包んでいる。
その双眸は、血の気すら凍りつかせる絶対零度の氷湖のようだった。
彼女から放たれる圧倒的な『秩序』のオーラが、このおぞましい空間全体を完全に制圧していたのだ。
そして、彼女の足元には……。
偽りの姿である小さな仔猫、ニクシアが付き従っていた。
その瞳は『純粋なるアノマリー(純粋なる異常)』の恐るべきエネルギーで妖しく輝いている。
ペロッ……。
ニクシアはゆっくりと舌を出し、自らの唇を舐め回した。
猫の姿でありながら、背の曲がったサイボーグを見上げるその目は、ただ単に『喰われるのを待つ肉の塊』を見定める捕食者のそれであった。
【読者への問いかけ:今回は少し違った質問です。皆さんは学生時代、ピタゴラスの定理をちゃんと理解していましたか?】




