第39話
「……はぁ。相変わらずだな、アンタたちは」
ギガルが額を押さえながら重いため息をつく。
「まあ、ミナちゃんに本気で睨まれたら、アタシらの文句も引っ込むってことさ」
ベルタも苦笑いしながら肩をすくめ、シェリーは開いていた扇子をパタンと閉じて上品に微笑んだ。
「コホン」
弛緩した空気の中、ヘンドリックがわざとらしく咳払いをして間を取り持った。
「さて、秘書の教育は後にしていただくとして。……本題に戻りましょう、会長。貸付金の件、いかがなさいますか」
ヘンドリックの促しに、ワイズは表情を引き締めた。商会の主の表情を見た支店長たちも、改めて姿勢を正す。
ワイズは背筋を伸ばし、デスクを囲む四人の支店長たちの視線を、正面から真っ直ぐに受け止めた。
そこにいるのは、ミナを諭していた面倒見の良い雇い主ではない。
大陸経済を裏から牛耳る、冷徹な商会長の顔だった。
「ヘンドリックの言う通りだ。王国経済の異常性と、そこから生じるリスクについては、私も当然理解している」
ワイズは組んだ指に顎を乗せ、不敵に口角を吊り上げた。
「お前たちには散々苦労をかけたが……。そろそろ、潮時だ。そうだろう?」
その一言に、幹部たちの間に緊張が走る。それは、これまで王国と勇者に対して与え続けてきた甘い蜜を断つという、明確な意思表示だった。
「だが我々商人にこそ、美学が必要だ。奴らが望むなら、これまで通り最高の品を、相応しい価格で提供してやれ」
ワイズの声は低く、しかし会長室の隅々にまで響き渡る絶対的な重みを持っていた。
「そして確実に奴ら自身のサインが入った領収書を集めろ。一枚たりとも取りこぼすな」
ワイズの瞳の奥で、計算高い光が瞬いた。
「自らの欲望のままに散財し、積み上げられたその紙切れの山。それこそが、遠からず彼らの傲慢を正当に裁くための、最も鋭利な刃となる」
暴力ではなく、契約と数字による完全な包囲網。
ワイズが単に勇者たちを甘やかしていたわけではなく、破滅の淵へと確実に誘導するための証拠を積み上げさせていたのだと理解し、支店長たちの顔に獰猛な商人の笑みが浮かんだ。
「……そういうことなら、我慢して極上のサービスを提供してやろうじゃねえか」
ギガルが拳を鳴らす。
「ええ。せいぜい、楽しんでいただきましょう」
シェリーが妖艶に微笑む。
「全く、会長は相変わらず怖いねぇ」
そしてベルタは茶化すように肩をすくめる。
方針は決まった。
・ ・ ・
支店長たちがそれぞれの任務を果たすべく退室し、会長室の重厚な扉が閉ざされる。
室内から先ほどの熱気と喧騒が嘘のように引いていくと、ヘンドリックは小さく息を吐いた。神経質そうに触っていた眼鏡から手を離して、わずかに肩の力を抜く。
「……やれやれ。相変わらず、うちの連中は血の気が多いですね」
「違いない。だが、あの猛獣どもを完璧に手懐けているお前が言うセリフじゃないな」
ワイズが苦笑しながら言葉を返すと、ヘンドリックもまた、統括支店長としての厳格な仮面を外し、ワイズの幼馴染としての柔らかな笑みを浮かべた。
国を追われたあの日から、泥水をすするような放浪生活を共に生き抜き、この商会を築き上げてきた腹心。
彼にはワイズも自然と素の顔を見せる。
ワイズはふと視線をずらし、部屋の隅で彫像のように直立不動のまま控えている秘書へ声をかけた。
「ミナ。もういい、少し楽にしろ。お前は肩に力が入りすぎだ」
「……はい。お気遣い感謝いたします、会長」
ミナは静かに一礼し、張り詰めていた空気をわずかに緩めた。
その完璧なまでに洗練された所作と、氷の彫刻のように美しい無表情。
今でこそ完璧な秘書として畏怖と羨望の眼差しを集めている彼女だが、ワイズは思わず皮肉っぽい笑みをこぼす。
「それにしても、立派になったものだ。契約書の内容も読めず、借金のカタに売られそうになって戦斧槍を振り回していた小娘が、今や完璧な秘書気取りだからな」
「……ッ。か、会長。その節の失態は、とうに猛省しています」
ワイズのからかいに、ミナの無表情な仮面にわずかな焦りが浮かんだ。
「拾った当初、お前が自ら『口を開くと脳筋がバレるから、とにかく黙って表情筋を動かさないようにしています』と言われた時は驚いたが……まさかここまで氷の女を演じ切るとは思わなかったぞ」
「……昔のことなど、すっかり忘れました」
「ほう? 先ほど支店長たちに向けて『ぶっ殺す』という顔をしていたように見えたが」
「気のせいです」
すました顔で言い切るミナに、ワイズは声を上げて笑った。
そしてすぐに真剣な眼差しに戻り、彼女を真っ直ぐに見つめる。
「冗談だ。お前の努力は、私が一番よく知っている。……だからこそ言うが、ただの暴力装置に戻るな。お前が私を守ろうとしてくれるのは理解しているが、先ほどの彼らは敵じゃない。私とお前が守るべき、この商会の財産であり、仲間だ」
「……はい。私の早計でした」
ミナが深く、美しい角度で頭を下げる。
その微笑ましい主従のやり取りを、ヘンドリックは壁際で腕を組みながら、まるで成長する弟妹を見守るような温かい眼差しで見つめていた。
「ふふっ。ミナくんもすっかり立派な秘書になりましたね。……会長の教育の賜物でしょう」
「茶化すな、ヘンドリック。手のかかる身内が多くて苦労しているんだ」
「手がかかるのはお互い様でしょう? ワイズ」
二人きりの時(と、絶対の信頼を置くミナの前)だからこそ呼べる、昔からの呼び名。
ヘンドリックは眼鏡の奥の目を細め、少しだけ年上の兄貴分としての気遣いを込めた声で言った。
「貴方も、もう少し周りに頼ってもいいと思いますよ。ミナくんに『仲間を大事にしろ』と説教するのも結構ですが……貴方一人で全てを背負い込もうとする悪い癖、私や彼女、そして先ほどの支店長たちは、少し寂しく思っているんですからね」
「……あの天文学的な貸付金の管理は、すべてお前に丸投げしているんだがな」
「そういう実務の話をしているのではないことくらい、お分かりでしょう? まったく……。まあいいでしょう、いざという時は私たちが強引にでも背負わせてもらいますから」
ヘンドリックの呆れたような、しかし頼もしい言葉に、ワイズは降参したように息を吐いて笑みをこぼした。
「……ああ。その時は頼む、ヘンドリック」
冷徹な大商人の顔の裏側にある、決して部下たちを裏切らないという確かな絆。
会長室には、先ほどの殺伐とした空気が嘘のような、穏やかで温かい時間が流れていた。
だが商売の時間は待ってくれない。
「さて」
ワイズは懐中時計を取り出し、音を鳴らして蓋を開けた。
「感傷に浸るのはここまでだ。勇者たちに『極上のサービス』を届けるための、具体的な手配を始めようか」
「ええ。すでに各店舗への根回しは完了しています。あとは、彼らがどれだけ気持ちよくツケの領収書にサインをしてくれるか、ですね」
ヘンドリックとミナが、即座に仕事の顔に戻る。
ワイズはデスクに置かれた分厚い帳簿に手を置き、王城の方角、これから狩られるとも知らずに傲慢を貪る獲物たちがいる場所へ向けて、酷薄な商人の笑みを浮かべた。




