第38話_番外編
王都の中央大通りに聳え立つ、コールマン商会王国支部。
その最上階に位置する重厚な扉の奥、会長室には、四半期決算の報告のために王国各地から集結した四人の支店長たちの姿があった。
「会長。よろしいでしょうか」
静寂を破ったのは、コールマン商会王国統括支店長、ヘンドリック・ゾラ。
彼は神経質そうに眼鏡の位置を直すと、手元にあった分厚い帳簿を、巨大なマホガニーのデスクの中央に座る男、ワイズ・コールマンの前に静かに置いた。
「王国、ならびに勇者一行に対する当商会からの貸付金ですが……現在のペースで浪費が続けば、遠からず三十億ガメルに到達する見込みです」
ヘンドリックの声は普段通り極めて冷静。
だが続く言葉には、明確に次の一手を問う響きが含まれていた。
「いくら我が商会の資金力が潤沢とはいえ、いささか貸付金額が大きすぎます。王国の財政状況を鑑みても、回収リスクが高まりつつあるのは事実でしょう。……今後の対応について、方針の確認をさせていただけますか」
その淡々とした報告を皮切りに、室内の沈黙は破られた。
「……ヘンドリックの言う通りだ、会長」
腕を組み、低く唸るように吐き捨てたのは、鉱山都市支店長のギガル・ヴァーガン。
彼は巌のような顔を険しく歪め、忌々しげに続ける。
「あの勇者一行の金遣い、目に余るなんてもんじゃねえ。俺たちが命がけで掘り出した最高級の鉱石で作った武具を、あいつらはまるでただの玩具みたいに扱いやがる」
「全く同感だね。うちの船団が荒波を越えて運んできた最高級品の価値もわかっちゃいない!」
ギガルの言葉に同調するように、王国海運部門統括マネージャーのベルタ・カスティロも声を荒らげた。
「連中が国家予算のツケで使っているのは、最高級の美容ポーションにヴィンテージワイン。魔王を倒すためのお金が、あんなガキどものただの道楽に浪費されてるんだよ。……商会として莫大な利益が出てるのは分かってる。けどね、こいつはアタシたちの美学に反するんだよ!」
「あら、利益が出ているのだから商売としては大成功じゃないかしら? ……もっとも、あの下品極まりない使い方には、わたくしも反吐が出そうですけれど」
窓辺のソファに腰掛けていた商業都市支店長のシェリー・ル・フィーナが、優雅に扇子を広げて口元を隠す。
その言葉は一見するとベルタを宥めているようだが、扇子の奥の瞳はギガルやベルタと同質の、冷たい怒りを宿していた。
「会長。このまま奴らをつけ上がらせておくのか?」
ギガルの重く鋭い問いかけが、会長室に響き渡る。
誰もがコールマン商会を、そして自分たちの仕事を心から愛していた。
だからこそ、その価値を理解せず浪費する勇者たちへの怒りと不満が交錯し、部屋の空気は急速に熱気を帯びる。
その重苦しく、突き刺さるような幹部たちの気迫。
商会を愛するがゆえの熱意。
しかし、部屋の隅で静かに控えていた一人の女性にとっては、決して看過できるものではなかった。
「…………」
ワイズの背後、黒のパンツスーツに身を包んだ秘書、ミナ・リンスリー。
彼女の美しい顔立ちには、一切の感情が浮かんでいない。
精巧な硝子細工のように無表情なまま。だが、その内側で何かが弾けた。
主であるワイズに向けられた、支店長たちによる明確な強い感情。
それを彼女の研ぎ澄まされた本能は、反射的に「主人への敵意」と認識した。
不意に、会長室の気温が数度下がったかのような錯覚が走る。
肌を刺すような、物理的な質量すら伴う濃密な殺気。
それはかつて『朱き災厄』と呼ばれ、戦場を血で染め上げたS級冒険者としての本能。
ミナのヒールが、音もなく一歩、大理石の床を踏み出す。
主の盾となるべく、あるいは主の前に立つ障害を排除すべく、彼女が支店長たちの前に立ちはだかろうとした、その瞬間。
「……控えろ、ミナ」
静かで、しかし絶対的な重みを持つ声が、ミナの動きをピタリと止めた。
ワイズは背もたれに預けていた身を起こし、背後の秘書を振り返ることなく、ただ軽く右手を上げた。
「身内を威圧するのはやめろ。今回は彼らが正しい」
「……ですが、会長」
ミナは静かに抗議する。
五年前、絶望の淵にあった自分を拾い上げ、生きる意味を与えてくれた絶対の主。
彼女にとってワイズ・コールマンとは、世界の理そのものであり、無条件で肯定し、守護すべき唯一の正義だった。
彼に刃向かう者、彼を責める者は、たとえ身内であろうと排除すべき敵。
それが、かつて力だけで生きてきた「猪武者」であった彼女の、シンプルすぎる生存戦略だった。
ワイズは、そんな彼女の忠誠心の危うさを誰よりも理解している。
だからこそ彼は、軽く手を振って彼女から放たれる殺気を散らし、呆れたように、けれどどこか諭すような温かみを帯びた声で続けた。
「何度も言っているだろう。私を盲信するな。お前はただの武器じゃない、私の秘書だ。相手の言葉の裏にある意図を、自分の頭で考えろ」
それはワイズが彼女を拾って以来、繰り返し行ってきた教育。
圧倒的な暴力に頼るのではなく、理と実利で世界を推し量ること。
相手がなぜ怒っているのか。何を求めて声を上げているのか。
それを理解できないうちは、一流の商人、いや、ワイズ・コールマンの隣に立つ資格はないと。
「……申し訳、ありません」
ワイズの言葉に、ミナから立ち昇っていた冷たい殺気が、霧散するように消え去った。
彼女は自分の早計を恥じるようにわずかに俯き、静かに元の位置へと下がる。
その姿には、先ほどまでの冷徹な暴力装置の面影はなく、ただ主人に叱られて反省する、年若い一人の忠実な秘書の顔が戻っていた。
張り詰めていた室内の空気が、急激に緩んでいく。
「全く、お前は少し血の気が多すぎる。私に何かあればすぐに暴力で解決しようとする癖は、そろそろ直せと言っているだろう」
「……申し訳ありません。善処します」
わずかに俯き、普段の冷徹な姿からは想像もつかないほどシュンと小さくなっているミナ。
そんな彼女を呆れたように、しかしどこか見守るような視線でたしなめるワイズ。
そのあまりにも日常的で、少しピントのずれた主従のやり取りを目の当たりにして、先程までヒートアップしていた支店長たちは完全に毒気を抜かれていた。




