第35話
王城での「商談」からしばらく後。
王都の南方、広大な平原にて、歴史に残る激突が始まろうとしていた。
黒い雲が空を覆い、湿った風が戦場の匂いを運んでくる。
平原の北側に布陣するのは、ガレオス将軍やボルドー将軍が率いる新生・王国連合軍、およそ五万。
対する南側には、魔王軍四天王『鋼鉄のガルドッサ』が率いる魔王軍主力部隊、およそ三万。
数は人間側が勝っている。
だが個々の身体能力においては魔族が圧倒的に有利というのが、これまでの常識。ゆえに魔王軍の陣営には、依然として侮りの空気が漂っていた。
「見ろよあの人間ども! 勇者が逃げ出したってのに、まだやる気でいやがる!」
最前列に陣取る魔族が嘲笑う。
「この戦いもいい加減飽きてきた!! さっさと終わらせて帰るぞ!!!!」
『ウオオオオオオッ!!』
魔物たちの咆哮が轟く。
「ぶち殺せェェッ!!」
号令と共に、魔王軍が動き出す。
地響きを上げて突進してくる魔物の奔流。その殺気は、かつての王国兵ならば恐怖で足がすくみ、槍を取り落とすほどのものであっただろう。
だが今日、彼らを迎え撃つのは「敗残兵」ではない。
「総員、盾を構えろ!! 足場を固めろ!!」
第一軍団長ガレオスの、腹の底から響く号令が飛んだ。最前列に並ぶ重装歩兵たちが、一斉に巨大な盾を地面に突き立てる。
硬質な金属音が連鎖し、平原に銀色の城壁が出現した。
その盾の表面には、複雑な魔法陣が青白く発光している。ワイズ・コールマンが提供した、物理衝撃を拡散させるエンチャントが施された特注品。
「来るぞ!! 衝撃に備えろ!!」
直後、魔王軍の先鋒が銀の壁に激突した。
肉と鉄がぶつかる音ではない。
まるで高速で走る馬車が城壁に激突したかのような、重く激しい破砕音が戦場を支配した。
「なッ……!?」
魔族の将軍が目を見開く。
本来なら人間ごときが持つ盾など、魔物の突進一発でひしゃげ、持ち主ごと吹き飛ばされるはず。
だが現実は無情だ。
銀の盾は微動だにせず、逆に突っ込んだ魔物たちが、自らの突進の反動で腕を砕かれ、脳震盪を起こして次々と転倒していく。
「あ、ありえねぇ……! なんだこの硬さは!?」
「……刃が通らねぇぞ!?」
混乱する魔物たち。その隙を、歴戦の将軍が見逃すはずがない。
「今だッ!! 突き放てぇぇぇッ!!」
ガレオスの剣が振り下ろされる。盾の隙間から、無数の槍が一斉に突き出された。
その穂先は、一般的な鉄ではない。ミスリルとアダマンタイトの合金。
ダイヤモンドすら傷つける鋭利な切っ先が、魔物の分厚い皮膚を、まるで濡れた紙のように容易く貫いた。
先頭集団が串刺しになり、鮮血の噴水を上げて崩れ落ちる。
後続の魔物たちがその死体に足を取られ、陣形が崩れたところへ、今度はボルドー率いる第三軍団が側面から襲いかかった。
「おらおらおらぁッ!! 今まで散々コケにしてくれた借りを返すぞ!!」
ボルドーは自ら先陣を切り、愛用の大剣を振り回す。彼の部下たちもまた、水を得た魚のように躍動していた。
「軽い! なんだこの鎧、羽根みたいに軽いぞ!」
「剣が吸い込まれるように斬れる!」
ワイズ製の武具には、すべて『身体強化』と『重量軽減』の補助魔法が常時発動するように設定されている。
凡庸な兵士ですら熟練の騎士並みの動きが可能になり、熟練の兵士は英雄級の強さを発揮する。
それが五万人分。もはや戦争ではない。一方的な虐殺だった。
「ひ、ひぃぃッ! 引けッ! こいつら人間じゃねぇ!」
「武器が折れた! 戦えねぇよォ!」
魔王軍の前線が、音を立てて崩壊していく。その光景を、丘の上からワイズとシグルドが優雅に眺めていた。
「……酷いな。いじめに見えるよ」
シグルドが片手で双眼鏡を覗きながら、揶揄うように口元を歪める。
「魔王軍の武器はこれまでの戦闘でボロボロだ。手入れもされていないし、金属疲労も限界に来ている。対してこちらの装備は、大陸最高峰の鍛治師たちが鍛え上げ、付与術師が仕上げた一級品……。勝負になるわけがない」
「ええ。戦争とは、戦う前に決着がついているものですから」
ワイズは懐から手帳を取り出し、何やら書き込みながら淡々と答える。
「彼らは気合と腕力で戦おうとした。我々は資本と技術で戦った。……ただそれだけのことです」
だが魔王軍とてこのまま黙って終わるほど甘くはなかった。
「――脆弱な人間ごときが、調子に乗るなァァァァッ!!」
戦場の空気が一変した。
大気を震わせるほどの怒号と共に、崩れかけた魔王軍の中央から、漆黒の塊が弾丸のように飛び出した。
四天王『鋼鉄のガルドッサ』である。
「邪魔だ邪魔だ邪魔だァッ!!」
ガルドッサが振るうのは、身の丈を超える巨大な戦鎚。
その一振りから生み出される衝撃波だけで、前線の兵士十数人が木の葉のように吹き飛ばされた。
「ぐわぁぁぁッ!?」
「た、隊長! 盾が……盾が割れましたッ!?」
ワイズ製のミスリルの盾ですら、四天王の剛力の前には飴細工のようにひしゃげ、砕け散る。
ガルドッサは止まらない。全身を覆う漆黒の魔鎧は、兵士たちの槍を一切寄せ付けず、魔術師たちの火球も蚊ほどに感じさせない。
「軟弱! 貧弱! 貴様らの武器がいかに上等だろうと、それを振るう中身がゴミならば意味はないわ!!」
ガルドッサが戦鎚を地面に叩きつける。
盛大な衝撃音と共に大地が波打ち、亀裂が走る。その衝撃でボルドー軍の側面部隊が態勢を崩し、その隙を突いて魔物たちが再び勢いを取り戻し始めた。
「ガルドッサ様につづけェ!」
「人間どもの陣形を食い破れ!」
個の暴力が、戦術を凌駕する。戦況の天秤が、再び魔王軍へと傾きかけた。
「……チッ、やはり化け物か」
前線で指揮を執っていたボルドーが舌打ちをし、撤退の指示を出そうとした、その時。
戦場に凛とした、しかし絶対零度の冷たさを帯びた声が響き渡った。
「――騒々しいですね。少し静かにしていただけますか?」
戦場の喧騒を切り裂くような声。
戦場のど真ん中。一人の女性が本陣から無造作に進み出る。
風に舞う銀色の髪。体にフィットした黒のパンツスーツ。
戦場にはあまりに不釣り合いな、洗練された秘書の姿。
だがその手に握られている「モノ」が、彼女がただ者ではないことを雄弁に語っていた。
身の丈を優に超える、真紅の戦斧槍。
その刃からは、周囲の大気を焦がすほどの熱気と魔力が立ち昇っている。赤龍の背骨から鍛造された伝説の武器、『紅蓮』。
「『朱き災厄』……!?」
その正体に気づいた兵士たちが息を呑む。ミナは眼前のガルドッサを静かにその視界に捉えていた。
「会長の大事な商談の後片付けです。……速やかに終わらせましょう」
ミナが飛んだ。数十メートルの距離を一瞬で詰め、躊躇なく、弾丸のように急降下する。
「――重力制御、解除。……潰れなさい」
彼女は空中でハルバードを振りかぶると、落下の運動エネルギーに、さらに魔法による加速を乗せ、ガルドッサの脳天へ向かって一直線に叩きつけた。
「ぬぉッ!?」
本能的な危機察知。
ガルドッサは咄嗟に戦鎚を頭上に掲げ、防御の構えを取る。
直後。閃光と轟音が、世界を白く染め上げた。
「ぐ、おォォォッ……!?」
ガルドッサの膝が折れる。
彼が立っていた周囲の地面が、爆発したように陥没し、巨大なクレーターが形成された。
衝撃波が嵐となって吹き荒れ、周囲にいた魔物たちが吹き飛んでいく。
土煙が晴れた時。そこには、巨大な戦鎚とハルバードが鍔迫り合いをしている光景があった。
いや、違う。
ミナは、涼しい顔でハルバードを片手で押し込んでいる。対するガルドッサは、両手で戦鎚を支え、脂汗を流しながら耐えていた。
力勝負において、巨獣のような四天王が、華奢な人間の女性に押されているのだ。
「ば、馬鹿な……ッ! 貴様、人間か……!?」
ガルドッサが呻く。ミナは冷ややかに微笑み、さらにハルバードに魔力を込めた。
「ただの秘書です。……ですが、賞与分は働きますよ」
「舐めるなァァァッ!!」
ガルドッサが咆哮し、全身の筋力をバネにしてミナを弾き飛ばそうとする。
だがミナは、その力を柳のように受け流すと、空中で一回転し、遠心力を乗せた二撃目、三撃目を叩き込んだ。
重い金属音が響くたび、ガルドッサの漆黒の鎧に亀裂が走り、破片が飛び散る。
「速い……ッ! そして重いッ!」
ガルドッサは防戦一方だった。
ミナの攻撃は、単なる物理攻撃ではない。一撃ごとに爆発的な魔力が炸裂し、鎧の内部へと衝撃を浸透させていく。
「終わりです」
ミナが踏み込む。
ハルバードの石突きでガルドッサの足元を崩し、体勢が崩れたところへ、爆発的な魔力と共に、真紅の刃を下から上へと斬り上げた。
「秘奥――『昇竜・紅』」
ミナの斬り上げが直撃し、四天王ガルドッサの巨体が空高く打ち上げられた。
鮮血が舞い、漆黒の鎧が砕け散る。
魔王軍最強の一角が地に伏したその瞬間、戦場に一瞬の静寂が落ちた。
「ガ、ガルドッサ様が……敗れただと!?」
「あんな人間一人に……!」
動揺が広がる魔王軍。
そこへ追い打ちをかけるように、ガルド率いるコールマン傭兵団が、圧倒的な火力で前線を押し込みにかかる。
さらに地平線の彼方からは、シグルド皇子率いる帝国軍本隊が、数万の軍勢による完璧な陣形を保ったまま、ゆっくりと、しかし確実に包囲網を狭めつつあった。
その光景を、魔王軍本陣の丘から見つめる影があった。参謀、『紫煙のメルザス』である。
彼女は敗北したガルドッサと、迫りくる帝国軍の旗印を交互に見やり、表情一つ変えずに呟いた。
「……潮時か」
周囲の側近たちは動揺し、指示を求めて騒いでいる。
「メルザス様! ガルドッサ様がやられました! 前線が支えきれません!」
「帝国軍まで出てくるとは……! このままでは包囲されます! 総員突撃で活路を開くべきでは!?」
「阿呆が。無駄死にするつもりか」
メルザスは冷徹に言い放った。彼女の紅い瞳は、戦場の盤面を冷静に分析していた。
(前線の人間どもの装備……あれは異常だ。純粋な『質』の差で押し負けている)
そこに加えて、無傷の帝国軍数万が横槍を入れてくればどうなるか。
魔王軍は壊滅的な打撃を受け、しばらくは再起不能になるだろう。
(負けは負けだ。だが全滅する必要はない)
メルザスは杖を鳴らした。
「退くぞ。全軍、撤退準備」
メルザスの指示は迅速かつ的確だった。
「第一、第二大隊は殿を務めよ。防御陣形を組み、敵の進撃を遅滞させろ。その隙に本隊は後退する」
そのまま立て続けに指示を出す。
「ガルドッサも回収して運べ! その他の傷ついた者もだ! 動けぬ者は……名誉ある自爆で追手を防げ」
法螺貝の音が響き渡る。それは敗走の合図ではなく、規律ある撤退の合図。
混乱しかけていた魔王軍は、その音を聞くと即座に正気を取り戻し、怒号と共に隊列を組み直した。
前線の部隊が壁となり、その背後で傷ついた仲間やガルドッサを抱えた本隊が、足並みを揃えて後退を始める。
「追うな! 深入りするな!」
人間側の前線でも、ガレオス将軍の鋭い制止命令が飛んでいた。
「敵は崩れていない! 死兵となって反撃してくるぞ!」
勢いに乗って追撃しようとしていた兵士たちが、ハッとして足を止める。目の前の魔王軍は、背中を見せて逃げ出したのではない。
牙を剥き出しにし殺気を放ちながら、ジリジリと後ろへ下がっている。
うかつに飛び込めば、手痛い反撃を受けるのは明白だった。
「……見事なものですね」
丘の上。整然と撤退していく魔王軍を見下ろしながら、ワイズは感心したように呟いた。
「……やはり魔王軍、侮れない組織力を持っています」
「追撃するかい? ワイズ」
隣に並んだシグルド皇子が、帝国の騎兵隊に目配せしながら問う。
「今なら、我が軍の機動力で側面を突けるが」
「いえ。止めておきましょう」
ワイズは首を横に振った。
「窮鼠猫を噛む。これ以上追い詰めれば、彼らも死に物狂いで抵抗するでしょう。そうなれば、こちらの被害も無視できないものになる」
ワイズは商人の目で、コストとリスクを天秤にかけた。
「すでに勝負はつきました。王国は解放され、魔王軍は痛手を受けた。……これ以上の戦闘は採算が合わない」
「ははっ、君らしいな」
シグルドは笑うと、追撃中止の合図を送った。
・ ・ ・
その後、数日間にわたり、魔王軍と人類連合軍の睨み合いは続いた。
魔王軍は昼夜を問わず警戒を解かず、交互に休息を取りながら、少しずつ、しかし確実に南へと後退していった。
その統率された動きは、敵ながら見事と言うほかなかった。
人類側もまた、ガレオスやボルドーの指揮の下、付かず離れずの距離を保って監視を続けるに留めた。
そして七日目の朝。
王国南端の絶対防衛ライン、『嘆きの砦』。
しばらく前に勇者が放棄したその砦に、王国連合軍の斥候が到着した時、そこはすでにもぬけの殻となっていた。
「報告します! 『嘆きの砦』内部、敵影なし! 魔王軍は……砦を放棄し、国境の向こう側まで完全に撤退しました!」
魔王軍は、拠点である砦すらも潔く捨て去り、戦力を温存したまま自領へと引き上げたのだ。
それは敗北を認めた証であり、同時に戦力を残しているという無言の圧力でもあった。
報告を受けた本陣で、ガレオス将軍は安堵の息を吐き出した。
「……終わったか」
「ああ。俺たちの勝ちだ」
ボルドー将軍が、汗を拭いながら笑う。二人の将軍は互いに顔を見合わせ、そして丘の上に立つワイズへと視線を向けた。
自身は剣を一振りもせず、魔法を一度も放たず。
ただ金と物資、そして計略だけで戦況を覆し、魔王軍の侵攻から王国を救ってみせた商人の背中。
将兵たちの勝鬨が上がる中、ワイズ・コールマンはいつものような不敵な笑みを浮かべたまま、遥か魔王領を眺めていた。
・ ・ ・
こうしてワイズ・コールマンの借金取り立てに端を発した、王国と大陸全土を巻き込んだ未曾有の大騒動は、人類側の勝利という形で幕を閉じた。
だがそれは勇者の剣による勝利でも、王の威光による勝利でもない。
金貨の音色が剣戟に勝り、契約書が聖剣よりも重きをなした、新しい時代の幕開けでもあった。




