第34話
罵声と悲鳴が、遠ざかっていく。
帝国兵たちに両脇を抱えられ、引きずられていく元国王の姿が、重厚な扉の向こうへと消えた。
かつてこの部屋で、我が物顔で振る舞っていた勇者アレクもまた、猿ぐつわを噛まされ、手足を拘束されて地下牢へと運ばれていった。
鈍く重い音が響き、謁見の間の扉が閉ざされる。
あとに残ったのは、本来あるべき静寂だけ。
祭りのあと。
あるいは、長い嵐が過ぎ去った後のような静けさ。
「……さて」
その張り詰めた静寂を破ったのは、シグルド皇子の軽やかな声。彼は満足げに一つ頷くと、踵を返して扉の方へと向く。
「僕は外で待たせている部下たちに指示を出してくるよ。このまま駐留軍の配置を決めなきゃならないからね」
「……ご尽力ありがとうございます、殿下」
「ああ、それとガレオス将軍とも会ってくる。彼とは今後の治安維持について詰めておかないといけない。……優秀な軍人を味方につけるのは、骨が折れるよ」
シグルドは肩をすくめて苦笑すると、片手をひらりと振って背中を見せた。
だが去り際に一度だけ足を止め、背越しに声をかけた。
「先に行ってるよ、ワイズ。……あまり長居はするなよ」
「ええ、すぐに」
シグルドが近衛兵たちを引き連れて退室していく。コールマン傭兵団の面々も、ワイズの様子を確認すると謁見の間を出た。
そして再び重厚な扉が閉まる。広い謁見の間には、ワイズと背後に控えるミナだけが残された。
完全に静まり返った空間。
ワイズはゆっくりと顔を上げ、誰もいなくなった玉座を見つめた。
自分たちから全てを奪った男が座っていた、権力の頂点。
だが今のワイズの瞳には、それはただの古びた、装飾過多な椅子にしか映らなかった。
復讐は成った。
二十年。
その歳月のすべてを注ぎ静かに燃やし続けた、憎悪という名の業火。それが今、燃やすべきものをすべて焼き尽くし、ふっと消えた。
後に残ったのは、達成感などではない。
ただ掌からさらさらと零れ落ちる砂のような、乾いた虚無感と、真っ白な灰だけ。
ワイズはその場に立ち尽くしていた。動く理由も、歩き出す方向も、見失ってしまったかのように。
その背中は大陸を牛耳る大商人のものではなく、道に迷った少年のように頼りなく見えた。
そんな主人の様子を、背後に控えるミナは息を殺して見守っていた。
(……ああ、あの日と逆だ)
ミナの脳裏に、五年前の記憶が鮮やかに蘇る。
土砂降りの雨が降りしきる、とある辺境都市の路地裏。
当時十五歳だったミナは、制御できない自身の力に怯え、周囲から怪物と疎まれ、訳のわからないうちに不当な契約を結ばされ、すべてを諦めてうずくまっていた。
そんな彼女の前に現れたのが、当時二十七歳だったワイズ・コールマン。
すでにコールマン商会を急成長させ、飛ぶ鳥を落とす勢いだった若き商会長。
彼は生きる道を見失っていたミナを見ても、顔をしかめることも、憐れむこともしなかった。
ただ商品を見定めるような鋭い瞳で、ミナに語りかけた。
『死ぬのを待っているのか? ……時間の無駄だな』
仕立ての良いスーツを濡らすことも厭わず、彼はミナの前にしゃがみ込んだ。
『生きる目的がないなら、私に買われろ。……お前のその力は「災厄」などではない。私の覇道を切り開き、高みに至るために必要な力だ』
差し伸べられた手。
あの日、彼の瞳に宿っていたのは、世界そのものを飲み込まんとする、凄絶なまでの「野心」と「意志の光」。
その光に救われ、その光に魅せられて、ミナは今日まで彼についてきた。
だが今、その瞳から光が消えようとしている。
復讐という巨大な目標は達成され、彼自身の魂が燃え尽きようとしている。
空虚な玉座を見つめる主人の背中は、今にも崩れ落ちそうに見えた。
もし今、私が声をかけなければ、彼はこのまま過去という名の闇に飲み込まれてしまうかもしれない。
けれど――。
(構いません、会長)
ミナは胸の中で、静かに、けれど確固たる意志で呟いた。
五年前、貴方は私に「価値」を与えてくれました。今度は私が、貴方の価値を守り抜きましょう。
貴方が歩けなくなったのなら、私が背中を押します。貴方が道を見失ったのなら、私が灯りになります。
たとえ貴方が、ただの抜け殻になったとしても――私は最期まで、貴方の秘書です。
万感の思いがこもったミナの視線。
その熱を感じ取ったのか、ワイズの肩がわずかに震えた。
彼はゆっくりと振り返る。
その顔には一瞬だけ、弱々しく、頼りなげな色が浮かんでいた。まるで「もう、十分だろう」と吐露するかのような、無防備な表情。
だがミナと目が合ったその瞬間。
自身に向けられた、揺るぎない絶対の信頼を見たワイズはわずかに目を見開き、しばらく呆けたような表情をする。
そして己を叱咤するように、奥歯を噛み締めた。
一瞬の後、張り付いたような笑顔を作る。それはいつもの傲岸不遜な笑みとは程遠い、痛々しいほどに不器用な仮面。
「……感傷に浸っている暇はないな。行くぞ」
ワイズは声を張り上げた。自分自身を奮い立たせるために。そしてコートを翻し、歩き出す。
その背中は、いつもの自信に満ちた大商人ワイズ・コールマンのそれに見えた。
だがミナは気づいていた。
強く握りしめられたワイズの拳が、まだ白く、微かに震えていることに。そしてその足取りが、いつもよりも少しだけ重いことに。
彼はまだ燃え尽きた灰の中から立ち上がろうと、必死にもがいている。
無理をして、虚勢を張って、「いつもの自分」という仮面を被り直す。
(……本当に、世話の焼ける人)
ミナは口元だけで小さく微笑んだ。
その仮面が、いつか本物となり、再び彼が五年前のように心からの野心で笑えるその日まで。
隣で支え続けるのが、自分の――『朱き災厄』であり、筆頭秘書である自分の仕事。
ミナは早足で主人の隣に並んだ。
ワイズが一瞬だけ、横目でミナを見る。その瞳には、感謝とも謝罪とも取れる、柔らかな光が宿っていた。
そこにいたのは、亡国の王子ではない。
不敵な笑みを浮かべ、金と契約で世界を回す、大陸一の守銭奴。
大商人、ワイズ・コールマン。
「ミナ」
「はい、会長」
ワイズは不敵に口角を吊り上げ、玉座に背を向けて歩き出した。
「荒稼ぎの時間だ。行くぞ」
「はい、喜んで」




