第33話
「……シルヴァーノ王国だと?」
国王の声は、もはや悲鳴に近かった。記憶の蓋がこじ開けられる。
二十年前、王国の南西に位置していた小さな国。銀の鉱脈と美しい森林を持つ、平和で豊かな――いや、豊かに「見えた」国。
その国は、ある日突然、地図から消えた。
戦争で負けたわけでも、疫病が流行ったわけでもない。
経済が破綻し、国家としての支払いが不可能になり、債務不履行を起こしたのだ。
そして債権者であったこの王国が、借金のカタに国土を接収した。
「馬鹿な……! あの時の王族は、一家離散して行方知れずになったはず……! 生き残りがいたとしても、まさかお前のような商人が……!」
「生き延びたんですよ」
ワイズは銀時計を懐にしまい、遠い過去を見るような目をした。
その瞳にはいつもの計算高い光ではなく、昏く沈んだ記憶の澱。
「私の父も、貴方と同じでした。見栄っ張りで、現実が見えていなかった」
幼き日の記憶。
城での生活は何一つ不自由がなかった。毎晩のように舞踏会が開かれ、最高級の料理が振る舞われる。国民は笑顔で、国は繁栄していると信じていた。
だがそれは、国の借金で塗り固められた砂上の楼閣。
「当時、魔王軍と人類同盟の小競り合いが激化し、物流が滞りました。……脆弱な財政基盤しかなかった我が国は、それだけで致命傷を負った」
輸入品の価格高騰。
特産品の輸出停止。
そして通貨の暴落。
負のスパイラルは、瞬く間に国庫を食い尽くした。
だが父王は、王家の威信を守るために事実を隠蔽し、さらなる借金を重ねて贅沢を続けた。
その最大の貸し手こそが、隣国であったこの王国だ。
「ある朝、起きたら城が差し押さえられていた。……笑えない冗談でしょう?」
ワイズは自嘲気味に笑った。
国王と王妃は責任を追及されて幽閉。
幼かったワイズは、忠義篤い数名の家臣の手引きで、裏口から着の身着のまま逃げ出した。
逃亡の馬車から見た景色を、ワイズは今でも鮮明に覚えている。
「国が滅びる。さぞや悲惨な光景だろうと、幼い私は震えていました。民が泣き叫び、世が終わるのだと」
ワイズが一歩、玉座に近づく。
「ですが、実際はどうだったと思います?」
「な、何を……」
「何も変わっていなかったんですよ」
ワイズの声に、静かな怒気が混じる。
「城門に掲げられた旗が変わっただけ。パン屋は昨日と同じようにパンを焼き、農夫は畑を耕し、商人は店を開いていた」
国破れて山河あり。
いや、それどころか生活そのものが続いていた。通貨が切り替わり、税を納める先が変わっただけで、庶民の生活は何一つ変わらなかったのだ。
王家が滅びようが、国名が変わろうが、彼らにとっては「今日の飯」の方が重要だった。
「その時、私は悟ったのです。……『国』などという枠組みは、権力者が見ている幻想に過ぎないのだと」
幼きワイズの価値観が崩壊し、再構築された瞬間だった。
王家の血筋?
愛国心?
伝統?
そんなものに価値はない。
人を生かし、社会を動かしている真の王とは、玉座に座る人間ではない。
『経済』という名の、目に見えぬ巨大なシステムなのだと。
「だから私は剣を捨て、算盤を手に取りました」
その後の逃避行は、地獄だった。
亡国の王子を匿ってくれるほど、世間は甘くない。
ある国の貴族には厄介者扱いされ、修道院では労働力としてこき使われた。
家臣たちが一人、また一人と去っていく中、ワイズは歯を食いしばって生き延びた。
そして共和国の自由都市に辿り着き、そこから帝国の奨学金制度を使ってアカデミーに潜り込んだ。
プライドを捨てた。
食べられるものなら、なんでも食べた。
理不尽に抗うために、戦うための力を身につけた。
シグルド皇子のような天才たちに囲まれながら、血の滲むような努力であらゆる知識を貪った。
「アカデミー卒業後は行商人から始めました。ロバ一頭と、中古の馬車を引いて」
誰もやりたがらない危険地帯への輸送。魔物の巣食う森を越え、山賊と交渉し、一ガメルの利益を積み上げた。
そして一歩づつ、ひたすらに金を稼ぎ続けた。
そうして二十年。
ワイズ・コールマンは、大陸経済を支配する怪物となった。
すべては、この瞬間のために。
「私がなぜ、貴国にあれほど好条件で融資を続けたか分かりますか? なぜ勇者の我儘を黙認し、贅沢を推奨したか」
ワイズは、凍りつく国王を見下ろして告げた。
「貴方達を、かつての私の父と同じ破滅の道に乗せるためです」
甘い蜜を与え、感覚を麻痺させる。自分の力で稼ぐことを忘れさせ、借金という麻薬漬けにする。
そしてこれ以上ないというタイミングで、梯子を外す。
「貴方は、二十年前に私の国を『経済』で殺した。……だから私も、貴方を同じ方法で殺すことにしたんです」
剣で死ねば殉教者になる。
だが金で死ねば、ただの愚者として歴史に残る。
「あ……あぁ……」
国王は、喉の奥からひゅうひゅうと風の抜けるような音を漏らした。
復讐。
目の前の男は、二十年という歳月をかけ、国一つを罠にはめたのだ。
その執念と、計画の壮大さに、恐怖で心臓が止まりそうになる。
「たかが金、でしたね」
ワイズは、最初の言葉を皮肉たっぷりに返した。
「その金が尽きた今、貴方の国は死ぬのです。……破産宣告の時間です、国王陛下」
ワイズが合図を出す。背後に控えていたミナが、一通の書類を恭しく差し出した。
「『国家債務不履行による担保権執行通知書』です」
「た、担保……?」
「ええ。貴方が契約書にサインしたでしょう? 『返済が不可能な場合、王家の全資産および統治権を担保とする』と」
「そ、そんな馬鹿な……! 読んでいないぞ!」
「読みもせずに判を押したのですか? ……まあ、私の父もそうでした」
ワイズは哀れむように目を細めた。
「本日この時をもって、王国の統治権は凍結。領土はすべて債権者であるコールマン商会、および提携する帝国、共和国が管理します」
「ふ、ふざけるな! 余は王だ! 商人に国を明け渡せだと!?」
「嫌なら全ての金を、返済してください。今すぐに」
「ぐ……っ!」
「返せないなら、出ていっていただく。……商売の基本でしょう?」
国王は言葉を失った。
武力で脅されたわけではない。正当な契約と、法律と、数字によって、玉座を奪われた。
「さて、商談成立ですね」
ワイズは懐中時計を確認すると、背後の扉を振り返った。
「さぁ、どうぞご入室ください。片付きました」
その合図と共に、謁見の間に新たな足音が響く。
現れたのは、金色の髪をなびかせたシグルド皇子と、完全武装した帝国軍の将校たち。さらには共和国の行政官たちも。
「やあ、国王陛下。……いや、今はただのおじさんかな?」
シグルドは気絶している勇者を面白そうに一瞥すると、絶望に沈む国王の前に立った。
「帝国軍は準備万端ですよ。ワイズとの契約に基づき、これより我が軍がこの国の治安維持、および魔王軍への対処を行いましょう」
「て、帝国……貴様ら、グルか……!」
「人聞きが悪い。我々は単に債権の一部を買い取っただけです」
シグルドが手を振ると、帝国兵たちが国王を取り囲んだ。
拘束ではない。保護という名の軟禁。
「連れて行け。……ああ、粗相のないようにね。一応、元国家元首だ」
兵士たちに両脇を抱えられ、国王が引きずられていく。
「は、離せ! 余は王だぞ! ここは余の城だ! ワイズぅぅぅぅ! 貴様ぁぁぁッ!!」
負け犬の遠吠えが遠ざかっていく。
長年夢見た復讐の成就。
かつて父を殺し、国を奪った男の没落。
さぞや胸のすく思いだろうと、ワイズは自らの心に問いかけた。
「……ふぅ」
だが、口から出たのは、熱のない乾いた溜息だけ。
歓喜も、高揚もない。
あるのは、長年背負っていた重い荷物をようやく下ろした時のような、気怠い徒労感と、わずかな空虚感だけ。
「終わった、か」
意外なほど、あっけない幕切れだった。あんな男に復讐するために、自分は二十年も費やしてきたのか。
そう思うと、少しだけ馬鹿らしくなった。
「満足かい? ワイズ」
シグルドが、試すような視線を投げてくる。
ワイズは数秒の沈黙の後、いつもの不敵な商人の笑みを貼り付けて振り返った。
「……ひとつの仕事が終わったに過ぎません」
「そうこなくちゃ」
シグルドは満足げに頷いた。




