第32話
白目を剥いて、床に無様に転がる勇者アレク。
恐怖のあまり声も出せず、ただ震えながら涙を流すことしかできない聖女エリーゼ。
己の保身を最優先にした、魔法使いマリベル。
かつてこの国の希望であり、栄光の象徴として崇められた者たちのあまりにも無惨な姿。
その光景は、国王の心をへし折るのに十分すぎた。
「あ……あぁ……」
国王は玉座から崩れ落ちるように膝をついた。
王冠が傾き、豪奢なマントが床を這う。今の彼には、一国の王としての威厳など欠片も残っていない。
ただ理解できない現実に打ちひしがれる、一人の老いた無力な男の姿があるだけだった。
なぜ。
どうして。
どうして、こんなことになった。
魔王軍の脅威が去ったわけではない。軍の裏切りも、経済の崩壊も、何一つ解決していない。
しかし今、国王の頭を占めていたのは、目の前の男――ワイズ・コールマンへの、どうしようもない困惑と恐怖のみだった。
「……なぜだ」
国王は、乾ききった唇を震わせながら呻いた。
「なぜ、ここまでやる……! 我が国を……余を、ここまで追い詰める必要があったのか!?」
返答はない。
沈黙だけが謁見の間に満ちる。それに耐えきれなくなった国王は、子供のような癇癪を爆発させた。
「借金だと……? 契約不履行だと……? そんなもののために、国を一つ滅ぼすと言うのか!?」
人目を憚らず、涙と鼻水が溢れ出す。それは懺悔ではない。理不尽な状況に対する、魂からの絶叫。
「たかが金のことでぇぇぇぇッ!!!」
その絶叫が、広い謁見の間に木霊する。
王の嘆きに対し、誰も答える者はいない。そう思われた、次の瞬間だった。
「――ほう」
短く、地の底から這い出るような低い声。
ワイズの表情は変わらない。いつものように、口元には薄い笑みを浮かべ、余裕のある態度を崩していない。
しかし、空気が凍りついた。
比喩ではない。物理的な温度が急激に下がったかのような錯覚を覚えるほどの、濃密で鋭利な何かが、ワイズを中心にして爆発的に膨れ上がった。
「……っ!?」
常に冷静沈着なミナが、顔色を変えて思わず半歩、後ずさった。
彼女だけではない。
謁見の間の周囲を固めていたコールマン傭兵団の精鋭たち――数多の修羅場を潜り抜け、死線など日常茶飯事としてきた彼らが、一斉に息を呑み、全身を硬直させた。
彼らは知っている。主であるワイズ・コールマンが、怒った時の恐ろしさを。
だが今、彼らが感じているのは、そんな生易しいものではなかった。
これは怒りではない。殺意ですらない。
もっと根源的で、怨念めいたもの。長きにわたり淡々と研ぎ澄まされ続けた、絶望的なまでの執念。そして虚無。
「……たかが金、ですか」
ワイズはその言葉を咀嚼するように、ゆっくりと呟いた。
その声には、一切の感情が乗っていない。だからこそ、聞く者の心を直接震わせる。
「ええ、そうですね。貴方にとっては、たかが金でしょう。黙っていても湧いてくる税金、他国からの支援金、際限なく使える予算……。貴方にとって金とは、空気のようなものでしょうから」
ワイズが一歩、国王へと歩み寄る。
革靴が大理石を踏む音が、死刑台へのカウントダウンのように謁見の間に響き渡る。
「ですが陛下。……その『たかが金』で国が一つ滅びるのを、貴方はよく知っているはずだ」
「……なに?」
国王は涙に濡れた顔を上げ、呆然とワイズを見上げた。その表情には、純粋な疑問が貼り付いている。
この男は何を言っているのだ、という顔。その無知な、あまりにも無関心な反応を見た瞬間。
ワイズのまとっていた「商人の仮面」が砕け散った。
(……ああ、覚えていないのか)
ワイズの胸中で、黒い炎が渦を巻く。
この男にとって、《《あの日》》のことは記憶に留める価値すらない、取るに足らない出来事だったのだ。
今すぐにこの愚王の首をねじ切り、その血で玉座を染めてやりたいという暴力的衝動が、指先を震わせる。
それでも――。
「……ふぅ」
ワイズは一度目を閉じ、深く、長く息を吐き出した。
肺の中の激情をすべて入れ替えるような、深い深呼吸。
数秒後。
再び目を開けた時、そこにはいつもの冷徹な「商人ワイズ・コールマン」の顔が戻っていた。
感情に任せて殺すのは、三流の仕事。
今の自分は、感情で動く復讐者ではない。契約と実利で相手を追い詰める、商人なのだから。
「……忘れているのなら、思い出させて差し上げましょう」
ワイズは懐に手を伸ばすと、愛用している銀の懐中時計を取り出した。
この二十年間。彼といつも共にあり、時間を、そして商機を確認してきた相棒。
彼はその裏蓋に指をかけ、複雑な機構を操作する。小さな音がして、懐中時計の表面を覆っていた銀のカバーが外れる。
そこにはある『紋章』が精巧な彫金で刻まれていた。
二頭の白銀の鷹が、一本の剣を支える紋章。
それはかつて王国に隣接していた、今は地図から消滅したはずの小国の紋章。ワイズはその銀時計を、国王の目の前へと突きつけた。
「こ、これは……ッ!?」
国王の目が、限界まで見開かれる。
忘れるはずがない。二十年前、自らの手で潰し、その国土を我が物とした国の紋章。
「シルヴァーノ王国……!? な、なぜ貴様がこれを……まさか!?」
国王の顔から、血の気が引いていく。
点と点が繋がり、戦慄となって背筋を駆け上がる。
二十年前に行方不明になったはずの、シルヴァーノ王国の幼き王子。その面影と、目の前の冷徹な男の顔が重なる。
「あ、ありえん……! 貴様は、あの時の……!」
絶句し、震え出す国王。
そんな彼を見下ろしながら、ワイズは静かに一歩下がった。
背筋を伸ばし、顎を引く。
まとう空気そのものが変質した。商人の媚びへつらいなど、もはや必要ない。
そこに立っていたのは、生まれながらにして人の上に立つ者だけが持つ、圧倒的な王者の風格。
ミナも、傭兵たちも、その威容に圧倒され、無意識のうちに姿勢を正す。
ワイズは右手を胸に当て、左手を背後に回し、優雅に腰を折った。
それは商人が顧客にするへりくだった礼ではない。
対等の、あるいはそれ以上の気品と格式を持った、王族同士の最敬礼。
顔を上げたワイズは、王族としての矜持を込めた瞳で、堂々とその真名を宣言した。
「お久しぶりです、国王陛下。……かつて貴国が『たかが金』で滅ぼした国、シルヴァーノ王国第一王子――ワイズ・フォン・シルヴァーノ。それが私です」
静まり返る謁見の間。そんな周囲の様子を気にすることなく、亡国の王子は静かに問いかけた。
「……二十年間、この瞬間をどれだけ待ち望んでいたか。貴方にわかりますか?」




