第31話
王城の正門前。
ワイズは馬車を降りると、無残な姿を晒している石造りのアーチを見上げた。
かつては王国の威信を象徴するように聳え立っていたその門は、二ヶ月前のミナの一撃によって半壊していた。
修理のために組まれた足場は風雨に晒され、修復作業が進んでいる様子はない。職人も資材も、そして予算もないのだから当然だろう。
ワイズは、崩れ落ちた巨大な石材の破片にそっと手を触れた。
その指先はまるで壊れ物を扱うかのように優しく、そしてどこか懐かしむように石の冷たさをなぞる。
栄華を極めたものが、自らの無策により内側から蝕まれ、物理的にも崩れ去った姿。
その光景を前にして、ワイズの瞳からいつもの冷徹さが消えた。そこに浮かんでいたのは達成感とも、喪失感ともつかない、深く静かな凪のような色。
それは商人が商品に向ける目線ではなく、長い旅路の果てに墓標の前に立った旅人のような、個人的で感傷的な眼差し。
「……ずいぶんと、時間がかかった気がするな」
崩れかけた城門を見つめ、ワイズはふと、独り言のように呟いた。
その言葉を耳にしたミナが、不思議そうに小首を傾げる。
「……そうですか? ここを出てからまだ二ヶ月ほどですが」
彼女の言う通りだ。物理的な時間は、季節が一つ巡るかどうかという程度に過ぎない。
ミナはワイズの横顔を見つめた。そこにいつもの不敵な笑みはない。
ただ静かに、どこか遠い場所――あるいはここではないどこかを見つめるような、寂寥感を帯びた横顔。
その様子に、ミナは微かな違和感を覚えた。会長は今、商談に来ているのではない。もっと別の、重たい何かと向き合っているような――。
ミナの視線に気づいたワイズは、すぐにその気配を霧散させた。
彼は崩れた瓦礫から視線を外すと、いつもの営業スマイルを完璧に貼り付け、肩をすくめてみせた。
「商人にとって、待つ時間は実際の何倍にも感じるものさ」
「……左様ですか」
ミナはそれ以上追求しない。ただ主人の背中に見えた一瞬の影を、心の中にそっと留め置くだけにした。
ワイズもまた、それ以上語らない。ただ懐中時計を懐にしまうと、彼はコートの裾を翻し廃墟のような正門をくぐる。
「行くぞ。お客様がお待ちだ」
ミナと傭兵団の精鋭たちが、その背中を守るように続く。王城内は死んだように静まり返っていた。
すれ違う近衛兵たちは、ワイズの姿を見ると幽霊でも見たかのように青ざめ、武器を構えることすら忘れて道を開ける。
誰もが理解しているのだ。この男こそが、今の王国の生殺与奪を握る真の支配者であると。
ワイズは迷うことなく回廊を進み、謁見の間の巨大な扉を自らの手で押し開けた。
「お久しぶりですね、国王陛下。……おや? 随分と顔色が優れないようですが」
ワイズは部屋の中央まで進み出ると、玉座に座る国王に向けて優雅に一礼した。かつてと同じ、商人としての完璧な礼儀作法。
だがその瞳には、隠しきれない嘲笑の色が浮かんでいる。
玉座の国王は、ワイズの姿を見た瞬間、屈辱と安堵、そして憎悪がない交ぜになった複雑な表情で身を震わせた。
「ワイズ……! よくも……よくも抜け抜けと余の前に……!」
王は歯噛みし、肘掛けを握りしめる。
「お呼びになったのは陛下の方でしょう? 商談をご希望だとか。……私は顧客の呼び出しには誠実に応じますよ。たとえ、かつて私を国賊と呼んだ相手であっても」
「貴様ぁ……ッ!」
「そう熱くならないでください。今日は金の話をしに来たのです。陛下も喉から手が出るほど欲しいでしょう? 金と、軍と、安全が」
ワイズが不敵な笑みを浮かべ、一歩踏み出したその時。
「死ねぇぇぇぇッ!!」
玉座の陰から、獣のような咆哮と共に何かが飛び出した。
勇者アレク。
彼はワイズの喉元を目掛け、一直線に突っ込んできた。その手に握られているのは、刃こぼれした量産品の剣。
だがその動きは、以前とはまるで違った。
「ッ!?」
ワイズの背筋に、命の危機を知らせる悪寒が走る。
前回、この場で襲ってきた時のアレクは、余裕の態度で、力任せの大振りだった。しかし今の彼に慢心はない。
あるのは獲物を確実に仕留めようとする純粋な殺意と、追い詰められた獣特有の異常な集中力。
泥にまみれ、誇りを失い、全てを奪われた男が、ただ「殺す」という一点のみに魂を凝縮させた一撃。
腐っても勇者。
極限状態に追い込まれたことで、その身体能力と生存本能のリミッターが外れた。
皮肉なことに、アレクはこの時初めて「勇者」として真の実力を発揮した。
(速い……ッ!?)
ワイズの動体視力を持ってしても、剣筋が霞む。
商人の護身術など通用しない、純粋な暴力の極致。
ワイズもまた達人の域にある体術の使い手だが、今の勇者は、ワイズの反応速度を完全に上回っていた。
「死ね! 全部お前のせいだぁぁぁッ!!」
アレクの瞳が血走る。
この一撃で全てを終わらせる。その執念が、剣速をさらに加速させた。
死の切っ先が、ワイズの喉に触れる寸前――
硬質な音が響き、火花が散った。
ワイズの喉元数ミリのところで、アレクの剣は完全に停止していた。
割り込んだのは、黒いスーツの残像。
ミナはワイズの前に音もなく立ちはだかり、アレク渾身の一撃を、懐から抜いた短剣一本で受け止めていた。
涼しい顔で汗一つかかず、呼吸すら乱さず。
勇者が魂を込めた極限の一撃すら、彼女にとっては処理すべき業務の一つに過ぎないと言わんばかりに。
「……会長には指一本触れさせません」
「邪魔だ女ぁぁぁッ!!」
アレクは絶叫し、ミナの短剣を強引に弾き飛ばそうと渾身の力を込めた。血管が切れそうなほどの力を込めて剣を振り上げる。
ワイズは一瞬だけ息を呑んだ。まさかあの腑抜けた勇者が、ここまで殺気を練り上げてくるとは。
だが所詮は、地を這う獣のあがき。天を翔ける『災厄』には届かない。
「ミナ。……無力化しろ」
「承知しました」
ミナの瞳が冷徹に光る。
彼女が本気を出せば、装備の揃っていない勇者など赤子も同然。ミナが踏み込み、アレクの腕をへし折ろうと手を伸ばした瞬間。
アレクの口元が、醜悪に歪んだ。
「へへっ……そう来ると思ったぜ!!」
彼は振り上げた剣を捨てると、ミナの攻撃を避けるのではなく、自ら後方へと飛び退いた。
そして近くでへたり込んでいた聖女エリーゼの髪を乱暴に掴み、引き寄せたのだ。
「きゃあっ!?」
「動くなッ!!」
アレクは懐から隠し持っていたナイフを取り出し、エリーゼの喉元に突きつけた。鋭い刃が皮膚に食い込み、一筋の鮮血が流れる。
「ア、アレク様……?」
「うるせぇ! 黙ってろ!」
ミナの足が止まる。アレクはエリーゼを盾にして、狂気じみた笑い声を上げた。
「ははっ! 止まったな? おいワイズ! これが見えるか!?」
「……何をしているか分かっているのですか? アレク様」
ワイズの声が低くなる。
「分かってるとも! こいつは聖女だ。教会の顔だ! もしこいつがここで死ねばどうなると思う?」
アレクの目が、卑しい光を放つ。
「俺が証言してやるよ。『ワイズ・コールマンが交渉決裂の腹いせに聖女を殺害した』ってな!!」
謁見の間が凍りついた。
それはあまりにも卑劣で、勇者にあるまじき外道の発想。だが計算高い、有効な脅迫ではあった。
もしここで聖女が死ねば、聖教国はメンツにかけてワイズを「神敵」と認定せざるを得なくなる。
いくら経済的に追い詰めていても、宗教的な「絶対悪」のレッテルを貼られれば、商売に大きな支障が出る。狂信者によるテロも激化するだろう。
「聖教国を敵に回したくないだろう? だったら俺に武器をよこせ! 金もだ! そして俺を亡命させろ!」
自分の保身のために、長年連れ添った仲間を盾にする。その姿に、聖女エリーゼの瞳から光が消えた。
「そんな……勇者様……!?」
「ちっ、面倒な」
ワイズは眉間を揉んだ。
ミナなら隙を突いて制圧できるかもしれないが、アレクは完全に錯乱している。万が一、手元が狂って聖女が死ねば、非常に面倒なことになる。
ワイズが次の一手を思案していた、その時。
「……本当に、見苦しいわね」
冷ややかな声が、アレクの背後から聞こえた。
「あ?」
アレクが振り向こうとした瞬間。
「雷撃」
紫色の電光が、アレクの無防備な背中を直撃した。
「がぁっ!?」
全力を込めた攻撃魔法ではない。筋肉を一時的に麻痺させる程度の、わずかな電流。
しかし極限の緊張状態にあったアレクの動きを止めるには十分。アレクの体が硬直し、ナイフを持つ手がわずかに緩む。
「マ、マリベル……!? テメェッ!!」
背後で杖を向けていたのは、魔法使いのマリベル。彼女は蔑むような目で、かつてのリーダーを見下ろしている。
「アンタにはもう愛想が尽きたわ。……これ以上、私の経歴に泥を塗らないで」
その一瞬の隙を、ミナが見逃すはずがなかった。
「失礼します」
音もなく疾風のように間合いを詰めたミナの手刀が、アレクの手首を正確に打ち抜いた。骨の砕ける音と共にナイフが床に落ちる。
「あ、が……ッ!?」
悲鳴を上げる暇も与えない。
ミナは返す刀でアレクの顎を掌底で打ち上げ、意識を刈り取ると、そのまま流れるように襟首を掴んで床に叩きつけた。
王城の床石に亀裂が入るほどの衝撃。
アレクは白目を剥き、四肢を投げ出して痙攣し、やがて動かなくなった。
わずか数秒の出来事。
解放された聖女エリーゼはその場に崩れ落ち、震えながら首元の傷を押さえている。
ミナは乱れたスーツを直すと、何事もなかったかのようにワイズの隣へと戻った。
「お待たせしました、会長」
「いや、ナイスフォローだ。……それと」
ワイズは視線を、杖を下ろした魔法使いへと向けた。
「賢明な判断ですね、マリベルさん」
「……勘違いしないでちょうだい」
マリベルは鼻を鳴らし、気絶したアレクを冷たく見下ろした。
「沈む船に乗っていたくなかっただけよ。それに……この馬鹿と一緒に心中させられるなんて、御免だわ」
勇者パーティーの崩壊。
信頼も、結束も、もはや欠片も残っていない無惨な光景。
ワイズはそれを見届け、改めて玉座で腰を抜かしている国王へと向き直った。
「さて、邪魔者は消えました。……商談を再開しましょうか、陛下」




