第30話
王国最終防衛ラインを突破した直後の荒野。
本来ならば勝利の美酒に酔いしれ、一気呵成に王都へ雪崩れ込むはずだった魔王軍の陣営に、不穏な空気が漂っていた。
淀んだ空気が支配する天幕の中。卓上に広げられた地図を、巨大な手が叩き割らんばかりに打ち据える。
「なぜ止める! すぐ目の前が王都なんだぞ!!」
雷鳴のような怒号が響いた。
吼えたのは、魔王軍四天王『鋼鉄のガルドッサ』。漆黒の全身鎧に身を包んだ巨躯を震わせ、目の前の人物を威圧するように身を乗り出す。
「人間どもは総崩れだ! 勇者も逃げた! 今進軍せずしていつやるのだ!」
だがその激情を真正面から受け止める影は、柳のように涼しげだった。
「いちいち騒ぐな、猪武者。聞こえている」
ガルドッサの前に立つのは、紫色のローブを纏った痩身の女魔族。その手には分厚い羊皮紙の束――補給リストが握られている。 四天王が一角、参謀『紫煙のメルザス』。
彼女は呆れたように肩をすくめ、ガルドッサに冷徹な現実を突きつけた。
「貴様の前線部隊、突出させすぎだ。おかげで補給線が千切れかけている」
「なんだと!? 魔獣どもには現地調達をさせておるわ!」
「その『現地』に、何もないから困っているんだろうが」
メルザスは天幕の入り口を指差した。
捲り上げられた幕の隙間からは、飢えに苦しみ、あろうことか味方同士で共食いを始めようとしている下級魔物たちの姿が見えた。
「人間どもがあまりにも早く逃げ出したせいで、略奪すべき食料も、資材も、何も残っていない。あるのは泥と死体だけだ」
「ぬぐっ……!」
「それに、我ら魔王軍とて一枚岩ではない。貴様がこれ以上戦果を上げれば、他派閥の連中が面白くないと足を引っ張るだろうさ。……補給物資の輸送が『なぜか』遅れているようにな」
メルザスの冷ややかな指摘に、ガルドッサは奥歯を鳴らした。
魔王軍といえど、その実態は多数の部族からなる連合体。
強硬派、慎重派、魔王への忠誠派、己の野心で動く者。人間たちと同様、あるいはそれ以上に、熾烈な足の引っ張り合いがそこには存在した。
「くそっ……! あと一歩、あと一歩で王都だというのに……!」
「焦るな。果実は熟してから落とせばいい。……あるいは、放っておけば勝手に腐り落ちるかもしれんぞ?」
メルザスは不敵に笑い、王都の方角を見つめた。
強大に見えた魔王軍もまた、補給なしには戦えず、そして派閥争いという病に蝕まれていた。
・ ・ ・
同時刻。王都へ続く街道。
巻き上がる土煙の中を、地平線を埋め尽くすほどの軍勢が進軍していた。轟く軍靴の音。軋む車輪の音。
先頭を行くのは、第三軍団長ボルドー。
バルディアでいち早く決起し、ワイズから潤沢な資金と装備を受け取った彼は、破竹の勢いで南下を続けていた。
かつての飢えた敗残兵のような姿はどこにもない。兵士たちの鎧は新品のように輝き、その顔には確固たる意志と、満ち足りた食料による血色が戻っていた。
「閣下! 王都の潜伏部隊より入電!」
副官が馬を寄せ、興奮した様子で報告する。
「第一軍団長ガレオス将軍、ついに王家との絶縁を宣言! 王都の主要施設を制圧し、市民の保護を開始したとのことです!」
その報告を聞いたボルドーは、馬上にて笑みを浮かべた。
「……あの堅物が、やっと腹を括ったか」
王国随一の忠臣と呼ばれたガレオス。
彼は優秀だが、それゆえに騎士道や忠誠心という呪縛に囚われていた。今回の一件もギリギリまで悩み抜いたのだろう。だがついに、王よりも民を選んだのだ。
「遅すぎるくらいだが、悪くないタイミングだ」
ボルドーは振り返り、付き従う兵士たちに向けて声を張り上げた。
「聞いたか野郎ども! 王都の第一軍団も動いたぞ! これで我々は反乱軍ではない、救国の連合軍だ!」
『おおおおおおおおっ!!』
兵士たちの士気は最高潮に達し、雄叫びが空を震わせる。さらに副官が続ける。
「ガレオス将軍の声明を受け、日和見を決め込んでいた第二、第四軍団も続々と旗幟を鮮明にしています! 『我らもガレオス将軍に続く』と、全軍が王都へ向かって進軍中!」
「よし! 我々も急ぐぞ! 美味しいところを全部ガレオスに持っていかれてたまるか!」
「はっ!!」
王国の全軍事力が、王を見限り、一つの巨大な奔流となって王都へ集結しつつあった。
・ ・ ・
一方、完全に孤立無援となった王城。
さすがに腐っても一国の王城である。広大な地下倉庫には十分な食料備蓄があり、今すぐに飢える心配はない。
豪奢な調度品、山積みの食材、そして選ばれし者だけが入ることを許された安全地帯。
だが城内の空気は、外以上に冷え切っていた。
「……報告はまだか」
国王の乾いた声が、静まり返った謁見の間に響く。広い空間には、王と勇者一行、そして逃げ遅れた一部の側近たちが残されているのみ。
「へ、陛下……どの軍団とも連絡がつきません。通信魔道具は繋がっていますが、誰も応答しないのです……」
側近が青ざめた顔で答える。
通信の魔導具からは、ノイズだけが虚しく響いている。
無視。
それは反乱以上に明確な、拒絶の意思表示だった。
窓の外を見れば、城下ではガレオス率いる第一軍団が展開し、市民たちに炊き出しを行っているのが見える。湯気が立ち上り、人々が兵士に感謝する光景。
だが王城の城門は固く閉ざされ、そこに出入りする者は一人もいない。
まるで、この城だけが世界から切り離された孤島のようだった。物質的には満たされているはずなのに、精神的には緩やかに、しかし確実に死に向かっている。
陶器の割れる音が、静寂を引き裂いた。
「くそっ……! あいつら、俺たちを無視しやがって!」
勇者アレクが、苛立ち紛れに食事を床にぶちまけた。肉汁が、高価な絨毯に赤黒い染みを作っていく。
「飯はある! ワインもある! だが……誰も俺を敬わない! なんでだ! 俺は勇者だぞ!?」
アレクにとって、賞賛なき生活は飢餓以上の苦痛だった。承認欲求という名の怪物は、満たされなければ主を内側から食い荒らす。
彼は親指の爪を噛み、何事かを呟きながら部屋を徘徊している。その目はすでに、正気と狂気の狭間を揺れ動いていた。
「陛下……もう、打つ手はありません。魔王軍は目の前、軍は離反、同盟は崩壊……」
側近が力なく膝をつく。その言葉を聞いた瞬間、国王の中で張り詰めていた何かが弾けた。
「ええい、黙れ黙れぇ!!」
国王は玉座を蹴り飛ばして立ち上がると、憤怒の形相で叫んだ。
「余は王だ! この国の支配者だ! こんなところで終わってたまるか!!」
彼は血走った目で周囲を見渡し、なりふり構わぬ命令を下した。
「連絡を取れ! 帝国だ! ……いや、あの商会だ! ワイズ・コールマンに連絡しろ!!」
その場にいた全員が、耳を疑った。
「へ、陛下!? しかし奴は国賊……我々をここまで追い詰めた元凶では……!」
「構わん! 金だろ!? 奴が欲しいのは金なんだろう!?」
国王は口角から泡を飛ばし、狂ったように叫ぶ。
「くれてやる! いくらでも払ってやるから、今すぐ来いと伝えろ! 帝国に口利きをしろと言え! 借金も払う! 利子もつけてやる! だから余を助けろと伝えろぉッ!!」
プライドも、威厳もかなぐり捨てた。ただ生き残るためだけに、かつて唾を吐きかけ、罪人として追放した相手に縋り付く。その醜悪な姿に、勇者アレクですら言葉を失っていた。
だがその命令を受けた伝令兵が通信機に手を伸ばすよりも早く、謁見の間の扉が乱暴に開かれた。
「へ、陛下ッ!!」
飛び込んできたのは、城門を守っていた近衛兵。彼は恐怖と動揺で顔を引きつらせ、息も絶え絶えだった。
「なんだ! 魔王軍か! それともガレオスが攻めてきたか!?」
「ち、違います! 正門に……正門に馬車が!」
「……馬車?」
「はい! 修理中の正門の前に、漆黒の馬車が到着しました! 掲げている紋章は……『コールマン商会』!!」
その名を聞いた瞬間、国王の表情が凍りついた。
呼ぼうとした矢先に、向こうからやってきた。まるでこのタイミングで王が音を上げ、プライドを捨てて救いを求めることを予期していたかのように。
「わ、ワイズか……? 奴が来たのか!?」
「は、はい! 『商談に来た』と……!」




