第36話
王国の崩壊は、必然として完遂された。
ワイズ・コールマンによる「破産宣告」と、それに続く「担保権執行」から約一ヶ月。
王国を数百年にわたり支配していた王家の旗は降ろされ、王城には代わりに二つの新たな旗が翻っていた。
一つは大陸最強の軍事力を誇る帝国の紋章。
そしてもう一つは、コールマン商会の社旗である。
国の治安維持は帝国軍やガレオス将軍達が担い、行政と経済の実権はコールマン商会と共和国から派遣された管財人チームが完全に掌握した。
かつて栄華を極めた王族たちは、その無能さと不正を暴かれ、責任を問われて全員が幽閉、あるいは国外追放の憂き目に遭っていた。
だが不思議なことに市民たちの生活に悲壮感はない。
むしろこれまで滞っていた物流が再開され、適正価格で食料が手に入るようになったことで、街には以前よりも明るい活気が戻りつつあった。
支配者が誰であろうと、今日の飯が食えればそれでいい。
それが庶民の逞しさであり、真理だった。
・ ・ ・
一方、王城の地下深く。
かつて勇者と呼ばれた男が繋がれていた独房は、いまや破壊され、もぬけの殻となっていた。
「はぁ、はぁ……ッ! 畜生……畜生ぉぉぉッ!」
地下水路の汚泥にまみれながら、一人の男が足を引きずって闇の中を進んでいた。
勇者アレク。ミナによって顎を砕かれ、全身を打撲した体は悲鳴を上げている。
かつての美しい金髪は見る影もなく汚れ、瞳からは理性の光が消え失せていた。
あの後、彼は敗戦の責任を負わされ、地下牢に投獄された。
王からも、国民からも、そして仲間だと思っていた聖女や魔法使いからも見捨てられた。
『お前のせいだ』
『偽勇者』
『疫病神』
浴びせられた罵詈雑言が、耳の奥で反響し続けている。
「俺は……悪くない……。俺は勇者だ……選ばれたんだ……」
壊れたレコードのように繰り返される自己正当化。だがその歪んだ精神を支えているのは、もはや希望や正義ではない。
どす黒い、煮えたぎるような殺意だけだった。
アレクは地下水路の出口、鉄格子を素手でねじ曲げて外へと這い出した。
そこは王都の外れ。彼が目指すのは、人の法が及ばぬ『未開拓領域』――魔物や犯罪者たちが逃げ込む、大陸最悪の無法地帯。
「見てろよ……ワイズ……!」
アレクは血の滲む指で壁を掴み、夜の闇へと消えていく背中で、呪詛を吐き捨てた。
「いつか必ず……この手でお前を殺してやる……! 俺から全てを奪ったお前だけは……絶対に許さないッ!!」
勇者は死んだ。
そこに生まれたのは、復讐という妄執に取り憑かれた、一匹の『魔物』だった。
・ ・ ・
王都を見下ろす丘の上。ワイズとシグルドは並んでその景色を眺めていた。
「本当にいいのかい? ワイズ」
シグルドが、どこか残念そうに問いかけた。
「君がその気になれば、今すぐにでもシルヴァーノ王国を再興できる。帝国も全面的にバックアップするし、民衆も今の君なら諸手を挙げて歓迎するだろう」
亡国の王子としての帰還。
それは物語としては美しい結末かもしれない。だがワイズは、静かに首を横に振った。
「お断りします。……国というシステムは、あまりに儚く、脆い」
「脆い、か」
「ええ。祖国で学びました。金が尽きれば、国など一夜にして消え失せる。権威も、伝統も。……そんな不確かなものに、私の人生を賭けるつもりはありません」
ワイズは懐から愛用の銀時計を取り出し、蓋を開けて時刻を確認した。
「それに、私にはもうコールマン商会がありますから」
ワイズの言葉に、シグルドは静かに微笑んだ。
だがその瞳には、為政者としての揺るぎない光が宿っていた。
「確かに、国は脆い。君の言う通り砂上の楼閣かもしれない」
シグルドは一歩前に出て、眼下に広がる王都の街並みを見下ろした。そこには、明日を生きようとする人々の営みがある。
「だがね、ワイズ。その不合理で、金のかかる重たい『国家』という枠組みでなければ、守れないものもあるんだよ」
「守れないもの……」
「ああ。民の安寧、法による秩序、そして『帰るべき場所がある』という人々の誇りだ。……金貨は腹を満たすが、人の心までは繋ぎ止められない。それを成すのが、我々為政者の領分だ」
ワイズは少しだけ目を見張り、やがて自嘲気味に口元を緩めた。
「……やはり殿下とは、根本的に相容れないようだ」
「だからこそ、こうして手を組めるんだろう?」
シグルドが手を差し出すと、ワイズはその手を力強く握り返した。
「ええ。貴方は国を統べる。私は経済を回す。……それぞれの領分で、世界を動かしましょう」
「ああ。達者でな、ワイズ。また面白い企みがある時は声をかけてくれ」
二人は握手を解くと別れた。シグルドは王城へ、ワイズは街へと。それぞれの信じる道を歩むために。
・ ・ ・
帝国軍と別れた後、ワイズは一人、王都の大通りを歩いていた。
復讐は終わった。
二十年越しの悲願は達成された。
だが胸の中に広がるのは達成感というよりは、燃え尽きた後の灰のような静けさ。目的を見失った空虚感。
自分は何のためにここまで走り続けてきたのか。
ふと、足が止まった。
目の前には、修復を終え、営業を再開したばかりの『コールマン商会・王国本店』の建物。
以前のような煌びやかさはまだ戻っていないが、活気だけは満ち溢れている。
ワイズは何気なく、その扉を開けた。
「おい! 東部からの小麦、まだ届かないのか! 他社より先に店頭に並べろ!」
「港の積み荷は全部降ろしたよ! 次の船を手配しな!」
「魔石の価格調整、こっちでやっておくぞ。帝国の相場に合わせろ」
「奥様方への新作ドレスの発表会、来週に前倒ししますわよ!」
ロビーに響き渡る怒号と笑い声。
そこには、ヘンドリック、ベルタ、ギガル、シェリー……王国を脱出したはずの支店長たちが、全員揃って陣頭指揮を執っていた。
誰もが忙しなく、けれど誰もが生き生きとした顔で働いていた。
ワイズの姿に気づいたヘンドリックが、眼鏡の位置を直しながら顔を上げた。
「おや、会長。やっとお見えですか。サボっている暇はありませんよ」
「……お前たち、なぜここに?」
「なぜって、会長が仰ったんじゃないですか。『失った資産の百倍にして稼ぎ出す』と」
ヘンドリックは分厚い台帳を掲げて見せた。
「王国の再建、市場開放、防衛線の再構築……。商機は山のようにあります。我々が休んでいる場合ではありません」
「そうさ大将! そんな湿っぽい顔してどうしたのさ! 次の仕事だ!」
「私たち、まだまだ稼ぎ足りませんのよ?」
惚けたようにその様子を見ていたワイズに、ミナが歩み寄り声をかける。
「会長。過去の清算は終わったのでしょう? ……なら次は、貴方風に言うのであれば『未来への投資の時間』なのでは?」
その言葉に、ワイズの中で燻っていた灰が吹き飛び、新たな火種が灯るのを感じた。
そうだ。
自分はもはや亡国の王子ではない。
商人だ。
復讐は終わった。
ここから始まるのは、無限の未来への挑戦。
ワイズは再び部下たちを見回すと、一瞬の間の後、不敵な笑みを浮かべた。
「……ああ、そうだな。こんなところで立ち止まっている暇はない」
ワイズは一息吸うと、高らかに宣言した。
「全員、聞け!! 我々コールマン商会は今や大陸最高の商会の地位を手に入れた。ならば次はどうする?」
ワイズの突然の大声に、商会にいた全員が何事かと手を止めた。
コールマン商会の面々が。
ワイズを、信じて付いてきてくれる者たちが。
ワイズが、信じている者たちが。
静かに、だが高揚した表情で商会長の言葉を待っている。
それを確認したワイズは、大胆不敵に続けた。
「……世界だ。この世界のすべての富を、我々が手に入れる」
そして一息つくと、堂々と宣言した。
「我々コールマン商会は、大陸最高を超え、世界最高の商会になる! 全員、私についてこい!! 共に黄金の夢を見ようじゃないか!!」
ワイズによる突然の宣言。
それを聞いたコールマン商会の面々は面食らったような表情になったのち、全員が不敵な笑顔を浮かべた。
「「「「「「承知いたしました、会長!!!!!」」」」」」
歓声が上がる。
かつて復讐のために磨いた牙は、今、世界を掴むための翼へと変わった。
・ ・ ・
そしてその夜。
執務室で新たな事業計画を練っていたワイズの元に、ミナが一通の手紙を持ってきた。
差出人の名はなく、封蝋には見たことのない紋章――いや、ワイズは知識としてそれを知っていた。
魔王領の植物をあしらった、魔王軍の印。
「……会長。魔王軍の参謀、メルザスと名乗る者からの接触です」
珍しく緊張した様子のミナの声。
先日の戦いで撤退したはずの魔王軍。それがなぜ今、極秘裏に接触してきたのか。
手紙を開いたワイズは、その内容に目を通し、やがて口元を三日月型に歪めた。
そこにはこう書かれていた。
『大陸を牛耳る大商人殿。我々魔王軍とも、商談の席を設けてはいただけないだろうか? 貴殿には新たな市場が必要だろう?』
まさかの敵対勢力からの商談持ちかけ。常人ならば罠を疑い、あるいは恐怖するだろうか。
だがワイズ・コールマンにとって、それは最高の誘い水。
「……ふっ、ははっ!」
ワイズは手紙をテーブルに置き、窓の外、遥か南の闇を見つめた。
「いいだろう。ビジネスに種族は問わない」
金貨は誰にとっても等しく金貨であり、契約にもまた国境はない。
彼は手紙を丁寧にしまうと、ミナへと振り返った。
「ミナ、出張の準備だ」
「はい、会長。……それで今回はどちらまで?」
「魔王領へ向かう」
大陸一の商人は、新たな獲物の匂いを嗅ぎつけ、獰猛に笑った。
「さあ、取引の時間だ」
・ ・ ・
『勇者様、装備のローンが残っていますが?』 第一部 完
作者あとがきに続く




