第28話
帝国で、外交が決着を迎えていた頃。
王国南部、最終防衛ライン。そこにあるのは、泥と血と絶望にまみれた本物の地獄だった。
「ひ、ひるむな! 陣形を立て直せ! 神官戦士団、前へ!」
降りしきる冷たい雨の中、聖教国から派遣された神官長の絶叫が響く。彼が指揮するのは、聖教国が誇る精鋭『神殿騎士団』。
神の加護を授かり、ミスリルの武具で武装した彼らは、本来であれば魔王軍の先鋒など容易く押し返せるだけの実力を持っていたはずだった。
だが今、彼らの姿はあまりにも無惨だった。
「団長! も、もう無理です! 剣が……剣が折れました!」
「鎧の聖別の効果が切れています! 魔族の攻撃を防げません!」
「ポーションは!? 聖水はないのか!?」
「在庫切れです! 商会の補給便が止まってから、一本も届いていません!」
悲鳴のような報告と共に、誇り高き神殿騎士たちが次々と魔物の群れに飲み込まれていく。
彼らの強さを支えていたのは、神への信仰心ではない。
ワイズ・コールマンが定期的に行っていた最高品質の武具の補給と、惜しみなく提供されていた強化ポーションという物資だったのだ。
「あ、ああ……神よ……なぜ我らを見捨て給うのか……!」
神官長が天を仰いで嘆く。だが雨雲に覆われた空からは何も降ってこない。
ただ冷酷な現実として、魔獣の咆哮と、骨が砕け血潮が飛び散る音だけが響いていた。
その阿鼻叫喚の地獄を、泥まみれの塹壕の中から冷ややかな目で見つめる女がいた。
勇者パーティーの魔法使い、マリベル。
かつて「賢者」と称えられた彼女の美しいローブは今や泥雑巾のように汚れ、自慢の杖も魔力枯渇による負荷でヒビが入っている。
「……見捨てたのは神じゃないわよ。スポンサーに見限られただけ」
マリベルは泥水で濡れた前髪をかき上げ、自嘲気味に呟いた。
彼女は理解していた。
この世界における「勇者」という存在が、一種の巨大な興行であることを。
魔王という脅威があり、それに対抗する勇者がいる。その構図を利用して各国から支援金を引き出し、商会が物資を回し、経済を回す。
マリベルはその仕組みを理解した上で、あえてその甘い汁を吸う側に回っていた。
自身の魔法研究には莫大な金がかかる。ならば勇者という神輿を利用して、パトロンを見つけるのが最も効率的だと。
(計算違いだったわね。まさか神輿の担ぎ手が、舞台装置ごと全部引き払って消えるなんて)
彼女の視線の先では、一人の男が――勇者アレクが喚き散らしていた。
「おいエリーゼ! 回復だ! 早くしろ!」
「む、無理ですアレク様……! もう魔力が残っていません……!」
聖女エリーゼが涙ながらに訴える。彼女もまた、教会の広告塔として利用され、そして自らもその地位に溺れていた一人。
けれど彼女の信仰心は、空腹と疲労の前では無力だった。
高級な食事と、魔力回復薬。それらがあって初めて「聖女」という奇跡の装置は稼働する。
「使えねぇな! 気合でなんとかしろよ! お前、神に愛されてるんじゃないのかよ!?」
「そんなこと言われても……っ! お腹が空いて、もう力が……」
アレクの罵倒に、エリーゼがその場に座り込む。それを見たマリベルは、深いため息をついた。
もう終わりだ。
資金源を失ったショービジネスは、これほどまでにあっけなく、そして醜く幕を下ろすのだ。
「くそっ、どいつもこいつも!!」
アレクは苛立ち紛れに、量産品の剣で近くの木を殴りつけた。鈍い音がして刀身が曲がる。
「なんだよこれは! なんで俺がこんなナマクラを使わなきゃいけないんだ!」
彼の叫びは、周囲の兵士たちに向けられていた。王国正規軍の兵士たち。彼らもまた、限界を迎えていた。
勇者一行を守るために盾となり、傷つき、それでも補給がないまま戦い続けてきた彼らの目には、もはや勇者への敬意など欠片も残っていない。
「……いい加減にしてくださいよ」
重い、侮蔑を含んだ声が兵士の中から上がった。
「あ?」
アレクが振り返ると、片腕を負傷した兵士長が、血走った目で勇者を睨みつけていた。
「俺たちの剣は、それが標準支給品なんですよ。あんたが『ナマクラ』と呼ぶその剣で、俺たちは何年も国を守ってきたんだ」
「だ、だから何だ! 俺は勇者だぞ!? 特別なんだよ! 俺にはもっとふさわしい装備があるはずだろ!」
「その装備を失ったのは、あんたが借金を踏み倒そうとしたからだろうが!」
兵士長の怒号。それは、これまで誰も勇者に浴びせたことのない正論だった。
「ち、違う! あれはワイズが……あの守銭奴が勝手に!」
「うるせぇ!!」
兵士長だけでなく、周囲の兵士たちからも殺気にも似た怒気が膨れ上がる。
自分たちは飢え、傷つき、仲間が死んでいる。
なのに目の前のこの男は、自分の不始末を棚に上げ、武器の文句ばかり垂れている。
「守ってやってるだと? ふざけるな。あんたがワイズ会長を怒らせたせいで、俺たちは補給を断たれたんだ! あんたさえいなけりゃ、俺の部下は死なずに済んだんだよ!」
誰かが投げた泥団子が、アレクの頬に直撃した。ぺちゃり、という間抜けな音。
アレクは呆然と頬を拭う。手についたのは、汚らわしい泥。
「な……?」
信じられなかった。
民衆に手を振れば歓声が上がり、兵士たちは敬礼で迎える。それが「勇者」である自分への当然の待遇だったはずだ。
それが、泥? 罵声?
「引っこんでろ疫病神!」
「お前のせいで国が滅ぶんだよ!」
「死ね! 偽勇者!」
一人が投げれば、堰を切ったように憎悪が殺到する。小石が、泥が、空になった水筒が、アレクに向かって投げつけられる。
物理的なダメージなどない。勇者の肉体は頑強だ。だがその一撃一撃が、アレクの肥大化したプライドを粉々に砕いていった。
「や、やめろ……! 俺は……俺は勇者だぞ!?」
アレクは後ずさる。
理解できない。理解したくない。
悪いのは金に汚いワイズだ。協力しない国だ。俺を敬わない愚民たちだ。
俺は悪くない。
俺は、選ばれた特別な存在なんだ。
「俺は……俺は悪くないッ!! 金を出さない世界が悪いんだよぉぉぉッ!!」
アレクは半狂乱で叫び、剣を振り回した。だがその切っ先は、敵である魔王軍ではなく、守るべきはずの味方に向けられていた。
完全に、一線を越えた。
「アレク、やめなさい!」
マリベルが鋭い声で制止しようとするが、アレクの耳にはもう届かない。彼の瞳にあるのは、自分を否定する世界すべてへの歪んだ憎悪だけ。
「うるさい! 俺を認めない奴は全員敵だ! どいつもこいつも馬鹿にしやがって……! 見てろよ、俺の本気を……!」
その時、突如として地鳴りが近づいてきた。魔王軍の主力部隊が、最終防衛ラインを突破しようとしているのだ。
本来なら立ち向かうべき勇者は、味方に石を投げられ、錯乱し、孤立している。
聖女は魔力切れで失神寸前。
魔法使いは冷めた目で撤退の算段をつけている。
「……終わったわね」
マリベルは短く呟き、懐から一枚のスクロールを取り出した。いざという時のために隠し持っていた、最後の『緊急転移スクロール』。
彼女はそれを自分だけのために使うつもりはなかった。この馬鹿な勇者と聖女も連れて行かなければならない。
なぜなら彼らが生きてさえいれば、また別のどこかで「勇者ビジネス」を再開できるかもしれないから。
……あるいは、単純な腐れ縁か。
「アレク! エリーゼ! ずらかるわよ!」
「は、離せ! 俺はまだ戦える! 俺は勇者だあああ!!」
「きゃあっ!?」
マリベルは暴れるアレクの首根っこを魔法の風で無理やり掴み、へたり込む聖女を引き寄せた。
防衛ラインが決壊し、魔物の群れが雪崩れ込んでくるのと同時。彼女たちは光に包まれ、戦場から強制離脱した。
残されたのは、指揮官を失い、希望を失い、ただ蹂躙されるのを待つだけの王国軍と神殿騎士団。
こうして王国を守る最後の盾は、あまりにもあっけなく砕け散った。




