第27話
翌朝。帝国は、いつものように爽やかな朝を迎えていた。
小鳥のさえずりと共に目を覚ましたワイズは、しばらくぼんやりしたのち、大きな伸びをした。
そしてベッドを出ると身支度を整え、一階のテラスへと降りる。
そこにはすでに焼きたてのパンとベーコン、みずみずしいサラダ、そして湯気を立てるコーヒーが用意されていた。
「おはようございます、会長」
「ああ、おはよう。ミナ」
朝の光を背に受けてポットを傾けるミナの所作は、絵画のように美しい。
ワイズは席につき、まずはコーヒーを一口啜る。最高級豆の適度な酸味が脳を覚醒させ、眠気を洗い流していく。
実に優雅な朝食の時間。
――そのテラスのすぐ外に、濃厚な血の気配を漂わせた大男が立っていなければの話だが。
「……で、どうだったんだ?」
ワイズはナイフでベーコンを切り分けながら、テラスの柵に寄りかかっている巨漢に問いかけた。
隻眼の戦士、ガルド・ロガン。
コールマン傭兵団の団長にして、かつて『戦鬼』の二つ名で大陸中を震え上がらせた男。
彼は凶悪な外見に似合わず、その立ち居振る舞いは貴族のように洗練されている。
S級冒険者ともなれば各国の王族や貴族からの依頼も多く、礼儀作法は必須の教養だからだ。
ガルドは、よく響くバリトンボイスで報告を始めた。
「昨晩の不届き者たちの件ですね? 全部で二十名。……いずれも、王国式の手並みでしたよ」
「生存者は?」
「五名ほど生かしてあります。依頼主を吐かせますか?」
「いや、その必要はない」
ワイズはナプキンで口元を拭い、興味なさそうに答えた。
「おそらくは王国の『影』だろうが、今の我々は世界中から恨みを買っている。教会の狂信者か、あるいは損をした小国の私兵か……いちいち気にしてもキリがない」
「違いありません。会長は今や、大陸一の人気者ですから」
ガルドが口元を緩め、揶揄うように肩をすくめる。
「で、彼らはどうなさいますか?」
「帝国軍に突き出しておけ。『不法入国した武装集団を、自衛のために拘束した』とな。……シグルド皇子への手土産代わりだ」
「承知いたしました。……くくっ、会長は本当に、塵一つ無駄になさいませんね」
ガルドは感服したように微笑むと、ふと視線をワイズの背後――静かに給仕をしているミナへと向けた。
「……それにしても、会長」
その隻眼に知的だがどこか意地の悪い、猛獣を挑発するような光が宿る。
「昨晩は敵よりも、味方に肝が冷えましたよ」
「味方? お前の部下が不手際でもしたか?」
「いいえ。私が恐れたのは、『あの方』が我慢できなくなることです」
ガルドは顎でミナをしゃくった。
「ミナ殿。……昨晩はよく耐えられましたね? かつての貴女なら、敵の殺気を感じた瞬間に窓を突き破り、獲物を蹂躙していたでしょうに」
「…………」
コーヒーを注いでいたミナの手が、空中でぴたりと止まった。
ガルドは構わずに続ける。まるで、酒の席での笑い話でもするかのような軽い口調で。
「いやぁ、今でも耳に残っているんですよ。五年前、赤龍討伐の折に聞いた、あの『音』が」
「……なんの話でしょう」
「おや、ご存知ない?」
意地悪く微笑んだガルドは続けた。
「では説明させていただくことにしましょう。武器を失い、瀕死の重傷を負ったはずのとある少女。そんな彼女がドラゴンに馬乗りになって、素手でその頭蓋を叩き割っていた時の……あの、濡れた果実が弾けるような破裂音が」
ミナの様子を伺いながら、楽しげにガルドは続ける。
「ギルドの連中は貴女の戦斧槍を見て『朱き災厄』なんて呼びますがね……。現場にいた俺たちは知っている。その二つ名は、返り血で染まった貴女自身を讃えたものだ」
「……ガルド殿」
底冷えするような、絶対零度の声が響いた。
ミナは表情こそ変えていない。
能面のような無表情のまま。だが彼女が持っていた純銀のトレイは、僅かに音を立てて飴細工のようにひしゃげている。
「今の私は、会長の秘書です。……それ以上でも、それ以下でもありません」
「そうですか。……しかし秘書を演じ続けるのも、楽ではないのでは?」
「……今ここで、死にますか?」
ミナから放たれる濃密な殺気が、物理的な圧力を伴ってガルドに襲いかかった。
歴戦の勇士であり、戦鬼と呼ばれたガルドですら、冷や汗を流して一歩後ずさるほどのプレッシャー。
テラスの空気が凍りつき、小鳥のさえずりが止まる。
ワイズは二人の一触即発のやり取りを無視し、優雅にコーヒーの最後の一口を飲み干した。
「じゃれ合いはその辺にしておけ。……さて、仕事の時間だ」
ワイズの一声で、殺気が霧散する。
肩をすくめたガルドは綺麗な一礼をすると、昨晩捕えた者たちを帝国軍に突き出すために、その場を離れた。
・ ・ ・
それから数日間。別邸への襲撃は止むことがなかった。
夜闇に乗じた忍び込み、別邸に搬入された食材への毒物混入、果ては数キロ先からの魔法狙撃。
ありとあらゆる手段でワイズの命が狙われた。
しかし、その全てが徒労に終わった。
何せこの屋敷には今、大陸中から招集された『コールマン傭兵団』の主力部隊が集結しているのだ。
団長のS級冒険者ガルド・ロガンを筆頭に、A級上位の猛者たちが、蟻一匹通さぬ鉄壁の布陣を敷いていた。
結果、ミナがストレス発散のために敵を殴る機会すら訪れず、襲撃者たちはただ無意味な死体の山を築くだけに終わった。
そして五日目の朝。
ワイズの元に、一通の報告書が届く。それは王国の最前線が、いよいよ崩壊の危機に瀕しているという知らせだった。
「……潮時だな」
ワイズは報告書を暖炉に放り込むと、立ち上がった。燃え上がる紙片を見つめる瞳は、すでに商人の冷徹な光を宿している。
準備は整った。
交易都市ガルディアには、非常招集に応じたコールマン傭兵団の各部隊が続々と到着し、その数は一千を超えていた。
「行くぞ。……取り立ての時間だ」
出発の刻。交易都市の大通りは、異様な熱気に包まれていた。
市民たちが道を開け、畏怖と好奇の入り混じった視線で見守る中、完全武装した一千の傭兵団が整然と行進していく。
彼らが纏うのは、帝国の正規軍すら羨む最高級装備。
ミスリルの鎧、魔力付与された武器、最新鋭の通信魔道具。コールマン商会が自社の傭兵にのみ支給している、金に糸目をつけないオーバースペックな武装集団。
その隊列の先頭を行く、ワイズの乗る豪奢な漆黒の馬車。
不意に、その進行方向に一人の男と帝国兵たちが立ちはだかった。沿道の人垣が割れ、自然と彼のために空間が生まれている。
シグルド皇子だ。
それに気づいたワイズは、即座に指示を飛ばした。
「馬車を止めろ」
「あいよッ」
ランドルフが手綱を引き、馬車が停止する。それに合わせて、千人の傭兵団が一糸乱れず足を止めた。
静寂が戻る中、ワイズは扉を開け、静かに地面へと降り立つ。そして皇子の御前まで歩み寄ると、大勢の市民が見守る中、恭しくその場に片膝をついて跪いた。
一介の商人が、次期皇帝に対して示すべき完璧な礼節を持って。
「やあ、ワイズ。顔を上げてくれ」
皇子はワイズの背後に控える、勇壮な軍勢を見渡し、楽しげに口笛を吹いた。
「それにしても壮観だねえ。たかが一商会の私兵にしては、力が過ぎるんじゃないか? このまま小国の一つや二つ、征服できそうだ」
「人聞きの悪い。これはあくまで商品の護送と、商会の皆の安全を守るための『自衛戦力』でございます」
ワイズは跪いたまま、殊勝な態度で答える。
「なるほど、『自衛』か。便利な言葉だね。……だが確かに力は必要だ。私はその力を肯定するよ」
シグルドは不敵に笑い、跪くワイズに近づくと、耳元でだけ聞こえるように声を潜めた。
「手筈通り、国境のザイード将軍率いる帝国軍は『演習』の名目でそのまま待機させてある。……好きに暴れてこい」
「感謝します、殿下。……では、後の掃除は任せましたよ」
「ああ。吉報を待っている」
短い会話を終え、ワイズは立ち上がる。再び深々と一礼してから馬車へと戻り、出発の合図を送った。
御者のランドルフが鞭を振るう。
『進めぇッ!!』
千人の傭兵団、そして膨大な軍事物資を積んだ馬車団が、地響きを上げて動き出した。
目指すは南。
わずか二ヶ月ほど前。ワイズを追い出し、今や滅びの淵にある王国である。




