第21話
そしてその影響は、すぐさま王都の市民生活を直撃した。
「はぁ!? 1000ガメルだって!?」
王都の下町、人々の胃袋を支えるパン屋の店先で、主婦の悲鳴が上がった。
彼女が指差したのは、焼き立てのパン……ではなく、棚にポツンと置かれた売れ残りの硬いパン。
つい数日前までは100ガメルで買えた、庶民の味方。それが今日は十倍の値札をつけて鎮座している。
「ふざけないでよ! たかがパン一つに銀貨一枚だなんて、足元を見るにも程があるわ!」
「すまねぇ、奥さん。これでも赤字なんだよ」
店主が申し訳無さそうに頭を下げる。その顔はやつれ、粉まみれだったエプロンは薄汚れていた。
「小麦粉が入ってこねぇんだ。問屋に行っても『在庫がない』の一点張りでな。それでもなんとか手に入れた粉は、先週の二十倍の値段だ。……これじゃあ、俺たちも商売あがったりだよ」
「軍の配給はどうなってるのよ! ガレオス将軍が倉庫を開放したって聞いたわよ!」
「ああ、確かに行われてる。……だが、絶対量が足りてねぇんだ」
店主の言う通りだった。第一軍団のガレオス将軍は、ワイズから託された倉庫を開放し、市民への食料配給を開始していた。
だがそれはあくまで備蓄であり、王都の人口を永続的に支えられる量ではない。配給には長蛇の列ができ、たかがパン一個手に入れるため数時間並ぶ必要がある場合も。
「明日の配給がある保証はねぇ。……悪いことは言わねぇ、奥さん。高くても、あるうちに買っておいたほうがいい」
「そんな……」
「それに、金なんて持ってても意味がなくなるかもしれねぇぞ」
店主の不吉な予言に、主婦は血の気が引くのを感じた。
お金があれば物が買える。
その当たり前が崩れ去ろうとしている。
・ ・ ・
不安は人の心を蝕み、新たな恐怖を呼び寄せる。
市場で、職場で、井戸端で。出処不明の、しかし妙にリアリティのある噂が囁かれ始めた。
「おい、聞いたか? 北のバルディアの話だ」
「ああ、ボルドー将軍が反乱を起こした街だろう?」
「それがな……向こうは食い物に困ってないらしいぞ」
「なんだって?」
男たちは声を潜める。
「ボルドー将軍による統治は驚くほど安定していて、治安も良いらしい。それにな、帝国との国境を開いて、独自に交易を始めたそうだ」
「独自にって……国を通さずにか!?」
「あぁ。噂じゃ、あのコールマン商会がバックについてるらしい」
王都の困窮とは対照的に、反乱都市バルディアは帝国からの物資流入によって潤っているという噂。
真偽は定かではない。だがそれは絶望した市民にとって、唯一の希望の光に見えた。
「俺、田舎の実家に帰るわ……。王都はもう駄目だ」
「私もよ。親戚を頼ってバルディア方面へ逃げるつもり」
王都の大門には、家財道具を荷車に積んだ市民たちの列ができ始めていた。
疎開。いや、事実上の脱出。
国の中枢から、人が、金が、希望が流出していく。王都は急速に、その輝きを失いつつあった。
「おい、銀行だ! 逃げるにも金がいる!」
「俺の金だ! 俺の金を返せぇぇ!!」
そして起きたのが、王都中央銀行での取り付け騒ぎ。
噂の出処は、帝国にあるホテルのラウンジで優雅に扇子を仰ぐある貴婦人――シェリー・ル・フィーナが放った言葉。
『コールマン商会が王国の国債をすべて売却し、現金を引き上げた』
『王国の通貨は、明日には紙屑になる』
これらの噂は、市民の恐怖を爆発させるのに十分だった。銀行の窓口には群衆が殺到し、扉を叩き割り、金庫室へ雪崩れ込もうとする。
「そこまでだッ!! 騒ぐ奴は反逆罪とみなして連行するぞ!!」
完全武装した兵士たちが、槍の石突きで地面を叩き、暴徒と化した市民を押し返す。
ガレオス将軍率いる第一軍団の介入によって、最悪の事態は辛うじて防がれた。だが馬上から見下ろすガレオスの表情は険しい。
彼が懐の鍵――ワイズから託された種火――の感触を確かめるその背後で、兵士たちのひそひそ話が漏れ聞こえてくる。
「おい、聞いたか……最前線の話」
「ああ。『嘆きの砦』が放棄されたってな……」
「勇者様が負けたんだ。……もう、この国はおしまいかもしれん」
ガレオスは強く唇を噛んだ。
経済の崩壊。
民心の離反。
そして軍事的敗北。
この国を支えていた柱が、音を立てて折れていくのが聞こえるようだった。
・ ・ ・
同時刻、王城・玉座の間。
ガレオスの憂慮通り、そこでは政権の崩壊を予感させる悲鳴が飛び交っていた。
「ど、どうなっているのだ! なぜ民が逃げ出す! なぜ暴動が止まらん!」
「へ、陛下! 物資の欠乏により、市民の不満は限界です! それにバルディアが帝国と通じているという噂も広まり……!」
「ええい、ボルドーめ! 裏切り者めが!」
国王は玉座の肘掛けを叩くが、事態は好転しない。そこにトドメとなる報告を持った伝令が、転がるように駆け込んできた。
「へ、陛下! 急報です! 南方戦線より入電!」
「なんだ、勇者が勝ったか!?」
「い、いえ……! 勇者アレク様、さらに敗走! 第二防衛ラインも放棄されました!」
「な……っ!?」
「現在、軍は最終防衛ラインまで後退中ですが……兵士の逃亡が相次ぎ、戦線の維持が困難です! 現場は半ば反乱状態で……!」
玉座の間が凍りついた。度重なる勇者の敗北。それは単なる軍事的な失敗ではない。
「勇者がいるから大丈夫」という、国民を繋ぎ止めていた最後の精神的支柱が折れたことを意味する。
経済不安に、軍事的な恐怖が加わればどうなるか。 それは政情不安などという生易しいものではない。革命、あるいは国家解体の危機。
「おのれ……おのれワイズ・コールマン……! 余を、我が国をここまでコケにしおって……!」
震える手で頭を抱える国王。だが彼のプライドはまだ、自分の非を認めることを許さない。
自分たちではどうにもならない。ならば、他人の力を使えばいい。いつものように。
「……そうだ。同盟だ」
「は?」
「人類同盟だ! 緊急総会を招集せよ! 議題は『コールマン商会による人類への反逆』だ!」
国王は血走った目で叫んだ。
「帝国も、共和国も、聖教国も呼び出せ! 人類の敵である魔王と戦う勇者をないがしろにし、私腹を肥やす悪徳商人を断罪するのだ! 世界の総意で、あの商会を潰してやる!!」
それは溺れる者が藁をも掴むような、あるいは墓穴をさらに深く掘るような、破滅への号令だった。




