第20話
王国の崩壊は、静かに始まった。
王国最大の貿易港、ポルト・ロマーナ。普段であれば、大陸中から集まる商船でマストが林立し、荷揚げをする労働者たちの威勢のいい掛け声が響き渡る活気ある港町。
だが今、その港は死んだように静まり返っていた。
「おい、どうなっているんだ……?」
港湾管理官の男が、望遠鏡を握りしめたまま震える声で呟く。彼の視線の先、水平線の彼方には、数え切れないほどの商船の影が見えていた。
食料、衣類、燃料……王国の生活を支える物資を満載した船団。
だがそれらは一隻たりとも港に入ろうとはしなかった。まるで目に見えない巨大な壁に阻まれたかのように、港の手前で進路を反転させ、次々とUターンしていく。
「海賊か? 海軍は何をしている!」
「海軍なら出動しました! ですが……」
部下は困惑の表情と共に、報告書を差し出す。
「……引き返してきました。商船団を追い返していた武装船団――そのマストに掲げられた『コールマン商会』の旗印を確認した後、提督が撤退を命じたそうです」
「戦わずに逃げたというのか!?」
「戦えなかったのです。……これをご覧ください」
それはコールマン商会王国海運部門統括、ベルタ・カスティロ名義で全船舶に発布された『通達書』だった。
『本日付で、王国海域を「第一級危険航行区域」に指定する。当該海域に侵入する船舶に対し、我が社系列の保険組合は一切の損害を補償しない。また、本警告を無視し該当海域へ侵入する者には、相応の対応を実施する』
そして最後に乱雑に書き加えられた言葉。
『邪魔をするなら、撃ち合おうじゃないか』
簡潔な通達。たったそれだけで、王国海軍は手出しができなくなった。
「……海上保険の適用停止だと?」
管理官は状況の深刻さを、この時初めて正確に理解した。
船が沈めば、船主は破産する。
そのリスクをカバーする保険の最大手がコールマン商会系である以上、保険の効かない海域に船を出す馬鹿な船長はいない。
加えて海軍の足も止まっていた。彼らの軍艦を動かす魔導エンジンの燃料も、大砲の炸薬も、その供給の大半をコールマン商会が握っていたからだ。
ここで強引に戦端を開けば、弾薬も燃料も尽きて海上で漂流しかねない。補給を断たれることは、海の上では死を意味する。
かくして、港にはカモメの鳴き声だけが虚しく響き渡ることになった。
・ ・ ・
異変は海だけではない。
王国内に点在する魔導工房でも、火が消えようとしていた。
「おい、魔石の納入はまだか! これじゃ炉の火が維持できないぞ!」
「だ、駄目です親方! 鉱山都市からの定期便が来ません!」
「何をしている!? さっさと他を当たれ!」
「当たりましたよ! でも、どこも在庫切れで……コールマン商会が市場の魔石を根こそぎ買い占めて、国外へ持ち出しちまったそうです!」
工房の親方が、煤けた顔で驚きの表情と共に手をとめた。魔石がなければ魔道具はおろか、夜の街灯り一つ灯すことができない。
海が閉ざされ、大地が乾く。
ワイズ・コールマンが円卓で地図にバツ印をつけたその瞬間から、王国崩壊へのカウントダウンが始まっていた。
・ ・ ・
物流の大動脈である海路、そしてエネルギー源である鉱石の供給が断たれた王国。
だが国にはまだ無数の商会や行商人たちが残っている。彼らはまだ、自分たちが「主役」になれると信じていた。
王都の商業ギルド本部では、事態を重く見た国からの命令を受け、中小商会の代表たちが集められ緊急会議が開かれていた。
「コールマン商会が抜けた穴など、我々で埋めればいいだけの話だ! むしろ好機ではないか!」
鼻息荒く叫んだのは、中堅商会『銀の車輪』の会頭。
彼はこれを好機と捉えていた。目の上のたんこぶだった巨大商会がいなくなった今こそ、シェアを奪うチャンスだと。彼は即座に手配した荷馬車隊を、東部の穀倉地帯へと走らせた。
……しかし、数日後。王都の市場に辿り着いた彼の荷馬車から降ろされたのは、無惨な姿になった商品だった。
「な、なんだこれは……!?」
粗悪な小麦粉。萎びて変色した野菜。腐敗し、異臭を放つ肉。それを見た市場の卸売業者が怒号を上げる。
「ふざけるな! こんなゴミが売り物になるかッ!!」
「待ってくれ! 東部を出たときは良い状態だったんだ! だが街道の途中で……」
会頭は青ざめた顔で弁明した。彼らが直面したのは、想像を絶する技術とインフラ整備の壁。
これまでのコールマン商会は、全荷馬車に『冷却保存の魔道具』を完備し、生鮮食品を鮮度そのままに輸送していた。
だがそれらは全て、コールマン商会本店に所属する大陸最高の錬金術師が開発し、特許を持つ独自技術。コールマン商会が王国から撤退したことで、魔道具も全て回収されていた。
結果、中小商会の旧式な荷馬車では、長距離移動の間に商品が傷んでしまうことに。
「それに、時間がかかりすぎだ! コールマンなら二日で届いたぞ!」
「あそこは街道の整備費も負担していたんだ! そこまで出来るかよ!?」
コールマン商会は王国における街道の整備費を負担する代わりに、通行税を免除される特権契約を結んでいた。
その巨大資本が抜けた今、街道の整備は放棄され、さらには小銭稼ぎに走る役人の検問が、物流の速度を致命的に低下させていた。
さらに悲劇は続く。
別の商会の代表が、包帯だらけの姿で会議室に駆け込んできたのだ。
「ひ、酷い目にあった……!」
「どうした、積み荷はどうした!?」
「全部奪われた! 賊だ!」
会議室が凍りつく。
「護衛は!? 冒険者を雇っていたんだろう!?」
「雇ったさ! だが……奴ら、賊の数を見るなり逃げ出しやがった! 『割に合わない』ってな!」
これまで王国の街道が安全だったのは、『コールマン傭兵団』が定期巡回し、山賊や魔物を駆除していたから。いわば商会が「治安」という公共サービスを肩代わりしていたに過ぎない。
その抑止力が消えた今、街道は無法地帯と化しつつある。護衛を雇おうにも、傭兵たちの賃金は高騰し、中小商会の資金力では十分な数を揃えられない。
「リスクが高すぎて、輸送費を上げざるを得ない……」
「しかしそんな値段では、誰も買わないぞ……」
彼らはようやく理解した。
ワイズ・コールマンが提供していたのは、単なる運び屋としての機能ではない。
道路整備、治安維持、保存技術、保険制度、そして圧倒的な物量によるコストダウン。それら全てをパッケージ化した、高度な物流インフラそのものを提供していたのだと。
そのインフラが消滅した荒野を、裸同然の馬車で行く。
それはもはや商売ではなく、無謀な賭けでしかなかった。




