第18話
「……げ」
ワイズ・コールマンの口から漏れたのは、そんな短く、かつ心底嫌そうな一音だけだった。
そのあからさまな動揺っぷりに、事情を知らないミナが目を丸くした。
彼女の知るワイズは、いついかなる時も不敵な笑みを浮かべ、理路整然と相手を論破する鉄の男だ。
こんな風に、露骨に嫌そうな顔をして狼狽える姿など見たことがない。隣にいたベルナルドも、幽霊でも見たかのように口をあんぐりと開けている。
だが二人の統括支店長、ヘンドリックとソフィアだけは違った。ワイズの過去を知る彼ら二人は同時に天を仰ぎ、額に手を当てていた。
しかしワイズの動揺はほんの一瞬。
瞬き一つする間に、彼は乱れかけた表情を完璧に統制し、いつもの営業スマイルを顔に貼り付け直した。背筋を伸ばし、ジャケットの襟を正す。
その所作は流れるように優雅で、どこからどう見ても礼儀正しい商人のそれだ。
「お久しぶりです、シグルド殿下。……まさかこのような場所で、帝国の至宝たる第一皇子殿下にお目にかかれるとは。本日はどのようなご用件で?」
ワイズは慇懃無礼に頭を下げた。だが対するシグルド皇子は、そんなワイズの演技じみた立ち直りを見て、楽しげに喉を鳴らした。
その蒼い瞳は、ワイズが必死に取り繕った仮面の裏にある「面倒くさい男に会ってしまった」という本音を完全に見透かしている。
「つれないな、ワイズ。感動の再会だろう? 卒業以来か」
「……そうですね。殿下におかれましては、ご健勝のようで何よりです。では私は急用がありますのでこれに――」
「まあ待て。積もる話がある」
シグルドは逃がさないと言わんばかりの重みを持って、親しげにワイズの肩に手を置いた。
「白々しい挨拶はよせ。それに、そんな堅苦しい敬語もなしだ。……学生時代の友人に、他人行儀だろう?」
そう言って笑うと、シグルドはその視線をワイズの背後、コールマン商会の面々へと向けた。
「やあ、ヘンドリック。息災かな? 相変わらず眉間の皺が深いようだ」
「……殿下もお元気そうで。この皺の半分は、学生時代の貴方様が刻んだものですが」
「ははっ、手厳しいな」
軽口を叩き合う二人を見て周囲がざわめく中、シグルドは次にソフィアへと視線を向けた。
先ほどまでの軽い調子とは打って変わり、そこには為政者としての真摯な敬意が宿っている。
「そして、ソフィア・ランバート。君も元気そうで何よりだ」
「はい、殿下。お久しぶりですわ」
「いつも我が帝国の経済を支えてくれていることに感謝する。特に先の北方遠征においては、貴女の迅速な物資手配のおかげで、兵站の不安なく進軍できた。……前線の将兵を代表して礼を言うよ」
「もったいないお言葉です」
ソフィアが優雅にカーテシーを返す。
皇族からの実務者への労い。その一言だけで、この場の空気が一変した。この男は、ただ血筋が良いだけの飾りではない。世の中の仕組みを理解している真の支配者だ。
シグルドは満足げに頷くと、最後にワイズの背後に控える銀髪の美女――ミナへと向き直った。
「そして君が、噂の『朱き災厄』か。コールマン商会に在籍しているとは聞いていたが。実物は肖像画よりも遥かに美しい」
「……恐縮です」
「どうだ、ミナ・リンスリー。こんな金の亡者よりも、僕の下に来ないか? 近衛騎士団の副団長のポストと、帝都の一等地に屋敷を用意しよう」
皇族からの、直々のスカウト。
だがミナが口を開くよりも早く、横合いから静かな、しかし氷のように冷徹な声が割り込んだ。
「お断りします」
ワイズは声を荒らげることも、表情を崩すこともない。ただ淡々と、商談における決定事項を伝えるかのように告げた。
「残念ですが殿下。彼女は非売品です。いかなる好条件を提示されようとも、交渉のテーブルに乗せるつもりはありません」
「ほう? そちらの言値で良いと言ってもか?」
「ええ。世界中の金貨を積まれたとしても」
即答だった。一瞬の迷いもないその拒絶に、ミナがわずかに目を見開き、主人の背中を見つめる。
シグルドはワイズの瞳をじっと覗き込み――やがて、可笑しそうに肩を揺らした。
「はははッ! 冗談だよ、ワイズ。君がそこまで必死になるとは思わなかった」
「……殿下」
「すまない、すまない。他人の大事な宝物に手を出すほど、僕は野暮じゃないさ」
「……優秀な人材を囲い込むのは、経営者の基本ですから」
「違いない」
シグルドは両手を上げて降参のポーズを取る。
「驚かせてすまなかった。……こいつとはアカデミー時代、腐れ縁でね。僕が生徒会長で、こいつが会計。二人で学園中の予算を握って、教師や貴族の子供たちを相手に随分と派手な立ち回りをしたものだ」
「……私が予算をなんとかやりくりして、殿下がそれを湯水のように浪費する、の間違いでしょう」
ワイズが忌々しげに訂正する。
かつて帝国の最高学府、アカデミー時代。表舞台に立つつもりが無かった苦学生のワイズだったが、ひょんなことからその運命は変わる。
当時生徒会長だったシグルドに偶然その才覚を見初められ、無理やり生徒会役員に任命された。
それからは地獄の日々。シグルドが思いつく奇想天外で大規模な改革案を実現するために、ワイズは裏で駆けずり回り、金の工面をし、根回しをし、尻拭いをさせられ続けたのだ。
「あの時の苦労を思えば、商売でのやり取りなんてお遊戯に見えますよ」
「ははッ! 最高の褒め言葉だ。……さて、立ち話もなんだ。場所を変えようか」
シグルドは流れるような動作で踵を返した。
「ちょうどいい、最上階のスイートが空いているそうだ。そこでお茶でもどうだい?」
「……誰のせいで空いたと思っているんですか」
ワイズは深いため息をつくと、諦めたように肩を落とした。どうやら、この天敵からは逃げられそうにないらしい。




