第17話
帝国・交易都市ガルディア、ホテル『インペリアル・クラウン』。
昨晩の熱気が嘘のように、最上階のスイートルームは静寂に包まれていた。個性的な支店長たちは、すでにここにはいない。
「ベルタは夜明けと共に港湾都市へ出立。シェリーは貴族街へ。ギガルは商談相手の工房へ向かいました」
帝国統括支店長ソフィアが、手元のスケジュール帳を確認しながら報告する。
「相変わらず、行動が早いな」
ワイズは窓の外を見下ろした。眼下の街路では、すでに商会の馬車やスタッフたちが蟻の行列のように動き回っているのが見える。
その様子を満足げに眺めながら、彼はコーヒーを一口飲んだ。
現在、この部屋に残っているのはワイズと秘書のミナ。そして二人の統括支店長であるヘンドリックとソフィアのみだ。
この街の支店の責任者であるベルナルドは所用で席を外している。
「それでヘンドリック。例の件はどうなっている?」
「はい。ちょうど先ほど、王都から速報が入りました」
王国統括支店長ヘンドリックが、一枚の報告書をワイズに手渡す。そこには、勇者たちが敗走したことが簡潔に記載されていた。
「王国最南端の防衛線が崩壊。勇者一行は敗走し、第二防衛ラインまで後退したとのことです」
その報告を聞いても、室内の誰一人として驚きはない。
「……思っていた以上に脆かったな」
ワイズはカップをソーサーに戻し、何の感慨もなさそうに呟いた。
「物資が尽き、武器が折れ、心が折れる。……当然の帰結か」
「勇者様が喚き散らしている姿が目に浮かびます」
ソフィアが冷ややかな笑みを浮かべて肩をすくめる。
「実際、その通りだそうです。現地からの報告によれば、勇者の権威は地に落ち、兵士たちの士気は最悪。……このままいけば、王国の防衛網が瓦解するのは時間の問題かと」
「完全に瓦解されても困るのだがな。さて、どう動いたものか」
ワイズはソファに深く沈み込み、次の一手を思案し始めた。
頃合いを見て、帝国政府と共に王国へ救済を持ちかけるか。あるいは、もう少し王国が追い詰められるのを待つか。
その時だった。控えめなノックと共に、ガルディア支店長ベルナルドが、一人の男を連れて部屋に入ってきた。
男は高級な燕尾服に身を包んでいるが、その額には玉のような脂汗が浮かび、顔色は蒼白。
このホテル『インペリアル・クラウン』の総支配人だ。彼と共に部屋へ戻ってきたベルナルドも浮かない表情をしている。
「……お取り込み中、誠に申し訳ございません。コールマン会長」
総支配人は、緊張した面持ちで深々と頭を下げた。明らかにおかしい様子を見たワイズは、ヘンドリックやソフィアの方を確認する。だがどうやら彼らも思い当たる節はないらしい。
ひとまずは支配人本人の話を聞くことにしたワイズは、彼に尋ねた。
「どうされました?」
「……その……大変申し上げにくいことなのですが……」
言葉を濁し、ワイズの顔色を伺う総支配人。その様子にワイズは片眉を上げた。旧知の仲であるホテルの責任者がここまで萎縮し、かつ何かを言い淀んでいる。これはただ事ではない。
「はっきり言ってください。商人は時間を無駄にするのを嫌います」
「は、はいッ! ……実は……この最上階のスイートルームを、空けていただくわけにはいかないでしょうか……?」
室内の空気が一瞬にして凍りついた。
ワイズの背後に控えていたミナの瞳が細まり、ヘンドリックとソフィアが呆れたように顔を見合わせる。
「……理由を聞かせてもらえますか? 何があったのです?」
「それが……」
総支配人は周囲を警戒するように声を潜めて告げた。
「帝都より……急遽、とある『貴人』がこのガルディアにお忍びで視察にいらっしゃることになりまして……。ご本人の強い希望で、どうしてもこのホテルの、この最上階でなければならないと……」
「貴人?」
「はい。……私の口からは名前を申し上げられませんが、帝国の紋章を背負う、雲の上の方です」
その言葉にワイズは察した。
帝国の紋章。雲の上。
つまりは皇族だ。
ここは帝国の皇帝直轄領となる交通の要衝。そこに皇族が、このタイミングでお忍びで来る。
(……面倒なことになったな)
ワイズは商売人だ。無駄なプライドで権力者と衝突し、ビジネスに支障をきたすような真似はしない。相手が皇族となれば、ホテル側も断れるはずがないのだ。
ここは素直に引いて、ホテルに貸しを作った方が得策だろう。
「……なるほど、事情は分かりました」
ワイズはわざとらしく、深いため息をつきながら続けた。
「仕方がないですね。我々は紳士的な客でありたい。その要請を受け入れましょう」
「ありがとうございます……ッ!! コールマン会長の寛大なお心に、感謝いたします」
総支配人がほっとした様子で頭を下げる。
「その代わり、分かっていますよね?」
「もちろんでございます!」
「ではまた別の機会を楽しみにしています。……ミナ、ヘンドリック。撤収だ。荷物をまとめて、商会の別邸へ移動する」
「承知いたしました」
ミナが手際よく荷造りを始め、他の面々も席を立つ。予定外の移動だが、ワイズに焦りはない。むしろ皇族が来るという情報を得られただけでも儲けものだ。
誰が来るのかは知らないが、情報がない状態で不意に関わることは避けた方が無難なだろう。特に情勢がきな臭いこの時期には。
ワイズたちはさっさとこの場所を離れることにした。
・ ・ ・
数十分後。慌ただしくチェックアウトを済ませたワイズたちは、ホテルの正面エントランスへと向かう。
だがすでにロビーは異様な雰囲気に包まれていた。普段は柔和なホテルマンたちが緊張した面持ちで動き回り、その間を鋭い目つきをした男たち――明らかに軍の警護兵――が固めている。
「……物々しいですね」
アタッシュケースを持ったミナが、警戒するように周囲を見回す。
「ああ。これは本当に大物が来るらしい。……面倒ごとに巻き込まれる前に退散しよう」
エントランスの向こうには、すでにランドルフが回した迎えの馬車が待機している。あと数メートル。回転扉を抜ければすぐそこだ。
だがワイズが回転扉に手をかけようとした、その瞬間だった。
外からホテルのエントランス前に、黒塗りの最高級馬車が滑り込んできたのが見えた。同時に、警護兵たちが一斉に敬礼の姿勢を取る。
「到着されました!」
「総員、最敬礼ッ!!」
扉が開くと、一人の青年が優雅に降り立った。
透き通るような金の髪。宝石のような蒼い瞳。そして誰もが思わずひれ伏したくなるような、圧倒的な高貴さと知性を纏った美青年。
その口元には見る者を魅了し、同時に底知れぬ恐怖を感じさせるような、不敵な笑みが張り付いている。
そんな彼を見た瞬間、ワイズの足が止まった。
同時に彼の方も、ワイズの存在に気づいた。
「おや。こんなところで会うとは奇遇だね、ワイズ」
「……げ」
帝国の第一皇子、シグルド・フォン・エル・スヴェルガルド。
ワイズが帝国のアカデミーで学んでいたどん底の苦学生時代。彼を散々振り回し、渋るワイズに生徒会活動を強制してきた天敵にして、この世で最も関わりたくない元同級生が、そこに立っていた。




