第9話:老臣たちの圧力
第9話:老臣たちの圧力
「当主様! 朝倉様からの使者をお追い返しになるとは、一体いかなるご思案にございますか!」
怒号のような声が、小谷城本丸の奥書院の静寂を激しく打ち破った。
重々しい足音が長廊下を鳴らし、襖が蹴立てられるようにして押し開かれた。
入ってきたのは、浅井家の筆頭宿老・赤尾美作守清綱を先頭に、海北若狭守綱親、遠藤直経ら、家臣団の重鎮たちであった。
赤尾清綱の顔は怒りで赤黒く紅潮し、腰の脇差の鞘を鳴らしながら、威圧的な足取りで部屋の中央へと踏み込んできた。
書院の文机の前には、当主である浅井長政が静かに座していた。
長政は突然の無礼な乱入に対しても怒りを表に出さず、ただ膝の上で固く拳を握りしめ、重臣たちの荒々しい視線を正面から受け止めていた。
「赤尾殿、海北殿。事前の触れもなく奥書院へ押し入るとは、いささか無礼が過ぎるのではないか」
長政の声は低く、抑えの効いたものであった。
しかし、赤尾清綱は鼻で笑うようにして袖を払い、畳を踏み鳴らした。
「無礼はお許しくだされ! しかしながら、越前朝倉家より遣わされた使者殿を、門前で追い返されたと聞き及んでは、我ら宿老、黙っているわけには参りませぬ! 織田家から姫を迎えたからとて、朝倉様との誼を無下にするなど、あまりにも無謀! 一体、何を考えておられるのですか!」
隣に並び立つ海北綱親もまた、顔を歪めて激しい言葉を重ねた。
「然り! 朝倉様は、祖父・亮政様、父・久政様の代より、我が浅井家が窮地に陥るたびに助けの手を差し伸べてくださった大恩あるお方! 朝倉様からの使者を無下に扱えば、越前との同盟は破綻いたしますぞ! 当主様は、北近江を戦火に包むおつもりか!」
重臣たちの詰問は、怒涛のような勢いで長政へと浴びせかけられた。
長政は眉根を固く寄せ、静かに、しかし筋の通った言葉で反論を試みた。
「……落ち着かれよ、赤尾殿、海北殿。朝倉家からの使者を退けたのは、織田兄上との同盟がなったばかりの今、無用な誤解を生まぬためだ。織田と結び、南の六角の脅威を退けたばかりのこの時に、越前と密かに過剰なやり取りを行えば、織田兄上の不信を招く。今は織田家との同盟を固め、領内の安寧を第一とすべき時である」
「戯れ言を!」
赤尾清綱が文机を激しく叩いた。ぱぱんと重い音が室内に響き渡る。
「織田弾正忠などという尾張の成り上がりと結んだところで、何の頼りになりましょう! 織田は自らの野心のために我が家を利用しているに過ぎん! 我が浅井家が今日あるのは、ひとえに朝倉様との三代の恩義があってこそ! 織田との同盟のために朝倉様を切るなど、本末転倒にございます!」
「赤尾殿……!」
長政の顔に、苦渋が色濃く広がった。
長政は知っていた。信長が進める楽市楽座や兵農分離、直轄地支配がいかに先進的であり、浅井家が生き残るための唯一の道であることを。
しかし、赤尾や海北ら面々は、自らの領地と兵を抱える領主たちの頭目である。彼らが一斉に反旗を翻せば、当主である長政の権威など一瞬にして吹き飛んでしまうのだ。
海北綱親が、一歩身を乗り出し、長政を射抜くような冷たい眼光を向けた。
「当主様。お忘れなくお頼み申し上げますぞ。北近江の武者どもが従っているのは『浅井の家』であり、朝倉様との『三代の恩義』を守る当主様にございます。もし当主様が朝倉様との誓いを捨て、織田に従属されるとお仰るなら……我ら家臣団とて、相応の覚悟を持たねばなりませぬ」
「相応の覚悟……だと……?」
長政の声がかすかに震えた。
「然り。父・久政様が六角に従属しようとされた折、我ら家臣団がどのような裁定を下したか……当主様もお分かりのお立場でありましょう」
脅迫であった。
父・久政を強制的に隠居へ追い込んだ過去を引き合いに出し、「朝倉を切るなら、お前を廃嫡し、弟を当主に据えてでも朝倉につく」という、露骨な主取り替えの予告であった。
長政は唇を強く噛み締め、血が滲むほどに拳を握りしめた。
当主でありながら、己の意思を通すことができず、重臣たちの脅迫の前に膝を屈せざるを得ない屈辱と無力感。長政の肩が、重圧によって痛々しく落ちていった。
その時であった。
書院の脇にある控えの間の襖が、静かに開けられた。
姿を現したのは、お市であった。
朱色の小袖に身を包んだお市は、お茶を載せた盆を侍女のすずに持たせ、静かな、しかし凛とした足取りで室内に足を踏み入れた。
重臣たちの視線が一斉にお市へと向けられる。「織田の姫」に対するあからさまな不快感と警戒の色が走った。
「お市様……なぜ、このような場所に……」
長政が驚いて顔を上げると、お市は長政に対して優しく微笑みかけ、続いて重臣たちに向き直った。
「長政様にお茶をお届けに参りましたところ、廊下まで大層なお声が響いておりましたゆえ、案じて入ってまいりました」
お市は寸分の隙もない美しい所作で会釈を執ると、赤尾清綱の顔を真っ直ぐに見つめた。
「赤尾殿、海北殿。当主様に対して『大義』や『朝倉様への恩義』を説かれるお姿、真に熱誠なるものとお見受けいたしました」
赤尾清綱は、お市の言葉に嫌味を感じ取ったのか、不機嫌そうに鼻を鳴らし、袖を払って視線を逸らした。
「ふん……織田から嫁がれたお市様にはお分かりになられますまい。我が浅井の家と朝倉様との結びつきは、そこらの浅はかな同盟とはワケが違うのでございます。我らは忠節のために命を賭けているのでございます」
「忠節、でございますか」
お市はふっと冷たい笑みをたたえた。
その瞳に宿る、氷のように研ぎ澄まされた知性と圧力。
(笑わせないで……)
お市の中で、前世で培った冷徹な観察が、重臣たちの欺瞞を見事に見抜いていた。
さきにお市が解読した過帳の記録、関所の脱税、そして老臣たちの屋敷に運び込まれる莫大な「特別の荷」。
彼らが叫ぶ「三代の恩義」などという格好のついた大義名分。その仮面の下に隠されているのは、朝倉家から個人的に与えられている関銭免除の塩や鉄、無秩序な裏金という生々しい私益に過ぎないのだ。
彼らが朝倉を切れない本当の理由。それは、朝倉との関係が絶たれれば、自分たちが私腹を肥やすための「密かな荷の道」が完全に閉ざされ、巨額の不当利益を失うからなのだ。
(大義名分を声高に叫ぶ人間ほど、隠したい本音の醜悪さを覆い隠している。……あなたたちが恐れているのは、浅井の家の未来ではなく、自分たちの利得が途絶えることでしょう?)
お市は声には出さず、ただその冷酷な真実を瞳の奥に込めて、赤尾清綱を射抜くように見つめ返した。
赤尾はお市の隙のない眼光に、なぜか背筋に冷たいものが走るのを覚え、思わず視線を泳がせた。嫁いできたばかりの若い姫であるはずなのに、まるで己の腹の底の暗部をすべて見透かされているかのような、不気味な恐ろしさを感じたのだ。
お市は静かな声で言った。
「当主様は、浅井の家と領民の未来を深く案じておられます。お議論を重ねられるのは結構でございますが、くれぐれも当主様へのお無礼や、過度なお脅しはお控えくださいますよう」
気品に満ちながらも、絶対に退かぬ威圧感。
海北綱親が苦々しい顔で舌打ちをし、立ち上がった。
「……当主様。本日はこれで失礼いたします。しかしながら、我らの申したこと、くれぐれもお忘れなきよう」
重臣たちは捨て台詞を残すと、お市を苦々しく睨みつけながら、足早に奥書院を辞していった。
宿老たちの荒々しい足音が遠ざかり、室内に静寂が戻った。
長政は深いため息をつき、両手で顔を覆った。
「……市。見苦しいところを見せたな。俺は……あの者たちを力で抑え込むことができぬ。当主でありながら、情けない限りだ……」
長政の声には、激しい疲弊と自責の念が滲んでいた。
お市はお茶の盆を文机の上に置くと、長政の傍らに静かに腰を下ろした。
そして、顔を覆う長政の無骨な手を、己の細く温かな手で優しく包み込んだ。
「長政様。ご自分を責めてはなりませぬ。あなたが無力なのではありません。あの者たちが、異常なまでの私益に固執しているだけなのです」
長政が顔を上げ、濡れた瞳でお市を見つめ返した。
「市……」
「私は、確信いたしました」
お市は長政の目を真っ直ぐに見つめ、力強く囁いた。
「赤尾殿や海北殿が叫ぶ『朝倉への義理』など、ただの偽りです。彼らが朝倉家に執着しているのは、越前朝倉家から個人的に送られる塩や米、鉄、そして金銭の利益を守りたいからに他なりません。彼らは、自らの私腹のために、あなた様を『義理』という言葉で脅しているのです」
「私腹の……利益……」
「ええ。私はさきに関所の過帳と彼らの屋敷の財の増え方を照合し、彼らが関所を無税で素通りさせていた『特別の荷』の存在を突き止めました。彼らは朝倉からの不当な利益で私腹を肥やし、浅井の家を食い物にしておるのです」
長政は息を呑んだ。お市の口から出た言葉は、単なる推測を超えた、揺るぎない道理の確証であった。
お市は長政の手を強く握りしめ、凛とした眼差しで告げた。
「長政様。老臣たちを黙らせ、彼らの脅迫を打ち砕くためには、彼らが朝倉家と直接交わした『物証』が必要です。彼らが受け取っていた不当な記録、密約の誓約書――」
「そのようなものが……どこにあるというのだ?」
「小谷城の奥深く……長らく使われておらぬ、城の古い公文書の蔵です」
お市はそっと微笑み、長政に顔を寄せた。
「長政様。私に、もう一日だけお時間をください。私が必ず、その古い文庫蔵を探し出し、老臣たちの息の根を止める『不義の帳簿』を引きずり出してみせます」
長政はお市の顔を食い入るように見つめた。
お市の瞳に宿る、揺るぎない知性と覚悟。長政の胸の奥から、諦めかけていた闘志が、熱い炎となって再び燃え上がっていった。
「市、頼んだぞ」
「はい、長政様」
二人は固く手を握り合い、視線を深く重ね合わせた。
長政の手の温もりが、お市の指先から胸の奥へと静かに伝わってくる。
お市は長政に向かって静かに微笑むと、手元にあるそろばんをそっと小袖の懐へ収めた。
夜の冷気が、書院の格子戸を静かに撫でていくだけであった。




