第10話:裏帳簿の発見
第10話:裏帳簿の発見
掌の上に横たわる鉄の和鍵は、ずっしりと重く、秋の夜気を吸い込んで凍てつくように冷たかった。
黒ずんだ和鉄の表面には細かな鍛え傷が残り、鍵頭には古風な蔓草の文様が彫り込まれていた。
小谷城の奥御殿、お市の自室を行灯の小さな灯火が静かに照らしていた。
お市はその鉄の鍵を指先でじっと撫で、文机の上に広げられた鍵束を見つめた。
さきに夫・浅井長政から授かった『奥向き差配』の許状に添えられていた、奥御殿ならびに城内の古い蔵を開くための蔵々の鍵束。その中に一つだけ、どこの蔵の物とも知れぬ、用途の記されていない古びた鉄の鍵が混ざっていたのだ。
(この鍵が開ける場所……そこに、浅井家と朝倉家が交わしてきた古い文記が眠っているはずよ)
お市の中で、前世で培った知性と冷徹な直感が、静かに胸を打っていた。
さきに掴んだのは、老臣たちの屋敷にある不自然な白壁の蔵と、関銭を免れて素通りしていた「特別の荷」という不当な脱税の事実であった。
だが、彼らを評定の間で引きずり下ろし、当主・長政の権威を取り戻すためには、老臣たちが朝倉家から直接物資を受け取っていたという、言い逃れのできぬ証文が絶対に必要であった。
お市は小袖の袖をたすきがけで固く引き締め、部屋の外へ向かって低く手招きをした。
「すず。これへ入るのです」
襖が静かに開かれ、気配を殺したすずが室内へ滑り込んできた。すずの顔は緊張でこわばり、その大きな目を不安そうに泳がせていた。
「お、お市様……夜も更けてございます。このような刻限に、一体何をなさるおつもりで……」
「すず。さきにそなたが教えてくれた、あの場所へ向かいますよ」
「あ……あの場所、でございますか……!?」
すずは息を呑み、両手を口に当てて小刻みに震えた。
「あ……『旧文庫蔵』でございますか!? あそこは、祖父の亮政様や久政様の時代の公文書が納められたままで、城の者も滅多に近づかぬ不気味な場所にございます……! お方様が夜分にお忍びになるなど……!」
「だからこそ、人が近づかぬのです。静かに行きますよ。行灯の火を小さくしなさい」
お市の声音には、一切の迷いがなかった。すずはお市の揺るぎない眼光に気圧され、固く口を結ぶと、深く頷いて小さな行灯を手にした。
深夜の小谷城は、死んだような静寂に包まれていた。
風が小谷山の木々を揺らし、ざざ……と笹鳴りのような不気味な音を立てている。
お市とすずは、長廊下に配された警護の武者たちの目をかいくぐり、奥御殿の最西端――山肌が急峻に迫る暗がりへと足を進めた。
そこは、切り立った岩壁を背にして建てられた、古びた土蔵が佇む場所であった。
浅井家の古い公文書を収める「旧文庫蔵」と呼ばれる場所である。長年、人の手が入っていないため、蔵の周囲には竹林と背の高い秋草が生い茂り、湿った土と腐葉土の匂いが立ち込めている。土壁の白喰は剥げ落ち、分厚い扉には重々しい唐金の鉄錠が取り付けられていた。
「ここですね……」
お市は草をかき分け、土蔵の扉の前に立った。
すずが行灯の火を寄せると、唐金の鉄錠の鍵穴が、暗闇の中にぼんぼりと浮かび上がった。
お市は懐から、あの黒ずんだ鉄の和鍵を取り出した。
掌の汗で湿った鍵を、慎重に鉄錠の鍵穴へと差し込む。
かちり、と硬く冷たい金属音が、夜の静寂を静かに切り裂いた。
お市が指先に力を込めると、長年動かされていなかった鍵の仕掛けが、ぎぎ……と軋み声を上げて回った。
ぱかん、と音を立てて鉄錠が外れた。
「あ……開きました……!」
すずが歓喜と緊張の混ざり合った声を上げた。
お市は重々しい土蔵の扉に手をかけ、押し開けた。
ぎいい……と長いきしみ音が響き、蔵の奥から、数百年の埃とカビ、そして古い和紙と墨の濃厚な香りが吹き出してきた。
行灯の淡い光を頼りに、お市は蔵の奥へと足を踏み入れた。
埃の積もった床の奥、頑丈なケヤキの棚の上に、一つの黒漆塗りの文箱が鎮座していた。
文箱の表面には細やかな蒔絵が施されており、浅井家の記録を納める箱であることが一目で分かった。
お市は息を殺し、そっと文箱の蓋を持ち上げた。
行灯の光が文箱の内部を照らし出す。
そこに収められていたのは、埃を被った数冊の和紙の帳面と、折られたままの白い越前奉書紙の束であった。
お市は一番上にある奉書紙をそっと手にとり、広げた。
紙の末尾に記された、鮮やかな朱色の印章と黒々と躍る花押――。
(……朝倉義景の花押……!)
お市は目を見開いた。
間違いなく、越前国主・朝倉義景本人の自筆による、浅井家への「割当書状」であった。
すずが重々しい黒漆の文箱を両手でしっかりと抱え込み、お市が行灯を手にして、二人は目配せを交わした。
「すず、文箱を回収しました。直ちに部屋へ戻りますよ」
「は、はいっ!」
二人は足早に旧蔵を離れ、影のように暗がりを潜り抜け、奥御殿の自室へと無事に戻りついた。
自室の襖を固く閉め、行灯の火を強く灯した。
お市は文机の上にすずが運んだ黒漆の文箱を置かせ、中に納められていた和紙の帳面と書状を慎重に広げた。
冊子の表題には、かすれた墨でこう記されていた。
『越前・北近江同盟物資割当手形留め』――。
この文書そのものは、決して秘密裏に隠された悪事の手控えではない。祖父・亮政や父・久政の代から、朝倉家が浅井家という「組織全体」へ贈っていた、公的な支援の記録として文庫蔵に収められていたものなのだ。長政も周囲の家臣たちも、これを単なる「昔からの有難い支援の記録」としか認識していなかった。
お市は文箱から木製のそろばんを取り出し、膝の上に置くと、さきに解読した『家臣知行留め』や『関所過帳』の控えを横に並べ、和紙の一行一行を照合し始めた。
すずもお市の傍らにひざまずき、息を呑んで紙面を見つめた。
そして、お市がそろばんの玉をぱちぱちと弾き、数字を突き合わせていくにつれ――この公的な記録の裏に隠された、恐ろしい「数字の偽り」が白日のもとに浮かび上がってきたのだ!
「永禄八年……朝倉家より浅井家へ下された塩、年間一千俵、鉄百貫……。だが、浅井家の公的な出納帳に記録されている受領量は……塩百俵、鉄十貫……!?」
お市が声に出して読み上げると、すずが息を呑んだ。
「え……? 朝倉様からは一千俵も下されているのに、浅井家の帳簿には百俵しか入っていないのでございますか……!?」
「……ええ、そうなのです」
お市の指先が、そろばんの上を激しく駆け巡る。
朝倉義景の書状には、浅井家全体に一千俵の塩と莫大な鉄、金銭を授けると明記されている。しかし、小谷城の公的な出納帳には、その一割程度しか入金・入庫が記録されていない。
では、残りの九割――九百俵の塩と九十貫の鉄、そして巨額の金銭は、一体どこへ消えたのか。
お市は『北国街道過帳控え』で判明した「老臣たちの特別の荷」の数量と、この朝倉家の割当手形を正確に照合した。
答えは、寸分違わず一致した。
消えた九割の物資と裏金は、浅井家の公的な金蔵へ入る前に、赤尾清綱や海北綱親ら老臣たちが関銭を免れて素通りさせ、すべて彼ら個人の屋敷の蔵へ直接流し込まれていたのだ!
さらに、朝倉義景の書状には、次のような事務的な割当文案が添えられていた。
『右の物資、北近江の諸将(赤尾・海北ら)において直接受け取り、領内の差配に充てるものなり』
「な……なんという……なんということでしょう……!」
すずが青ざめ、両手で顔を覆って震え上がった。
「朝倉様は『浅井家への支援』という名目で物資を送り……老臣様方はそれを浅井家の公金に入れず、自分たちの懐へ直接入れ込んでおられたのですか……! これでは……表向きは公的な支援でありながら、実態は老臣様方個々人への『巨額の買収』ではございませぬか……!」
すずの言葉通りであった。
老臣たちが叫んでいた「浅井三代の朝倉への義理」という格好のついた大義名分。その建前の裏にあったのは、ただの不当な着服と私腹であったのだ。
彼らは朝倉家からの公的支援を私物化し、浅井家に入るべき莫大な富を自分たちの私腹に溜め込んでいた。
だからこそ、彼らは自分たちの利益が途絶えることを恐れ、長政が織田と同盟を結ぶことを拒み、「義理」という言葉で長政を脅迫し、当主追放の圧力までかけていたのだ。
お市はふっと、小さく震えるような笑みを浮かべ、目元に涙を浮かべた。
胸の奥で激しく弾けたのは、前世の知性がもたらす解読の快感と、ひとりの妻としての震えるような歓喜であった。
しばらくその余韻に身を委ねたあと、お市は静かに目元を拭い、再び紙面に視線を落とした。
その瞳には、安堵の熱を帯びながらも、すでに氷のように研ぎ澄まされた知性が宿っていた。
(解けたわ……。謎が、すべて一つにつながったわ……!)
堂々と公文書として納められていたからこそ、誰の目にも止まらなかった数字の罠。
それを、自らの計算と知性で解読したからこそ暴かれた、動かぬ真実。
浅井長政は裏切り者などではない。この老臣たちの巨大な着服と買収のからくりによって手足を縛られ、一人で苦しんでいた被害者なのだ!
お市は『越前・北近江同盟物資割当手形留め』と朝倉義景の書状を、両手で強く抱きしめた。
和紙の重みが、掌にずっしりと伝わってくる。
(長政様は、裏切り者なんかじゃない……! 浅井家を食い荒らしていたのは、この古き家臣どもだったのだわ!)
公的文書でありながら、老臣たちの私的横領を徹底して証明するこの一冊こそ、老臣たちの息の根を止め、長政を絶望の淵から救い出すための、強固な「切り札」なのだ。
すずがお市の神々しいまでの美しさに息を呑む中、お市は文書を胸に抱き、静かに立ち上がった。
窓の外、東の空がゆっくりと白み始め、小谷山の山嶺が朝焼けの深い朱色に染まり始めていた。
お市は凛とした佇まいで朝焼けを見つめ、静かに呼吸を整えた。
小谷城の朝風が木格子を吹き抜け、文机の上の和紙を優しく揺らしていた。




