↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
11/60

第11話:割当帳の真実

第11話:割当帳の真実


 冷たい秋雨が、小谷城の本丸を覆う黒ずんだ杉の梢を細かく叩いていた。

 清水谷から立ち上る雨煙が山肌を白く煙らせ、奥御殿の濡れた屋根瓦からは、絶え間なく雨垂れの音が響いている。

 お市の自室は、早朝からすべての障子が固く閉ざされ、行灯の揺れる火影だけが室内を明るく照らし出していた。

 文机の上には、さきに『旧文庫蔵』から手に入れた黒漆塗りの文箱が置かれ、その中から取り出された和紙の冊子『越前・北近江同盟物資割当手形留め』と、朝倉義景からの直筆書状が整然と並べられていた。

 室内には、侍女のすずが静かに擦る墨の香りと、雨気を含んで湿り気を帯びた古い和紙とカビの濃厚な匂いが満ちていた。

 お市は小袖の袖をたすきがけで引き締め、文箱の傍らに置いた木製の算具――そろばんの冷たい算珠に指先を添えた。


「すず。今日も長い作業になりますよ。雨の音に紛れて、一文字、一行も逃さず読み解きます」

「はい、お市様。墨の準備は整っております!」

 すずは力強く頷き、新しい美濃紙を文机の上に広げた。


 さきにお市が解読したことで判明したのは、朝倉家から浅井家へ下されていた援助という名目の物資のうち、実に九割以上が浅井家の公金に入らず、赤尾清綱や海北綱親ら老臣たちの私的な屋敷へ直接流し込まれていたという不当な事実であった。

 だが、お市はそこで満足しなかった。

 前世で培った知性が、お市に更なる問いを突きつけていたのだ。

(なぜ、老臣たちはこれほどまでに朝倉家へ逆らえなくなったのか? 単に金に目が眩んだだけではない……。この物資の割当には、年号ごとの変化が存在するはずよ)

 お市は『越前・北近江同盟物資割当手形留め』の最初の一頁――永禄三年まで遡り、紙面を食い入るように見つめた。

 永禄三年。それは、浅井家が南の六角義賢の大軍を野良田の戦いで破り、父・久政から若き長政へ当主の座が移った、浅井家にとって大きな転換の年であった。


「すず、永禄三年からの数字を、年号ごとに書き出していきなさい」

 お市が静かな声で促し、そろばんの玉をぱちぱちと素早い手つきで弾き始めた。

「永禄三年……朝倉家より浅井家へ下された塩、年間二百俵。鉄二十貫。金五十貫……」

「はい、書き留めました」

「この年の記録を見る限り、物資は浅井家の公的な蔵へ納められ、老臣たち個人の受領記録はごくわずかです。……ですが、翌年の永禄四年をご覧なさい」

 お市は一冊の冊子を指差し、そろばんの玉を動かした。

「永禄四年……塩、年間五百俵。鉄五十貫。……そして、この時から『赤尾美作守殿へ直接引き渡し、塩二百俵』『海北若狭守殿へ直接引き渡し、塩百五十俵』という、老臣個人の名が記され始めているわ」

 お市が年代を追って数字を読み上げるにつれ、美濃紙の上に描かれた数字の列が、不気味な勢いで膨らみ始めた。


「永禄六年……塩千俵、鉄八十貫。老臣個人の受領分、全体の六割」

「永禄八年……塩千俵、鉄百貫、金四百貫。老臣個人の受領分、全体の九割……」

「永禄十年……塩二千俵、鉄百五十貫。老臣個人の受領分……全体の九割以上……!」


 ぱちり!

 お市が最後の玉を強く弾き置いた瞬間、室内を支配したのは、雨音を忘れるほどの重々しい静寂であった。

 すずはお市が読み上げた数字の年変遷を書き留めた美濃紙を見つめ、驚きに唇を震わせた。

「お市様……これは、一体どういうことでございますか……!? 年を追うごとに、朝倉様から下される物資の量が凄まじい勢いで増えております……! しかも、浅井の家に入る分は減り続け、老臣様方個人の懐に入る分ばかりが増えているではございませぬか……!」

「そうなのですよ、すず。これこそが、数字の奥に隠されていた最大の真実なのです」

 お市は冷ややかな溜め息をつき、そろばんから手を離した。

 中世の政治と手形のからくりが、お市の頭脳の中で解き明かされていく。


 野良田の戦いで勝利を収め、若き英主として立った浅井長政。

 長政は、古きしきたりによる六角家や朝倉家への従属を嫌い、浅井家を自立した大名家へと成長させようと苦闘し始めた。

 それを目にした越前朝倉家は、何を思ったか。

(長政様が自立への道を歩もうとすればするほど、朝倉家にとっては都合が悪かったのだわ……)

 朝倉家にとって、南の浅井家は「越前の防波堤」であり、自らの側に留めておきたい事情があった。もし長政が自立し、尾張・美濃から勢力を伸ばしてきた織田信長と対等に結びつくことを警戒したのだとすれば――。

 朝倉家は長政を武力で直接屈服させるのではなく、もっと内側から侵す手厚い恩恵を用いたと考えるのが自然であった。


 朝倉家は、浅井家の当主である長政を飛び越え、実権を握る老臣たち――赤尾清綱や海北綱親ら個々人に対し、年を追うごとに跳ね上がるような塩や鉄、そして金銭を「直接」与え始めたのだ。

 永禄三年までは、少なくとも浅井家の蔵へ納められる形が保たれていた。それが永禄四年を境に急変している。

 最初はわずかな手助けであったかもしれない。しかし、一度、朝倉から直接与えられる利の味を覚えた老臣たちは、その利に深く浸り、私腹を肥やし、自領の贅沢や私兵の強化に没頭していった。

 年を経るごとにその量が増えるにつれ、老臣たちは朝倉家からの物資なしでは自分たちの優雅な生活も、私兵の維持も成り立たない、朝倉の恩顧に深く絡め取られた立場へと変えられていったのだ。


「なんと……なんとおそろしい……!」

 すずが両手で顔を覆い、血の気を失った顔で呟いた。

「では、老臣様方が『朝倉様への義理』と叫び、織田様との同盟を激しく邪魔しておられたのは……!」

「ええ。忠節などという美しいものではありません」

 お市は美濃紙の数字に静かに視線を落とし、言葉を重ねた。

「老臣たちは、朝倉から受けるこの莫大な密かな利に完全に繋ぎ止められていたのです。朝倉との関係を絶たれれば、自分たちの私腹を肥やす道が途絶え、溜め込んだ利権がすべて失われる。だからこそ彼らは、朝倉の手先となって長政様を抑え込み、当主追放の脅迫までかけていたのでしょう」


 浅井家という組織の当主の権威を削ぎ落とし、老臣たちを太らせて内部から分断し、浅井家を朝倉家の言いなりとするための構図。

 長政がどんなに正論を唱え、浅井家を富ませようと奮闘しても、老臣たちが朝倉の金で買収されている限り、太刀打ちできるはずがなかったのだ。

 長政は、己の知らぬところで張り巡らされたこの暗い罠の中に捕らえられ、一人で血を流していたのだ。


 お市はふっと、小さく震えるような笑みを漏らした。

 雨音が屋根を叩く静寂の中で、お市の瞳は、暗闇を切り裂く刃のように鋭く光り輝いていた。

(朝倉義景……大したものだわ。だが、あなた方の企みもここまでよ)

 お市は美濃紙にまとめられた「年度別老臣裏金受領推移表」を静かに折りたたみ、朝倉義景の直筆書状とともに、文箱の中へと収めた。

 朝倉側が仕掛けた買収の年変遷、老臣たちが受け取っていた私腹の全貌、そして彼らが浅井家を裏切っていた、疑いようのない証拠。

 すべての手がかりが揃い、老臣たちを追い詰めるための「勝負を決する証」が完成したのだ。


 ――だが、証拠があるだけでは足りぬ。

 お市は行灯の火影を見つめ、胸の中で自らに問いかけた。


(たとえこの帳面と書状を突きつけたとしても……。「朝倉と通じていた。だから何だ」と切り返されたら、どうする?)


 戦国の家中では、内通の証が一つあったからといって、即座に重臣を裁けるわけではない。

 赤尾や海北は長年、浅井家の軍勢と国人衆を束ねてきた。彼らを一挙に敵に回せば、当主・長政の権威どころか、家中そのものが割れる危険がある。

 しかも今の浅井家は、織田家と縁を結んだばかりだ。織田の後ろ盾があるから処分できる、などという理屈は、かえって「織田の手先が浅井の重臣を潰している」と受け取られかねない。


 お市はそろばんの算珠に指先を戻し、静かに玉を弾いた。


(内通の証拠だけで裁こうとしてはいけない。朝倉から何を受け取り、その見返りに浅井の何を渡したのか。誰がどの命を覆し、どの兵糧を横流しし、どの軍勢の動きを朝倉へ知らせたのか――そこまで帳面と証文で繋がってこそ、問題になる)


 さらに、織田家との関係も、後ろ盾として使うのではない。

 織田家の援けを受けながら、その一方で朝倉へ兵糧や軍勢の動きを流していたと知れれば、信長は同盟を疑うだろう。

 「信長様が支援してくれるから処分できる」のではなく、「織田家との同盟を維持するためにも、放置できない」――その政治的圧力こそが、戦国らしい筋である。


 お市は文箱の蓋を静かに閉じた。


「すず」

「は、はいっ! お市様!」

「この帳面と書状を、厳重に文箱へ戻しなさい。……明日、長政様にお見せします」

「当主様に……でございますか?」

「ええ」

 お市は力強く立ち上がり、木格子の窓から雨に濡れる小谷城の山肌を見据えた。

「長政様に、この不都合なからくりをすべてお見せします。そして……長政様ご自身の口から、あの宿老どもへ引導を渡していただきます」

 お市の声には、一切の迷いも恐れもなかった。

 ただの政略結婚の姫として散る気など毛頭ない。

 夫・長政を金縛りから解き放ち、浅井の家を食い荒らす病根を断ち切るための決戦の時が、すぐそこにまで迫っていた。

 お市は雨音を聞きながら、胸の中で静かに、明日への闘志を燃え上がらせるのであった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。