第8話:塩・鉄の裏流通
第8話:塩・鉄の裏流通
過帳――関所を通る人馬や荷、徴収した関銭を書き留めたその和紙の束には、目を見張るような不自然な空白が広がっていた。
小谷城の奥御殿、お市の自室の文机の上には、さきに侍女のすずが勘定方の蔵から出させてきた『関所通行手形留め』と『北国街道過帳控え』が広げられていた。
和紙の表面には、敦賀や今庄といった北陸方面から木ノ芽峠、深坂峠を越えて北近江へ入ってくる荷馬の数と、関所で徴収された銭の額が、つぶさに記されている。
お市は文箱から取り出した木製の算具――そろばんの算珠に細い指先を添え、ぱちり、ぱちりと静かに音を響かせた。
(おそろしいほどの、脱落の数ね……)
お市の中で、前世の知性が、数字の羅列から暗い闇を浮かび上がらせていた。
さきに判明したのは、赤尾清綱や海北綱親ら老臣たちの屋敷に、彼らの公的な知行高を遥かに超える莫大な富や豪華な白壁の蔵が存在するという事実であった。
では、その富の源泉である塩や鉄、米といった莫大な物資は、いかなる経路を辿って老臣たちの屋敷へと運び込まれているのか。
お市は過帳の頁をめくり、過去三年の北国街道における塩と鉄の通過記録をそろばんで弾き出していった。
「すず。この過帳に記されている塩と鉄の量を、すべて足し合わせてご覧なさい」
向かいに座るすずに声をかけると、すずは筆を握り、お市が読み上げる数字を美濃紙に書き留めていった。
「永禄九年、塩の通過量、年間およそ三百俵。鉄塊、五十貫……」
「お市様、書き留めました。これが、関所を通ったすべての物資でございますか?」
「ええ。公的な記録の上ではね」
お市はふっと冷たい笑みを浮かべ、そろばんを置いた。
「ですがすず、思い出してご覧なさい。問屋の控えや荷馬方の証言と照らし合わせれば、老臣たちの屋敷の蔵だけに蓄えられていた塩は、安く見積もっても年に千俵を超えていましたよ」
「え……? せ……千俵……!?」
すずは筆を止め、驚きに目を丸くした。
「おかしいでしょう? 城下の人口と兵糧から逆算すれば、小谷の城下町や領民たちが消費する塩の量だけでも年に二千俵は必要なのです。にもかかわらず、公的な関所の過帳には、その一割か二割程度の数字しか記されていないのですよ」
「で、では……残りの何千俵もの塩や鉄は、一体どこを通って領内に入ってきているのでございますか……!?」
「関所を通っていないのではないわ。関所を通過しながら、『過帳に記録されていない』のですよ」
お市の言葉に、すずはハッと息を呑んだ。
北近江の北の国境には、越前朝倉領との間に厳重な関所が設けられている。本来であれば、そこを通るすべての商人や荷馬から、一俵ごとに「関銭」と呼ばれる通行税が徴収され、浅井家の公的な金蔵へと納められる手はずになっていた。
だが、莫大な物資が関所を通過しているにもかかわらず、公的な過帳にはその数字が一切記載されず、関銭も納められていない。
つまり、関所そのものが形骸化し、巨大な関銭を免れた裏の荷筋が横行しているのだ。
(ただの不手際や記載漏れではないわ。不当な脱税と着服……。これを関所の役人が独断で行えるはずがない)
お市は焦って動くことをしなかった。
直ちに役人を呼び出して詰問するのではなく、それから三日、四日という時間をかけ、すずや出入りの商人を通じて、城下の塩問屋や関所の控えの記録を慎重に突き合わせ、外堀を埋めていったのだ。
そして、出納の計算と手形の不一致という十分な証拠が手元に揃った五日目の夕刻。お市は小袖の袖を軽く引き上げ、静かに立ち上がった。
「すず。奥向きの調度品や食材の手配を改めるという名目で、関所の記帳を任されている実務を預かる役人を、一人ここへ呼び出しなさい。……誰にも悟られぬよう、静かにね」
「は、はい! 直ちにお手配いたします!」
すずはお市の冷徹な決意を感じ取り、深く頭を下げて部屋を辞していった。
半刻後。
奥御殿の別室に、一人の四十ほどのみすぼらしい男が呼び出されていた。
男は浅井家の関役を務める武士であり、関銭の徴収と過帳の管理を担当している井口という男であった。
井口はお市の前に額を畳に擦りつけ、緊張で肩を強張らせていた。当主・長政の正室であり、織田信長の妹であるお市から直々に呼び出されたのだ。無礼があってはならぬと、身体を固くしている。
「井口と申しましたね。面を上げなさい」
お市の滑らかな声に促され、井口がおずおずと顔を上げた。
お市は文机の上に置かれた『関所過帳控え』を指差し、静かな、しかし氷のように鋭い眼光を井口に向けた。
「井口。そなたに尋ねたいことがあって呼び出しました。……この北国街道の過帳を見るに、越前より入る塩と鉄の量が、年々異常なほど減少しておりますね。おかげで城下の市場では塩が高騰し、城中の膳ですら塩不足に苦しんでおります。そなたは関役として、この過帳の数字に偽りがないと誓えますか?」
井口は一瞬、お市が何を聞いてきたのか理解できぬように目を瞬かせた。まさか奥御殿の姫君が、関所の過帳の細かな数字を突きつけてくるとは思ってもみなかったのだ。
井口は慌てて揉み手をし、しどろもどろに答えた。
「は、ははっ! お市様、過帳の記載に一切の偽りはございませぬ! 北陸からの荷がめっきり減りまして、関銭の上がりも落ち込んでいるのが実情でございます! 我ら役人は、誠心誠意、定め通りの仕事を勤めておりますゆえ……!」
「そうですか」
お市はそっと冷たい笑みを浮かべ、文机の上から、この数日間で慎重に弾き出しておいた美濃紙を取り出した。
そこには、さきにお市がそろばんで弾き出した「小谷城下に運び込まれている実際の物資の見積もり」と、城下の問屋の控えから裏を取った「荷馬の通過台数」が、具体的な数字として整然と書き連ねられていた。
「では井口、この数字をどう説明するのですか? 筆頭宿老の赤尾美作守殿、海北若狭守殿の御屋敷には、連日のように越前からの荷馬が入り、年に千俵を超える塩と莫大な鉄が運び込まれておりますよ。過帳に記された通過量が年間たったの三百俵であるならば、老臣たちの屋敷にある残りの数百俵の塩は、どこから湧いて出たとでも言うのですか?」
「な……っ……!?」
井口は顔を極度に引きつらせ、額からどっと脂汗を噴き出させた。
「そ……それは……その……」
「関所を通過する荷馬の数を、そなたたち役人が見落とすはずがない。にもかかわらず過帳に載っていないということは……そなたたち関役が、特定の荷だけに関銭を免除して素通りさせ、公的な記録から意図的に消し去っているということですね?」
お市はゆっくりと身を乗り出し、井口を見下ろした。
その瞳に宿る威圧感と、一切の言い逃れを許さぬ一本の筋。
井口は全身を小刻みに震わせ、ついに耐えきれなくなったように畳に額を擦りつけ、悲鳴のような声を上げた。
「お、お許しくだされ、お市様! 私ども役人の手不際や不正ではございませぬ! あれは……あれは、私どもにはどうにもできぬことにございます!」
「どうにもできぬ、とはどういうことですか」
「朝倉領から運ばれてまいります塩や鉄の荷のうち……赤尾様や海北様、遠藤様の『御判(お印)』が捺された手形を携えた荷につきましては、関銭を免除し、過帳にも一切記載いたすなと……昔から老臣様方から固く命じられているのでございます……!」
井口の声は、恐怖で途切れ途切れであった。
「老臣様方の『特別の荷』を検分しようものなら、私ども役人は直ちに役を解かれ、領外へ追放されてしまいます! 私どもはただ、老臣様方のお言付かり通りに、荷を素通りさせていただけにございます……! どうか……どうかご容赦くだされ……!」
お市は息を呑み、静かに目を開いた。
やはり、数日間かけて調べ上げた見立ては当たっていたのだ。
「老臣たちの、特別の荷……」
「は、はい……。越前の朝倉家から送られてまいります物資は、すべて老臣様方の手形付きで関所を素通りし、そのまま老臣様方の御屋敷の蔵へと運び込まれております……」
井口はお市のお裁きを恐れ、ただ身を縮めて震えるばかりであった。
お市は静かに息を吐き出し、声を和らげた。
「分かりました、井口。そなたの苦衷は理解しました。……このことは誰にも口外してはなりませんよ。もし誰かに漏らせば、そなたの立場はなくなります」
「は、ははっ! 滅相もございません! 誰にも……誰にも申しませぬ!」
「下がりなさい」
井口は命からがらという様子で頭を下げると、這うようにして部屋を退出していった。
室内には、再び静寂が戻った。
お市は文机の上の美濃紙を見つめ、そっとそろばんの玉を撫でた。
すべてが、白日のもとに繋がった。
越前朝倉家は、浅井家の関所を骨抜きにし、老臣たちの私的な手形を使って、関銭を免れて莫大な塩や鉄を浅井領内へ持ち込ませていたのだ。
老臣たちは、その関銭を免れて手に入れた物資を自らの蔵に溜め込み、一部を私腹を肥やすために高値で市場へ横流しし、一般の領民や兵たちから莫大な利ざやを貪っていた。
そして朝倉家は、その莫大な不当利益を老臣たちに与えることで、彼らを抱き込み、浅井家を内側から支配しようとしているのではないか。
(なんて浅ましい……。なんて酷いからくりなの……!)
お市の胸の中に、激しい怒りが燃え上がった。
老臣たちが叫ぶ「朝倉への三代の義理」という格好のついた大義名分。その建前の裏にあったのは、関所を食い物にし、脱税と横流しによって私腹を肥やす、ただの醜い利権への貪婪であった可能性が極めて高いのだ。
彼らが朝倉家との関係を絶ちたくない本当の理由。それは、朝倉との同盟が破綻すれば、この「密かな荷の道」が完全に遮断され、自分たちの巨額の不当利益が失われるからなのだ。
(だから長政様を『義理』という言葉で脅し、織田との同盟を邪魔しようとしていたのね……。自分たちの裏金を護るために、浅井の家と長政様を売る気だったのだわ!)
お市は文机の上の美濃紙を静かに閉じ、窓辺へと歩み寄った。
もはや単なる疑念の域は脱した。老臣たちが関所を素通りさせていた「特別の荷」の存在、そして彼らが関銭を免れて利益を得ていたからくりは、確たる疑いとなったのだ。
だが、評定の間で老臣たちを完全に打ち砕くためには、もう一つ、絶対に逃げられない「物証」が必要であった。
老臣たちが朝倉家と直接交わした、受領記録や誓約書――小谷城の奥深くに納められている『本当の帳簿』である。
「見ていなさい……。あなたたちが隠しているその不義の帳簿、私が必ず引きずり出し、浅井の家からその病根を絶ち切ってみせるわ!」
お市は窓の外、夕闇に沈む小谷城の暗がりを見据え、冷徹な誓いを胸に刻んだのであった。




