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第7話:歳入と歳出の違和感

第7話:歳入と歳出の違和感


「お市様! 勘定方から、お言付かりの新たな帳面を出させて参りました!」


 朝の光が奥御殿の長廊下を照らし出す頃、侍女のすずが息を弾ませ、両手で抱えきれぬほど大きな桐の文箱を担いで部屋へ駆け込んできた。

 すずの顔はうっすらと汗ばみ、その頬は主君の役に立っているという興奮で紅潮していた。すずが恭しく文机の上に置いたのは、浅井家に仕える全家臣の公的な領地と給与を記した『家臣知行留め』と、領内各地の年貢の総額を記録した『領内石高・貫高控え』であった。

 お市は小袖の袖をたすきがけで綺麗に引き結び、すずの差し出した冊子に丁寧に手を添えた。


「よくやりましたね、すず。手際が見事ですよ」

「は、はい! 昨日の今日でございますゆえ、勘定方の竹内様は苦虫を潰したような顔で睨みつけてまいりましたが……お市様のお印判を突きつけましたら、ぐうの音も出ずにこの文箱を差し出しました!」

 すずは誇らしげに胸を張り、お市の向かいの畳にちょこんと座り直した。

 さきにお市が侍女のすずと共に、混然一体となっていた『奥出納帳』を解読し、品目ごとに美濃紙へ分類・清書し直した成果が、文机の端に整然と並べられている。

 お市は文箱から木製の算具――そろばんを取り出し、その冷たい算珠に指先を添えた。


(さあ……ここからが、本当の改めよ)


 お市の中で、前世で培った知性が、静かに研ぎ澄まされていく。

 さきに判明したのは、小谷城の公的な出納において、入ってくるはずの塩や米が異常な勢いで消え、城中や領民が貧困に苦しんでいるという事実であった。

 では、その消えた莫大な物資と金銭は、一体どこへ流れているのか。

 お市は『家臣知行留め』の表紙をめくり、筆頭宿老・赤尾美作守清綱と、海北若狭守綱親の名が記された頁を指先で追った。


「赤尾美作守殿。知行高、二千五百貫……。海北若狭守殿。知行高、千八百貫……」


 お市は声に出して読み上げ、そろばんの玉をぱちぱちと素早く弾いた。

 中世の近江において、一貫高はおおよそ米二石前後に相当する。つまり、赤尾清綱の公的な領地から上がる収益は年間およそ五千石、海北綱親の領地はおよそ三千六百石ということになる。

 北近江の領主としては決して小さくはない数字であるが、大名家の当主を凌駕するほどの圧倒的な富ではない。


「すず。この知行高から算出される、赤尾殿や海北殿の年間のお手元金を計算してみましょう」

 お市は手元の美濃紙に、武家社会における標準的な収支の割合を書き出していった。

 知行高から上がる収穫のうち、半分近くは領内の治水や不作への備え、そして自領の農民たちの生活維持に消える。残る収益から、自らが抱える軍勢(軍役)の甲冑や槍、馬の維持費、家臣たちへの扶持米(給与)を支払わねばならない。


「赤尾殿の知行高、二千五百貫。そこから軍役の維持費と家臣の給与、自領の維持費を引けば……手元に残る純粋な余剰金は、年に多くとも三百貫程度にしかなりません」

 そろばんの玉がぱちりと弾かれ、導き出された数字が示された。

「よほど節約し、質素に暮らして、ようやく年に三百貫の蓄えができるかどうか……それが、赤尾殿の公の収入では到底届かぬ額の限界です」

「はあ……」

 すずは首をかしげ、お市が導き出した数字と紙面を見つめた。

「三百貫……というのは、やはり大きな金額なのでございますか?」

「一家族が何年も贅沢に暮らせる額ではありますよ。しかし――」

 お市は静かに立ち上がり、木格子の窓辺へと歩み寄った。


 清水谷を挟んだ対岸の尾根には、朝日に照らされた老臣たちの屋敷地が一望できた。

 お市は遠くかすむ屋敷の門並みを見やりながら、すずに問いかけた。


「すず。さきほど『赤尾殿のお屋敷の門前には立派な荷馬が並び、白壁の蔵が増えている』と言っていましたね」

「はい、お市様! お屋敷にお出入りの者の話では、ここ三年で新しく建てられた立派な土蔵が四棟も並び、手勢の武者全員が新品の鉄具足を揃え、毎日のように越前から酒や塩の俵が運び込まれているそうでございます」


 お市はすずの証言を聞き、文机に戻ると、そろばんの玉を激しく弾き鳴らした。

 ぱち、ぱちぱち、ぱち、ぱちり!

 小気味よい算珠の音が、静かな室内に猛烈な勢いで響き渡る。


「蔵の普請費に二千貫。手勢の武具の揃えに千貫。日々の高級な物資の購入に年に数百貫……。赤尾殿がこの三年間に費やした金銭と物資の総額は、安く見積もっても五千貫を超えています」

「ご……五千貫……!?」

 すずはお市の口から出た途方もない数字に、眩暈を起こしたように目を丸くした。


「おかしいでしょう、すず? 赤尾殿の公的な知行から上がる純益は、三年でせいぜい九百貫程度です。にもかかわらず、実際にはその五倍以上――五千貫もの莫大な金と物資を費やし、屋敷を豪華にし、私腹を肥やしているのです。この差額の四千貫もの莫大な富は、一体どこから湧いて出たというのですか?」

 お市の冷徹な追求に、すずは言葉を失い、ただ口をパクパクと開閉させるばかりであった。

 赤尾清綱だけではない。隣に屋敷を構える海北綱親や遠藤直経らの収支を計算しても、まったく同じ不自然な膨らみが白日のもとに浮かび上がってきたのだ。

 公的な知行高と、現実の財の増え方。この二つの数字の間には、到底埋めようのない巨額の『穴』が存在していた。


「あの……お市様」

 すずが、恐る恐る声をひそめて口を開いた。

「赤尾様や海北様の御屋敷が急に立派になられたのは……かれこれ三年ほど前からにございます。当主様がまだお幼く、前当主の久政様が隠居なされた頃からでして……。ですが、城中では誰も怪しむ者などおりませぬ。『老臣様方は昔から越前の商人とも深く繋がっておられ、浅井の家を支える大柱なのだから、お暮らしが豊かなのは当然だ』と、誰もが納得しております」

「『当然』、ですか」

 お市は冷たい笑みを浮かべた。


「武将が己の知行以外の場所から、知行の数倍もの利潤を得る方法など、商業でも営んでいない限り存在しません。そして彼らは商人ではない。……つまり、彼らの屋敷に湧き出ている莫大な富は、彼ら自身の力で生み出したものではなく、外部の『誰か』から与え続けられている可能性が極めて高いのです」

「外部の……誰か……?」

「ええ。浅井家を内側から支配し、織田との結びつきを阻もうとしている者。……越前朝倉家の関与が強く疑われます」


 すずはハッと息を呑み、両手で口を覆った。

 お市の頭脳の中で、散らばっていた疑問が一つの大きな疑念へと結びついた。

 朝倉家は、浅井家という組織全体に援助を与えているのではない。浅井家の当主である長政を骨抜きにし、実権を握る老臣たち個々人に、年間数千貫に相当する塩や米、鉄、そして金銭を「密かな利」として直接与え、買収しているのではないか。

 老臣たちは、朝倉から受けるこの莫大な不当利益によって甘い汁を吸い、贅沢を極めている。だからこそ、彼らは自分たちの私腹を肥やす利益を失いたくないがゆえに、「朝倉への三代の義理」という格好のついた美名を振りかざし、織田との同盟を拒み、長政を脅迫しているのではないか。


(兄・信長が岐阜城で試み始めている『楽市楽座』――関所を外して商業を自由に流通させる道を、この北近江にも敷くことができれば……朝倉の不当な利などなくても、浅井家は自らの力で幾万貫の富を生み出せるはずだわ)


 お市は心の中で、信長の手法を手本とした新たな富の構想を描き始めていた。

 お市はそろばんの玉を最後に一つ弾き、静かに手を休めた。

 窓の外を見やると、遠く対岸の尾根に建ち並ぶ老臣たちの白壁の蔵が、秋の朝光を浴びて白々と輝いていた。

 領民たちが塩一升四十文という高値に悲鳴を上げ、一般の兵たちが貧困に喘ぐ中で、あの白壁の蔵には、浅井家を売った見返りの裏金と横流しされた物資がうずたかく積み上げられているのだ。


(あの蔵は、浅井家を支える蔵ではない。浅井家を食い荒らす病根よ……)

 お市の胸の中に、激しい怒りと、絶対に負けられないという強烈な闘志が燃え上がった。

(いつか……あの白壁の蔵をすべて暴き、没収してやるわ。あそこに溜め込まれた不当な物資を、すべて吐き出させ、飢えた領民や兵たちのために開放して見せる!)


 お市は力強く拳を握りしめた。

 公的な帳簿と、現実の財の増え方との決定的な食い違い。

 「老臣たちの富は不自然である」という動かぬ数字の証拠を、私は確かに掴んだのだ。

 だが、まだこれだけでは足りない。老臣たちを評定の間で引きずり降ろし、ぐうの音も出ないほどに論破するためには、彼らが朝倉家と直接交わした「物証」――受け取りの裏帳簿や密約の誓約書を手に入れねばならない。


 城内にひそかに草を張り巡らせ、真実を追う刻限が迫っていた。


「すず。老臣たちの屋敷や、城の奥の古い蔵……隠された『本当の帳簿』がどこにあるのか、探りを入れますよ」

「はい、お市様! どこまでもついて参ります!」

 すずは力強く頷き、お市を真っ直ぐに見つめ返した。

 言葉や曖昧な感情に惑わされず、数字の矛盾から真実を暴き出す。

 小谷城を覆う暗雲を払い、夫・長政を救い出すための命がけの勘定改めは、いまや確証を求めて、さらなる城の深部へと踏み込んでいくのであった。

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