第6話:勘定改めの開始
第6話:勘定改めの開始
清水谷を渡る秋風が、木格子の隙間から冷ややかに吹き込み、奥御殿の行灯の炎を小さく揺らしていた。
お市の自室の文机の上には、さきに勘定方の老役人・竹内に命じて提出させた、過去三年分の帳簿が山のように積み上げられていた。
長年、湿った城の蔵の中に置かれていたため、独特の煤けた匂いと、古い和紙の繊維が放つカビの匂いが室内に漂っている。墨で記された表題には『奥出納控え』『年貢納入手形』『関所通行留め』といった文字が、読みにくいくずし字で並んでいた。
お市は小袖の袖をたすきがけで固く結び上げ、黒髪を後ろで一つに束ね直した。
文机の最上段には、夫・浅井長政から授かったばかりの、当主の赤印判が鮮やかに捺された『奥向き差配』の許状が置かれている。
お市は文箱の脇から、さきに自分の持ち荷物の中から探し出しておいた小ぶりな木製の算具――そろばんを取り出し、その木肌の冷たさを掌に感じた。
(ここからが、私の本当の戦いよ……)
お市の中で、前世で培った知性と冷徹な眼が研ぎ澄まされていく。
長政との間には、昨夜、お互いの苦悩と本音を分かち合ったことで、静かで確かな信頼の芽生えがあった。しかし、その信頼を真の力へ変えるためには、目の前に積み上がった「数字」の暗号を解読し、老臣たちの悪事を白日のもとに晒さねばならないのだ。
お市は文机から顔を上げ、静かに声をかけた。
「すず。入りなさい」
襖が開かれ、お世話係の侍女・すずが、おずおずと室内へ入ってきた。
「お呼びでございますか、お市様」
「ええ。すず、そなたに私の助手を頼みたいのです。これからの検分、そなたの手助けが必要不可欠ですよ」
「じ……助手、でございますか!?」
すずは驚きのあまり大きな目をさらに見開き、畳に伏して慌てて手を振った。
「め、滅相もございません! わたくしのような身分の低い侍女が、お方様の勘定のお手伝いなど……! わたくしは、字もろくに書けませぬし、難しい計算など何ひとつ分からぬ愚か者にございます!」
「愚かなどと、己を卑下するものではありません」
お市は柔らかく微笑み、すずの傍らまで歩み寄ると、その細い手を優しく取った。
「難しい計算は、すべて私がこのそろばんで行います。そなたに頼みたいのは、私が読み上げる数字と名前を、この紙に書き写すことと、帳簿を年代ごとに分類することだけです。字が下手でも構いません。正しく数字を記す素直な眼があれば良いのです」
お市の温かな手つきと、飾らない言葉遣いに、すずの緊張が少しずつ解けていくのが分かった。すずはお市の顔を見上げ、小さな胸をすっと張った。
「お市様が……そこまで仰ってくださるのでしたら。わたくし、未熟ものながら、命がけでお仕えいたします!」
「頼みますよ、すず」
お市は嬉しそうに頷き、すずを文机の向かいに座らせた。
こうして、小谷城の奥御殿の一室で、前代未聞の勘定改め――出納の再検分が開始された。
しかし、作業は最初から難航を極めた。
中世の日本の帳簿というものは、極めて杜撰で原始的な記帳法であった。
『大福帳』や『算用帳』と呼ばれる和紙の冊子には、米何石、銭何貫といった歳入と、賄い費や武具購入費、関所手数料といった歳出が、日付の順に混然一体となってただ雑然と羅列されていたのだ。しかも、単位は「貫」「文」「石」「斗」「升」「俵」と多岐にわたり、筆者によって文字の癖や計算の基準すら異なっていた。
「これはひどいわね……」
お市は溜め息をつき、おでこに手を当てた。
どこからどこまでが浅井家の公的な出納で、どこからが老臣たちの私的な出費なのか、一見しただけでは全く判別がつかない形になっているのだ。これでは、勘定方の役人が途中で数字をごまかしたり、抜き差しを行ったりしても、誰も気づくことができない。
(意図的に分かりにくく作られているのか、単に記帳の手法が拙いだけなのか……。いずれにせよ、まずはこの散らばった数字を『分類』し直さなければ始まらないわ)
お市は決意を新たにすると、手元に数枚の真っ白な美濃紙を広げ、墨を擦り始めた。
前世の知識を用い、帳簿の数字を「歳入(年貢・関所銭など)」と「歳出(賄い・武具・給与など)」、そして「品目(米・塩・鉄・金銭)」ごとに項目を分けて整理する手法を編み出したのだ。
「すず、まず過去三年の『奥出納帳』から、塩に関する記述だけを拾い上げますよ。私が年月と数量を読み上げますから、そなたはこの美濃紙の『塩』と書いた欄に、そのまま書き写しなさい」
「は、はい! 承知いたしました!」
お市は帳簿をめくり、そろばんの玉をぱちぱちと素早い手つきで弾き始めた。
「永禄八年三月、敦賀より購入の塩、五十俵。代金、二十貫文」
「ええと……えの、ろく……さん……」
すずは慣れぬ手つきで筆を握り、お市の声に合わせて必死に文字を書き留めていく。
最初のうちは、お市のそろばんを叩く速度と、見たこともない勘定の手法に、すずはただ目を丸くして圧倒されるばかりであった。
ぱち、ぱちぱち、ぱちり。
お市の指先が動くたび、小さな算珠が心地よい音を立てて弾かれ、瞬く間に複雑な足し算や引き算、割算の結果が導き出されていく。
「お市様……その木枠の小箱は、一体どのようなからくりにございますか? ぱちぱちと玉を動かすだけで、なぜそのような大きな数字の勘定が一瞬で導き出せるのですか……!?」
すずが驚嘆の声を上げると、お市はふっと可憐に微笑んだ。
「これは『そろばん』という計算の道具ですよ。玉の配置ごとに一、十、百、千の位が決まっておりましてね。頭の中で暗算するよりも、遥かに正確で素早く数字をまとめることができるのです」
「まあ……! 魔法の小箱のようでございますね!」
「ふふ、魔法ではありませんよ。ただの算用の筋道です」
作業は刻々と進み、昼の陽光が部屋を明るく照らす頃には、すずの表情から迷いや戸惑いが消え去っていた。
お市の手で、混然一体となっていた帳簿の数字が、「歳入」と「歳出」、「米」と「塩」と「鉄」という項目ごとに、美濃紙の上へ整然と整理されていく。
すずはその分類された紙面を見つめ、思わず感嘆の声を漏らした。
「お市様……不思議でございます。元の帳面を読んでいた時は、目が回るばかりで何が何やら分からなかったものが、こうしてお市様が項目ごとに分けてくださると……まるで頭の中の霧が晴れるように、何にどれだけのお金や物資が使われたかが、一目で分かります!」
「そうでしょう、すず。どんなに膨大な数字の山であっても、同じ種類のものを集めて並べ直せば、自ずと隠されていた法則や『歪み』が見えてくるものなのです」
「はい! 最初は、お市様が帳面をお改めになると聞いた時、お方様には無謀なことと心配いたしましたが……いまは納得いたしました! お市様のおやりになることは、誠に理にかなっております!」
すずはお市に対して、主君の正室としての敬意を超えた、深い尊敬と親愛の情を込めた瞳を向けた。かつて固く閉ざされていた侍女の心が、お市の圧倒的な知性と温かな指導によって、完全にひらかれた瞬間であった。
「すずが手伝ってくれたおかげですよ。さきにこの調子で過去三年分の数字をすべて洗い出しましょう」
「はい、お市様!」
すずは頼もしく頷き、再び筆を強く握りしめた。
夕刻、清水谷の山影が小谷城を覆い始める頃、二人の作業は一通りの分類を完了させていた。
文机の上には、年度ごと、品目ごとに美濃紙へ清書された「分類した勘定控え」が整然と並べられていた。
お市はその紙面を一行ずつ指で追いながら、そろばんの玉を静かに滑らせた。
前世で修めた知性が、整理された数字の羅列から、早くも不穏な「見過ごせぬ歪み」を捉え始めていた。
(……見えてきたわ)
お市の瞳が、冷たく研ぎ澄まされる。
過去三年間の記録を照らし合わせると、浅井領内で収穫された年貢米や、正規の関所から入ってくる公儀の収入の額は、年々微妙に減少している。
にもかかわらず、城中の賄いや、一般家臣への支給として下される塩や米の量は、収入の減少の幅を遥かに超えて「異常な勢い」で削られていたのだ。
城中の兵や領民が塩不足に苦しむ一方で、消えた莫大な量の塩と米は、どこへ行ったのか。
公の帳簿の「歳出」の欄には、その消えた物資の行き先が一切記されていなかった。つまり、公的な記録から完全に抹消された形で、莫大な物資がどこかへ「私蔵へ回されている」のだ。
(収入が減っているのではない。入ってきた物資の半分以上が、公の帳面に載せられる前に、特定の誰かの手に吸い上げられているのよ……!)
お市はそっとそろばんを置いた。
暗闇の中に隠されていた小谷城の病根。その闇の糸口が、いま確かに数字の糸となって、お市の指先に引っかかったのだ。
すずがお市の顔を覗き込んできた。
「お市様……何か、お分かりになりましたか?」
「ええ、すず。この城が隠してきた『本当の姿』が、少しずつ表に出てきましたよ」
お市は静かに立ち上がり、木格子の窓から夕闇に沈む小谷城の山肌を見上げた。
対岸の尾根には、老臣たちの白壁の蔵が、不気味な黒い影となって立ち並んでいる。
あそこに、消えた塩と米が眠っているのだ。
偽りに包まれた衣。それを剥ぎ取るための最初の鍵を、私は確かに手に入れた。
「さあ……見せてみなさい。老臣たちが隠している、本当の裏勘定を」
お市は凛とした佇まいで微笑み、静かに次なる検分へと歩みを進めた。




