第5話:お市の決意
第5話:お市の決意
清水谷の薄霧を突き抜け、秋の澄んだ朝の光が小谷城の奥御殿を金色に染め上げていた。
山気を含んだ冷たい風が木格子を吹き抜け、昨夜の深い静寂を静かに洗い流していく。
御寝所の行灯の灯火はいつしか消え、畳の上には新しい一日を告げる温かな光が差し込んでいた。
浅井長政はすでに身を起こし、質素な浅黄色の小袖から、当主としての重厚な着物へと着替えを済ませていた。さきにお市が見た初夜の折の苦悩に満ちた表情は消え去り、その瞳には凛とした誠実さと、どこか憑き物が落ちたかのような晴れやかな光が宿っていた。
二人で囲む質素な朝の膳。そこには、やはり粗く灰色を帯びた塩が、申し訳程度に添えられていた。
長政はお市に向き直り、畳に手を突いて深く頭を下げた。
「市。昨夜は……恥ずべき姿を見せた。己の無力を責めるばかりで、お前に余計な負担をかけてしまったな」
「いいえ、長政様」
お市は小袖の裾を整え、長政の目を真っ直ぐに見つめ返した。
「私は、あなた様の誠なるお心を知ることができ、これ以上の喜びはございません。長政様が浅井の家と領民を思い、織田との未来を信じておられるのであれば、私はどこまでもあなた様のお味方でございます」
長政の口元に、心からの温かな笑みがこぼれた。
「ありがとう、市。お前がそう言ってくれるだけで、俺の心はどれほど救われるか分からぬ。……だが、老臣たちの朝倉への執着と、城内に張り巡らされた買収の網は根深い。俺一人の力では、奴らを急に抑え込むことは難しかろう」
「ええ。だからこそ、私に最初のお力添えをさせて欲しいのです」
「お力添え……?」
長政が不思議そうに眉を寄せると、お市は静かだが毅然とした口調で告げた。
「私に、この小谷城の奥向き――出納ならびに賄いや蔵の管理の取り仕切りを任せていただきたいのです」
長政は目を見開いた。
「奥向きの差配を……? しかし市、お前は織田家から嫁いできたばかりの身だ。小谷城の勘定や出納は、老臣たちの息がかかった役人どもが握っている。お前が足を踏み入れれば、奴らは『織田の間者が城の台所に口を挟むか』と、激しく反発するであろう」
「反発するなど、重々承知でございます」
お市はふっと不敵な笑みを浮かべた。
「ですが、大名家の正室が奥向きの出納を検分し、賄いを整えるのは、武家の定めに照らしても当然の権限にございます。ましてや、私には織田家から持ち込んだ膨大な結納品や金銀、持参した道具を正しく管理するという揺るぎない名分がございます。……長政様、私に『奥向き差配』の公的な許し――御判をいただけますでしょうか」
長政はお市の澄み切った瞳の奥にある、揺るぎない覚悟と冷徹なまでの知性を読み取った。さきにお市が明快な道理で老臣たちの裏金を言い当てて見せたことを思い返し、長政の胸に全幅の信頼が満ちあふれた。
長政はしばし黙考した後、力強く頷いた。
「分かった。市、お前に小谷城の奥向きの一切を委ねよう。俺の当主印を捺した許状を授ける。……決して無理はするなよ」
「はい。お任せくださいませ」
お市は恭しく頭を下げ、長政を見送った。
当主としての務めを果たすべく中広間へと向かう長政の背中は、昨夜までの重圧に押し潰されそうだった佇まいとは打って変わり、力強く伸びていた。
長政が去り、室内が再び静寂に包まれると、お市は文机の前に腰を下ろした。
さきに持ち荷物の中から探し出しておいた小さな木製の算具――そろばんを、そっと指先で撫でる。
(夫婦の情や信頼は、何よりも尊いわ……。でも、それだけでこの家を救うことはできない)
お市の中で、前世で育んだ冷徹な知性が研ぎ澄まされていく。
昨夜、長政と心を通わせたことは真実である。しかし、老臣たちが張り巡らせている「朝倉家への義理」という美名と、その裏に隠された莫大な金銭的利益は、夫婦の情愛などという個人的な感情だけで覆せるものではないのだ。
(『義理』や『恩義』といった曖昧な言葉に、この浅井の家と長政様が振り回されるのは、もう終わりにさせなければならないわ。私がこの小谷城の『数字』をすべて洗い出し、不当な病根を断ち切ってみせる)
お市はすっと息を吸い込み、部屋の外へ向かって声をかけた。
「すず。これへ入りなさい」
襖が開かれ、お世話係の侍女・すずが、おずおずと室内へ入ってきた。
「お呼びでございますか、お市様」
「すず。直ちに勘定方へ赴き、小谷城の過去三年にわたる『奥出納帳』ならびに『年貢納入控え』、『関所通行手形留め』の控えを一式、この部屋へ運ばせなさい」
すずは一瞬、お市が何を言ったのか理解できぬように目を丸くし、やがて顔を蒼白にして畳に手をついた。
「そ、そのような帳面でございますか……!? お市様、そのようなものは城の勘定方の役人や、赤尾様の配下の者たちが厳重に保管しておるものでございます! お方様が検分されるなど、前代未聞にございます……! お役人どもが承知するはずもございません!」
「承知させるのです」
お市は文机の上から、長政から授かったばかりの、当主の赤印判が捺された書状を取り出し、すずの前に差し出した。
「これは、長政様よりいただいた『奥向き差配』の公的な許しです。正室たる私が奥の出納を検分することに、何の落ち度もございません。もし役人が拒むのであれば、当主の命に背くものとして、私が直々に問い詰めます。行きなさい、すず」
お市の声音に宿る、圧倒的な気品と抗いがたい威厳。すずはお市の発する威圧感に気圧され、「は、はっ……!」と深く頭を下げると、弾かれたように部屋を飛び出していった。
それから一刻ほどが経過した頃であった。
奥御殿の長廊下を、ドタバタと荒々しい足音が近づいてきた。
襖が激しく開かれ、入ってきたのは、すずの姿だけではなかった。すずの後ろに、五十ほどのみすぼらしい身なりをした男が、苦虫を潰したような顔で立っていた。
男は浅井家の勘定方の役人であり、筆頭宿老・赤尾清綱の遠縁にあたる竹内という老役人であった。
竹内はお市に対して形ばかりの礼をとると、慇懃無礼な態度で口を開いた。
「お市様。すずから聞き及んで参上いたしました。なんでも、城の勘定帳をお改めになりたいとか……。しかしながら、お市様は織田家から嫁がれたばかりの御身。浅井の家の台所や勘定の儀は、我ら役人が代々相伝で務めておるものにございます。お方様の手を煩わせるようなことではございませぬゆえ、どうかお控えくだされ」
言葉遣いは丁寧であったが、その瞳には露骨な見下しと、「織田の手先に城の金蔵を見せられるか」という強い警戒の色が浮かんでいた。
すずはお市の後ろで小さくなり、おろおろと震えている。
しかし、お市は顔色ひとつ変えず、冷ややかな視線を竹内に向けた。
「竹内と申しましたね。そなたは、この長政様の印判が見えぬのですか」
お市は文机の上の書状を静かに指差した。
「長政様は、私に小谷城の奥向きの一切を任せると仰せられました。織田家から持ち込んだ膨大な結納品や金銀、持参した道具を管理し、奥の賄いを整えるのは、正室である私の正当な権利であり、義務です。そなたは、当主の命よりも自らの『相伝』とやらを優先するのですか?」
竹内は一瞬言葉を詰まらせたが、すぐに不服そうに鼻を鳴らした。
「当主様のお許しがあろうとも、勘定帳は浅井家の機密にございます! 織田家からお越しになられたばかりのお市様に、安易にお見せできるものでは……」
「機密、ですか」
お市は竹内の言葉を遮り、ふっと冷たい笑みをたたえた。
その瞳に宿る鋭い光に、竹内は思わず背筋に冷や汗をかいた。
「では問いましょう、竹内。今朝の膳に下された塩もまた、粒が荒く、灰色を帯び、量も驚くほど乏しいものでした。聞けば城下の市場では塩一升が高値で取引されているとか。……北近江は敦賀に近く、本来なら塩が安価に入る土地のはず。なぜ城中の賄いすら塩不足に苦しんでいるのですか? それは、勘定方であるそなたたちの怠慢ですか? それとも、出納の計算に莫大な『穴』が開いているからですか?」
「な……なにを……!?」
竹内は顔を極度に引きつらせた。
まさか嫁いできたばかりの若い姫が、塩の流通価格や出納の矛盾を具体的に突いてくるとは、夢にも思っていなかったのだ。
「もし勘定方に不正や怠慢がないと言われるのであれば、直ちに過去三年の勘定帳をここに差し出しなさい。私が自ら計算を改め、不手際がないかを確認いたします。……それとも、私に帳簿を見せられない『生々しい理由』でもおありなのですか?」
お市はゆっくりと立ち上がり、竹内を見下ろした。
小袖に身を包んだその佇まいからは、織田信長の妹としての圧倒的な威厳と、前世の知性がもたらす冷徹な圧力が漂っていた。
竹内は額から脂汗を噴き出させ、口をパクパクと開閉させた。ここで拒み続ければ、「不正を認めた」として当主・長政に通報される。お市の放つ隙のない論理と威圧感に、老役人は完全に恐怖を覚えたのだ。
「くっ……つ、直ちに……直ちに持って参りますゆえ……!」
竹内は逃げるように頭を下げると、捨て台詞を残して部屋を飛び出していった。
半刻後。
お市の自室の文机の上には、竹内らが渋々運び込んできた大量の帳簿類が積み上げられていた。
和紙の繊維に墨で記された『奥出納控え』『年貢納入手形』『関所通行留め』。長年、湿った蔵の中に保管されていたため、独特の墨とカビの匂いが室内に漂っている。
すずは積み上げられた帳簿の山を見上げ、呆然と呟いた。
「お市様……これほど膨大な帳面……本当に、すべてお調べになるのですか? お方様のお手には、あまりにも余る作業にございます……」
「いいえ、すず。私にとっては、これが一番得意な仕事なのですよ」
お市は文机の前に静かに腰を下ろし、小袖の袖を軽く捲り上げた。
そして、文箱から取り出した木製のそろばんを指先で手に取った。
悲劇の姫君として、歴史の波に流されて死を待つ気など微塵もない。
不当な裏金に隠された老臣たちの不正、利権のからくり、そして浅井家の病根を、この手で一つ残らず暴いてみせる。
(言葉や感情で人は騙せても、数字は絶対に嘘をつかないわ。見せてみなさい、小谷城の『本当の姿』を……!)
お市は決意に満ちた瞳で帳簿を開き、そろばんの玉を力強く弾き始めた。
澄んだ算珠の音が静かな部屋に響き渡り、浅井家を破滅から救うための、お市の命がけの「勘定改め」が、いま静かに幕を開けたのであった。




