第4話:初夜の告白
第4話:初夜の告白
祝宴の喧騒が遠く引き潮のように去り、小谷城の奥御殿は重々しく濃密な静寂に包まれていた。
御寝所として整えられた一室には、薄闇の中に小さな行灯の灯火が揺らめき、畳の上には新調された二客の白い布団が並べられていた。部屋の隅には、織田家から持ち込まれた豪華な嫁入り調度の長持が鎮座し、その文箱の脇には、お市がさきに荷の中から探し出した小ぶりな木製の算具――そろばんが、ひっそりと置かれていた。
室内には、微かに焚かれた伽羅の重厚な香煙が漂い、秋の夜気が木格子の隙間から冷ややかに滑り込んでいる。
お市は重厚な打掛を脱ぎ、朱色の艶やかな小袖一重の姿となって、行灯の明かりの前に静かに正座していた。
侍女のすずたちはすべて退がり、いまやこの部屋の敷居を挟んだ外には、人影一つない。
お市の胸の奥では、心臓が早鐘のように激しく脈打っていた。
武家の娘として受け入れるべき宿命だと自分に言い聞かせてみても、そのすぐ内側に息づく現代人としての感覚が、本能的な拒絶を起こしていたのだ。
面識もない見知らぬ男のもとへ運ばれ、今夜、身も心も委ねて抱かれなければならない。政略の駒として扱われる現実に対する、生々しい恐れと身の縮むような不安。もし長政が粗暴で乱暴な男であったなら、己の尊厳は踏みにじられ、絶望の淵に叩き落とされる。
(怖い……。私、本当にこの男に抱かれるの……?)
お市は小袖の袖の中で、冷たく乾いた己の指先を固く握りしめた。
やがて、静かに襖が開けられた。
入ってきたのは、浅井家当主・長政であった。
祝宴の衣を解き、質素な浅黄色の小袖を纏った長政は、酒の匂いをかすかに漂わせていたが、その足取りに乱れはなかった。長政は部屋に入ると、そっと襖を閉めた。
お市は身を強張らせ、身構えた。
だが、長政はお市に無理やり襲いかかるような真似は一切しなかった。お市が全身から発している硬い警戒心と怯えを瞬時に察したように、お市から少し離れた畳の上に、そっと腰を下ろしたのだ。
長政はお市に対してどこか恐縮するように視線を泳がせ、気まずそうに軽く苦笑すると、拍子抜けするほど優しい声で口を開いた。
「……お市殿。夜も更けた。慣れぬ山城での祝宴、さぞや疲れであったろう」
「いいえ。長政様こそ、重臣の方々へのお相手、ご苦労様でございました」
お市が緊張を隠して答えると、長政はふっと自嘲気味な笑みを漏らし、両手を膝に置いた。
「重臣たちへの相手……か。お市殿も、さきの大広間での様子をご覧になっておられたな。祝宴とは名ばかりの、説教のような宴であった」
長政の声には、昼間の凛とした武人としての張りはなく、疲れ切った青年の生々しい吐息が混じっていた。
粗暴さなど微塵もない、あまりにも誠実でお市を気遣う立ち居振る舞い。
お市はそっと肩の力を抜き、行灯の光の下で長政の横顔を見つめた。
「長政様。差し出口をお許しいただけるのであれば……お聞きしたいことがございます」
「……何なりと申されるがよい」
「長政様は、我が兄・織田信長との同盟を、真に望んでおられたのですか? それとも、赤尾殿や海北殿が申すように、朝倉家への義理を優先し、織田との結びつきを不本意に思っておられるのですか」
長政は一瞬、弾かれたように目を見開き、お市の顔を凝視した。お市の瞳の奥に宿る知性を確かめるように見つめ返すと、深く重い溜め息を吐き出し、胸の奥に溜め込んでいた想いを吐露し始めた。
「……俺は、信長兄上と戦いたくなどないのだ」
低く、震える声であった。
長政は拳を強く握りしめ、行灯の揺れる炎を見つめながら語り始めた。
「兄上が美濃を制し、岐阜の城下に楽市楽座を敷いたと聞いた時、俺は胸が躍る思いがした。古きしきたりや座の特権を打ち払い、自由な商人を集めて領国を富ませる……。それこそが、これからの戦国を生き抜く大名の姿だと感服したのだ。織田家と同盟を結び、あの素晴らしい領国経営と軍略を学べば、この貧しい北近江も必ずや救われると……そう信じていた」
長政の言葉には、織田信長に対する純粋な敬愛と、領国を良くしたいという熱い志が溢れていた。
しかし、長政の顔はすぐに深い苦悩に覆われた。
「だが……俺の思いなど、この小谷城では何の意味も持たぬ」
「何ゆえでございますか? 長政様は、浅井家の当主でおられますのに」
「当主、か……。名ばかりの当主よ。信長兄上の織田家のように、当主の一令で全軍が動き、直轄地を自由に差配できる強固な家であれば、どれほど良かったか……! だが浅井家という家は、祖父・亮政の代に、北近江の国人領主どもが集まって成り立った集まりに過ぎぬのだ」
長政の口から出た言葉は、まさにさきにお市が推測した通りの、浅井家の実態であった。
「赤尾、海北、遠藤、阿閉……彼ら老臣どもは、それぞれが自分の領地と兵を持ち、浅井の看板を背負っているに過ぎん。俺がいくら織田兄上との同盟を推そうと、老臣どもが一斉に反対すれば、俺は当主の座を追われる。現に、父・久政様もまた、六角家に従属しようとして家臣団に押し切られ、隠居に追い込まれたのだ」
長政の声には激しい葛藤が滲んでいた。
「老臣どもは口を開けば『浅井三代の朝倉家への義理』と叫ぶ。朝倉に義理を立てねば、北近江の武者どもは動かぬと俺を脅すのだ。もし俺が朝倉との関係を断ち切ろうとすれば、奴らは俺を廃嫡し、弟を当主に立ててでも朝倉につき、信長兄上を背後から襲うだろう……!」
話すうちに、長政の目から、ぽろぽろと大粒の涙が零れ落ちた。
誇り高き若当主の頬を伝い、浅黄色の小袖の膝の上に、ぽたぽたと染みを作っていく。
「俺には……奴らを抑える力がない。信長兄上を尊敬しながら、いつか奴らに背中を押され、兄上を裏切らねばならぬ日が来るのではないかと……毎夜、恐ろしくて眠れぬのだ。俺は……己の家すら満足に動かせぬ、情けない当主よ……!」
長政は両手で顔を覆い、男泣きに肩を震わせた。
その涙と苦悩の吐露を目の当たりにした瞬間、お市の胸の中で、冷たい拒絶の氷が劇的に溶け去っていった。
この男は、粗暴な武将などではない。
信長から学んで浅井家を救おうと苦闘しながらも、病んだ領主連合の網の目に縛り付けられ、一人で泣いていた誠実な男性なのだ。
(この人は……私の敵なんかじゃない。私と同じ志を持ち、助けを求めている愛おしい人だわ)
胸の奥から湧き上がってきたのは、嫌悪感ではなく、長政という男に対する強い好意と、溢れ出るような情愛であった。
お市の中で、すっと覚悟が定まった。
(この人の妻になろう。見知らぬ男に委ねるのではない。私が自分の意思で、この人を愛し、この人を救うために、その身を預けるのだ)
「長政様……」
お市は静かに立ち上がり、膝立ちのまま長政のすぐ傍らへと歩み寄った。
そして、顔を覆う長政の無骨な両手を、己の細く滑らかな手で優しく包み込んだ。
長政が驚いたように顔を上げる。濡れた瞳が、至近距離でお市と交錯した。
「泣くことはございません、長政様。あなたは決して、情けない当主などではございません」
お市は濡れた長政の頬に、自分の唇をそっと寄せた。
そして、落ちる涙を拭うように優しく唇を重ねると、長政の力強い胸に手を置き、その目を真っ直ぐに見つめ返した。
「お市殿……?」
「私は、見抜きました。赤尾殿や海北殿が口にする『朝倉への義理』という言葉の正体を」
お市は長政の手をしっかりと握りしめたまま、布団の傍らの文机の端に置かれた木製の算具――そろばんを指差してみせた。
「老臣たちが朝倉家に執着しているのは、昔の恩義などという綺麗な理由ではございません。彼らは、越前朝倉家から個人的に送られる塩や米、鉄、そして金銭の『密かな利』に買収されているのです」
長政の瞳に、激しい動揺が走った。
「ば……買収、だと……!?」
「左様でございます。城下の市場で塩が一升四十文という途方ない高値で取引され、領民や一般の兵が貧困に喘いでいる裏で、老臣たちの屋敷の蔵には、越前からの塩や物資がうずたかく積み上げられております。彼らは朝倉から受け取る密かな利益を失いたくないがゆえに、織田との同盟を阻み、あなた様を『義理』という言葉で脅しているのです」
長政は息を呑み、絶句した。
「……薄々、そうではないかと思っていたのだ。老臣どもの言動に妙な陰を感じながらも……確たる証がなかった。ゆえに、奴らの大義名分を崩せなかったのだ……」
お市は長政の首にそっと両腕を回し、その胸の温もりに自ら身体を寄せた。
「長政様。感情や義理という曖昧な言葉に従う人間は、より大きな感情や脅しに屈します。ですが……数字は嘘をつきません」
お市は凛とした美しい笑みを浮かべ、長政の耳元で囁いた。
「老臣たちが握っている不当な富の証拠と、朝倉に頼らぬ新たな領国経営の仕組み。それさえ揃えば、あなたは老臣たちを黙らせ、信長兄上の織田家のように、真の当主として浅井家を率いることができるはずです。……私がお支えいたします」
長政は、己の腕の中に収まるお市の美しき顔を、息を詰めて見つめた。
天下に並ぶ者なしと謳われた絶世の美女。警戒していた織田の姫が、いま己の涙を拭い、己の弱さを分かち合おうとしてくれている。
ただ敵国から送り込まれた人質ではない。この暗闇から自分と浅井家を救い出すために、寄り添おうとしてくれているのだ。
(俺は……一人ではないのだな……)
長政の胸の奥底から、熱い安堵と感謝の波がこみ上げてきた。己の無力を恥じる涙は消え、この凛とした美しい妻を大切にし、共に歩んでいこうという柔らかな光が全身を満たしていった。
「市……。お前が寄り添ってくれたこと、胸に沁みるぞ」
長政は溢れる愛おしさに任せ、お市の華奢な背を抱き寄せた。
熱い唇がお市の唇を深く塞ぎ、そのままゆっくりとお市を白い布団の上へと押し倒した。
「ん……っ……」
お市は目を閉じ、長政の引き締まった背中に自分の細い指先を回した。
長政の手が丁寧にお市の着物の帯紐を解き、朱色の小袖がはらりと畳の上に滑り落ちる。行灯の淡い光の下に、お市の白磁のような肌があらわとなった。
長政の指先がお市の滑らかな肌を撫でるたび、お市は甘い吐息を漏らし、自ら長政の身を受け入れていく。
見知らぬ男への恐怖も、政略結婚への抵抗も、いまや溶け去っていた。長政の大きな掌の温もり、その胸板の熱さに触れるたび、お市の身体の奥からも温かな熱が溢れ出し、長政の体温と溶け合っていく。
重ね合わせる肌と肌。深く交わり合う息遣い。
絶世の美女が、自らの意思でその温もりを自分に分かち合ってくれている――その満ち足りた思いに、長政はお市を愛おしく抱きしめ、二人は濃密な初夜の情愛の中へと落ちていった。
やがて、情愛の熱い波が静まり、静かな夜気が再び寝所を包み込んだ。
白布の布団の中で、二人はぴったりと肌を寄せて横たわっていた。
長政はお市の頭の下に腕を差し入れ、その肩を優しく抱きかかえている。
行灯の残り火に照らされたお市の横顔は、薄桃色に上気し、乱れた黒髪が白く滑らかな額に纏わりついていた。その一筋の髪を、長政は愛おしそうに指先でそっと払った。
長政の胸を満たしていたのは、孤独な暗闇から救い出されたような、静かで確かな安堵感であった。
お市がそっと目を開け、長政の見つめる瞳を見返した。
「……長政様。どうなさったのですか? じっと私をご覧になって」
「いや……」
長政はふっと照れくさそうに微笑み、お市の白い額にそっとくちづけを落とした。
「夢のようだと……思っていたのだ。お市殿……いや、市。雲の上のようなお方と恐れられていたお前が、このような不甲斐ない俺に寄り添い、温もりを分けてくれたことが……」
「不甲斐なくなど、ございません」
お市は布団の中で長政の胸に手を置き、かすかに笑みを浮かべた。
「私は、あなた様の誠なるお心を知ったからこそ、自分の意思であなた様の妻となったのですよ。……ですが長政様、まだ戦いはこれからです」
「ああ、分かっている」
長政はお市の肩を抱く腕に、少しだけ力を込めた。
「老臣どもの力は強く、朝倉の影も大きい。焦って一気に片付けようとすれば、足元をすくわれよう。……市、焦る必要はない。焦らず、一歩ずつ、俺たちの道を作っていこう」
「はい、長政様。まずはこの城の陰りを一つずつ払い、あなた様が真に当主として立てる土台を整えましょう」
「頼むぞ、俺の愛しき妻よ」
長政はお市の唇に、優しく短いくちづけを重ねた。お市もまた、長政の胸に心地よさそうに顔を寄せ、静かな吐息をついた。
見知らぬ地に嫁いできた恐れは消え去り、二人は政略結婚という冷たい始まりから、互いを受け入れ、これから共に歩み出していくための「信頼の芽生え」を手に入れたのだ。
行灯の灯火が静かに揺れ、始まったばかりの二人の寄り添う影を、小谷城の深い暗がりの中に優しく照らし続けていた。




