第3話:浅井長政との対面
第3話:浅井長政との対面
小谷城の朝は、山気を含んだ冷たい霧とともに明けた。
本丸を包む黒ずんだ杉の木々がしっとりと濡れ、清水谷から立ち上る白い煙のような霧が、奥御殿の木格子の向こうを白く包んでいる。
お市は鏡の前に座し、髪を結い上げられる感触を静かに味わっていた。
本日は、浅井家当主・長政との正式な対面、ならびに婚礼の三三九度の儀が行われる日であった。
侍女のすずは、お市の後ろで緊張のあまり指先を小さく震わせながら、上質な小豆色の打掛の帯を締めていた。お市の滑らかな肌に紅が差され、姿見の向こうには、見る者を圧倒するほどの高貴な美しさを湛えた姫の姿が映し出されていた。
(今日……あの男とまみえる)
お市は鏡の中の己の瞳をじっと見つめた。
さきに小谷城へ足を踏み入れて以来、お市の中で二つの記憶が分かちがたく結びついていた。戦国という乱世に生まれ、織田信長の妹として育ってきた「お市」としての生。そして、かつて大学の資料室で古文書に没頭していた前世の記憶。
後世の史書が語る浅井長政という人物の像。
『祖父・亮政の代より続く朝倉家との恩義を重んじ、義兄・信長を背後から裏切って自滅した、愚直で悲劇的な武将』
しかし、さきに小谷城の奥で目撃した不自然な物資の動き、領民の貧窮と老臣たちの過剰な富の不調和は、その語られ方に決定的な疑問を突きつけていた。
長政は本当に、世間が言うような愚かな男なのだろうか。
もしや彼もまた、あの老臣たちの私腹と買収のからくりに搦め捕られ、当主としての身動きを奪われているのではないか。
「お市様、お支度が整いました。中広間へご案内いたします」
お世話役の老女が、敷居の外で恭しく頭を下げた。
お市は静かに立ち上がり、重厚な打掛の裾を引きながら、足を踏み出した。
中広間へと続く長廊下には、警護の武者たちが居並んでいた。
その視線は冷ややかで、織田家という新興の巨大な脅威に対する警戒と不信が隠しようもなく滲み出ている。だが、お市は背筋を一本芯が通ったように真っ直ぐ伸ばし、視線を一切揺らぐことなく前だけを見据えて歩んだ。
やがて、中広間の重々しい金箔の襖が左右に静かに押し開かれた。
広間の畳の香りと、焚かれた伽羅の重厚な香煙が漂ってくる。
広間の左右には、浅井家の重臣たちが居並んでいた。
さきにお市の目を引いた筆頭宿老・赤尾美作守清綱、鋭い眼光を放つ海北若狭守綱親、無骨な面構えの遠藤直経、新庄直頼、阿閉貞大といった近江の国人領主たちが、ずらりと居並んでいる。彼らの装束は、相変わらず上質な越前絹や新調された武具で飾られ、その眼光には織田より迎えた正室に対する探るような冷たさが宿っていた。
しかし、お市の視線は、彼ら老臣たちを通り抜け、上段の間に座す一人の若者に注がれた。
――浅井新九郎長政。
その姿を見た途端、お市の胸の中で、小さな息が漏れた。
そこに居たのは、軍記物が描くような「無謀で頑迷な裏切り者」でもなければ、荒々しいだけの田舎武者でもなかった。
長身で、武人らしい堂々たる体躯。しかし、その面立ちは驚くほど涼やかで、整っていた。引き締まった肌、通った鼻筋、そして何よりも特徴的だったのは、その「目」であった。
漆黒の瞳は澄んでおり、深い知性を湛えている。だが、その瞳の奥底には、どこか深い孤独と、耐え難い重圧に押し潰されまいと抗う、痛ましい疲弊が沈んでいたのだ。
(この人が……浅井長政様……)
長政もお市を見つめていた。
絶世の美女と謳われた織田の姫の姿に、周囲の家臣たちが息を呑む中、長政の瞳に浮かんだのは、邪な欲への惑いではなかった。それは、自らの不徳ゆえに異郷へ連れてこられた姫に対する、申し訳なさと深い配慮の色であった。
お市は静かな所作で上段の前まで進み出て、打掛の裾を整えて畳に膝を突いた。
「織田弾正忠が妹、お市にございます。浅井の家へお迎えいただき、溢れるばかりの光栄に存じます」
滑らかで、寸分の隙もない挨拶。
長政は一瞬、お市の隙のない気品に圧倒されたように目を見開いたが、すぐに柔らかく口元を緩めた。
「よくぞ参られた、お市殿。遠路、岐阜からの長旅、さぞや疲れであったろう。北近江の地は美濃に比べ風も冷たく、何かと不自由をかけようが……我が城を、己が家と思ってくつろがれるがよい」
その声は、低く、心地よい響きを持っていた。言葉の端々に、飾らない誠実さが溢れている。
三三九度の儀が始まり、朱塗りの盃に清酒が注がれた。
お市は盃を受け、引き寄せながら、長政の細やかな所作を観察していた。
長政が盃を口にする際、無意識のうちに右手の指先が、帯に差した脇差の柄を固く握り直す癖があることに気づいた。それは、強い緊張や言葉にできぬ胸中の憂いを押し殺そうとするときに現れる、人間の生々しい身体の反応であった。
やがて、儀式に続いて祝宴の盃が交わされ始めた。
広間の空気が酒の匂いとともに少しずつ緩み始めると、左右に座す老臣たちの地金が現れ始めた。
赤尾清綱が、長政に対して盃を掲げながら、声を張り上げた。
「当主様! 織田家との同盟が成り、何よりにございます! しかしながら、我が浅井家が今日あるのは、ひとえに越前朝倉様との三代にわたる深きお絆があってこそ。織田家と結んだからとて、朝倉様への義理を忘れては、北近江の国人どもは納得いたしませぬぞ」
祝宴の場であるにもかかわらず、赤尾の言葉には、当主である長政に対する隠しきれない威圧と、教え諭すような横柄さが混じっていた。
隣に座す海北綱親もまた、深く頷きながら追従する。
「然り、然り。朝倉様からは毎年、領内の民を救うための塩や米、鉄が手厚く届いております。朝倉様との義理こそが我が家の命脈にございます」
老臣たちが口々に「朝倉への義理」を唱え始めると、広間に集まった若い家臣たちは、ただ伏し目になって沈黙するばかりであった。
お市は盃を手に持ちながら、上段の長政の様子を注視した。
長政の顔から、さきほどの穏やかな笑みが消えていた。
長政は眉根を固く寄せ、老臣たちの視線を真っ向から受け止めながら、絞り出すようにして口を開いた。
「……赤尾殿、海北殿。朝倉家への恩義、忘れたわけではない。だが、今は織田家との同盟を固め、領内の安寧を第一とすべき時である。過度な牽制は、不和を生むことになろう」
静かではあるが、筋の通った反論であった。
しかし、赤尾清綱は鼻で笑うようにして言い放った。
「ハハハ、当主様はお若い。我ら老臣が守ってきた浅井の家法を、どうかお忘れなきよう」
言葉の裏にある「若い当主のお前になにができる」という暗い見下し。
長政は唇を噛み締め、それ以上は言葉を重ねなかった。拳を膝の上で固く握りしめ、ただ静かに耐えている。
その光景を目にしたお市の脳裏に、稲妻のような確信が突き抜けた。
(……やはりそうなのだわ。長政様は一人で戦っておられるのだわ……!)
お市の中で、前世で育んだ中世歴史の知性が、目の前の光景から浅井家の実態を鮮やかに解き明かしていた。
浅井家という組織は、当主がすべての命令を下す一円支配の大名家ではない。北近江の国人領主たちが集まって成り立った「領主連合」なのだ。
当主である長政は、家臣たちを抑え込む絶対の力を与えられておらず、実質的な差配は、領地の兵と物資を握る老臣たちの合議によって縛られているのだ。
そして老臣たちは、越前朝倉家から個人的に与えられる塩や鉄という手厚い利にすがり、朝倉なくして立ち行かぬ身となっている。自らの私腹を肥やすために「朝倉への義理」という美名を楯にしているのだ。
長政は、噂通りの裏切り者などではない。
織田との結びつきによって浅井家を豊かにし、老臣たちの不当な支配から抜け出そうと苦闘していたのだ。しかし、当主としての力が弱く、老臣たちに押し切られそうになり、孤立無援のまま追い詰められていたのだ。
祝宴が果て、お市は奥御殿の自室へと引き揚げた。
部屋に入ると、すずが心配そうにお市の顔を覗き込んできた。
「お市様……大丈夫でございますか? 家臣の皆様方のあの荒々しいお言葉……」
「いいえ、すず。私は、とても晴れやかな心地ですよ」
お市は小袖の裾をさっと払い、文机の前に座した。
その瞳から、さきに小谷城へ向かう輿の中で抱いていた恐れは完全に消え去っていた。
目の前にいた浅井長政という男。彼は粗暴な武将でもなければ、義理に狂った愚将でもなかった。自らの領国と民を救うために、家中の病巣と一人で戦い、傷ついていた若き英主であったのだ。
(あの人は、助けを求めている……。一人で、あの私欲にまみれた老臣たちと戦わされているんだわ)
胸の奥からせり上がってくるのは、同情ではない。同じ志を持つ者に対する、激しい共感と熱い連帯感であった。
長政に欠けているもの、それは老臣たちの不当な着服を打ち砕くための決定的な証拠と、朝倉の物資に頼らぬ新たな経済の筋道である。
そして、それをもたらすことができるのは、前世の知性を持ち、そろばんを携えて嫁いできた、この私しかいない。
文箱の脇から、さきに探し出しておいた小ぶりな木製のそろばんを取り出す。
夜、いよいよ長政との初夜の刻を迎える。
ただ身を委ねるだけの夜にはしない。このそろばんと、前世で培った知識を武器に、私はあの男の真に支える妻となってみせる。
「待っていてください、長政様。長政様の鎖を、私が断ち切ってみせます」
お市はそろばんの玉を一つ、力強く弾いた。
ぱちりと澄んだ音が、月光の差し込む静かな室内へ、高く響き渡った。




