第2話:不穏な空気と塩の価格高騰
第2話:不穏な空気と塩の価格高騰
小谷城の奥御殿に落ち着いてから三日が過ぎた。
当主・浅井長政との正式な対面と婚礼の儀を翌日に控え、お市は奥御殿の一角に整えられた広い一室で、静かな束の間を過ごしていた。
織田家という強大な新興勢力から嫁いできた姫である。当然のことながら、身の回りには手厚い警護という名の厳重な監視の目が向けられていた。奥御殿の外へ出るなど到底叶わぬことであり、長廊下の曲がり角ごとには浅井家の警固の武者が立ち、冷ややかな視線を走らせている。
さきに小谷城の門を潜った折、脳裏を叩き割るようにして覚醒した前世――市川葵としての記憶は、混乱を脱し、お市の身体と完全に溶け合っていた。
前世の研究者たる眼と、織田家の姫として備えた気品。二つの視点が交錯する中で、お市はこの山城を覆う異様な空気をひしひしと感じ取っていた。
城内は静寂に包まれているようでいて、その底流には妙に張り詰めた剣呑な気配が漂っている。侍女たちや給仕の小姓たちの立ち居振る舞いには、織田家から嫁いできた姫に対する敬意よりも、どこか触れてはならぬ余所者を監視するような固さが付きまとっていた。
「お市様、お夕食の膳でございます」
襖を開けて入ってきたのは、浅井家からお市付きのお世話係として配された若い侍女であった。名を、すずという。
くりっとした大きな目を持つ小柄な娘で、立ち居振る舞いにはどこか素朴さが残っていたが、その指先は城内の空気を映して常に固く強張っていた。
すずが恭しく差し出してきた漆塗りの膳の上には、汁物と煮物、そして小さく塩を振られた干し魚が並べられていた。
お市は箸を付ける前に、汁物の椀と干し魚を静かに見つめた。
汁をひとくち口に含み、干し魚の表面を指先でかすかに撫でる。
(……おかしいわね)
お市の眉根が、かすかに寄った。
織田家の姫を迎えるための膳である。浅井家としても精一杯のもてなしを整えているはずであった。しかし、汁物の味付けは驚くほど薄く、干し魚に振られた塩は粒が極めて粗く、灰色を帯びている上に、その量も痛々しいほど控えめであった。
「すず。この塩は、どこから手配したものなのですか」
お市が静かに問いかけると、すずはびくりと肩を震わせ、畳に深く額を擦りつけた。
「も、申し訳ございません、お市様! お口に合いませんでしたでしょうか……! お給仕の者が手落ちをしたわけではございませぬ。城中の台所におきましても、塩の手配には大変苦慮しておりまして……」
「手配に苦慮、とはどういうことですか? 北近江は越前の敦賀にも近く、日本海からの塩が安価に入りやすい土地のはずでしょう」
お市の声音には、幼い頃から織田の家で養われた抗いがたい気品と、中世の経済を学んだ知性の鋭さが混ざり合っていた。
すずは困惑したように顔を上げ、声をひそめて口を開いた。
「それが……ここ一年ほど、城下の市場でも塩の値段が恐ろしい高値に跳ね上がっておりまして。一升で四十文もするとか……。北陸からの関所の手数料が跳ね上がり、荷がめっきり減ってしまったと、出入りの商人が申しておりました。それゆえ、城中とて塩の支給は絞られておりまして、このような粗末な塩しか手に入らないのでございます」
一升で四十文――。
お市はその数字を聞いた瞬間、胸の中で静かに思考を巡らせた。
(前世で読んだ諸国の物価史料や、楽市楽座関係の記録では、美濃・尾張や京周辺の塩一升は概ね十文台前半から高くても十五文前後だったはず……。北近江は敦賀を経由する日本海側の塩の流通ルート上に位置する。本来であれば、むしろ安価に入手できる地理的条件にあるはずなのに、四十文というのは明らかに異常だ)
塩は人間の命を支え、兵糧や保存食を作るための不可欠な生命線である。それがこれほど高騰しているということは、領民はもちろん、浅井家の一般の家臣や兵たちすらも、深刻な塩不足と貧困に苦しんでいることを意味していた。
(需要に対して供給が完全に途絶えている……? いいえ、流通構造から考えれば、単純な途絶では説明がつかない)
お市はすっと立ち上がり、部屋の南側に設けられた木格子の窓辺へと歩み寄った。
小谷城は、山全体が巨大な要害である。お市がいる奥御殿の窓からは、清水谷を隔てた対岸の尾根、浅井家の宿老たちが居を構える屋敷町が一望できた。
夕闇が迫る中、お市はその屋敷町の一画をじっと注視した。
そこには、領内の貧困や城中の塩不足とはあまりにもかけ離れた、不自然なほどの過剰な富が存在していた。
重厚な長屋門を構えた屋敷が立ち並び、その敷地内には新築されたばかりと分かる白壁の蔵がいくつもそびえ立っている。屋敷の門前には、荷馬を引いた行商人や手代たちがひっきりなしに出入りし、大きな俵や荷箱を次々と運び込んでいた。
「すず。あの大きな白壁の蔵がある屋敷は、どなたのお屋敷ですか」
窓の外を指差してお市が尋ねると、追いついてきたすずが格子越しに視線を向け、声を小さくした。
「あ……あちらは、筆頭宿老の赤尾美作守清綱様の屋敷にございます。お隣が、海北若狭守綱親様の屋敷で……」
「あの連日運び込まれている荷は、一体何なのですか」
「さあ……お出入りの商人たちが申すには、越前からの『特別な品』だと……。老臣様方の御屋敷には、上質な塩や米、鉄がどっさりと運び込まれていると、城内の噂になっております」
すずの言葉に、お市の中でいくつもの疑念が、はっきりと結びついた。
(……やはりそうか)
さきに小谷城へ到着した折、出迎えた赤尾清綱や海北綱親たちの装束が、領民の貧窮と打って変わって不自然なほど華美であった理由が、いま鮮やかに繋がった。
北近江の領内全体で塩や物資が不足しているのではない。
越前朝倉領から運ばれてくる塩や鉄、米といった莫大な物資が、正規の市場や浅井家の公的な蔵へ入らず、老臣たちの私的な蔵へ直接流れ込んでいるのだ。
老臣たちが物資を独占して横流しし、市場価格を吊り上げ、自分たちだけが莫大な私腹を肥やしている。だからこそ、一般の領民や兵たちは困窮し、城中の膳ですら塩不足に喘いでいるのだ。
夜が深まり、城内が静まり返った頃、お市は翌日の対面の儀に向けた打ち合わせのため、お世話係のすずを引き連れて奥御殿の長廊下を歩いていた。
城外へ出ることは叶わぬが、奥御殿から中広間へと続く渡り廊下までは、手添えを伴っての移動が許されていた。
中広間から本丸へと続く別殿の脇を通った折、お市の耳に、押し殺した男たちの話し声が届いた。
お市はすっと足を止め、手ですずを制した。すずは息を呑み、お市の後ろで小さく身を縮めた。
渡り廊下の丸桁の陰から、庭に面した別殿の一室を窺う。
障子がわずかに開かれたその部屋には、数名の男たちが車座になって座していた。
赤尾美作守清綱、海北若狭守綱親、そして遠藤直経の姿があった。
声そのものは低く抑えられており、具体的な会話の内容までは聞こえない。しかし、彼らの真ん中に置かれた文机の上には、上質な白さを持つ越前奉書紙が広げられていた。
赤尾清綱が、その奉書紙に記された文字を指差し、重々しい面持ちで頷いている。その手元には、朱色の印章や、越前朝倉家の重臣、あるいは当主・朝倉義景本人のものと思われる花押が記された書状が並んでいた。
海北綱親が、満足そうに口元を歪め、越前産の高価な塗物の盃を傾ける。
その光景には、浅井家の当主である長政の影は微塵もなかった。当主不在のまま、この老臣たちだけで、朝倉家との極秘のやり取りが進められているのだ。
「……朝倉様からの塩の割り当てが……」
「織田の姫など……」
断片的に漏れ聞こえてくる単語。
お市は息を殺し、その光景を脳裏に焼き付けた。
彼らが口にする「浅井三代の朝倉家への義理」という格好のついた大義名分。その建前の裏に隠されているのは、朝倉家から個人的に与えられる塩や鉄、そして金銭という生々しい「密かな利」であったのだ。
自室へ戻ったお市は、行灯の明かりの下で、さきに自分の持ち荷物である持参した道具の箱の中から探し出しておいた木製の算具――そろばんを文机の上に置いた。
すずを部屋の外へ下がらせ、一人きりになった室内で、お市は滑らかな手つきでそろばんの玉をぱちぱちとはじき始めた。
城中の支給における塩の不足量、市場における異様な高騰価格、老臣たちの屋敷に運び込まれる荷馬の数、そして越前奉書紙に記されていた朝倉家の花押。
前世の知識と計算力を用い、脳内で小谷城の「裏の勘定」を組み立てていく。
玉が弾かれる澄んだ音が、静まり返った部屋に響く。
「……やはり、筋道の通った算用になるわ」
お市はぱちりと最後の玉を置き、冷ややかな溜め息をついた。
朝倉家は、浅井家という組織全体と同盟を結んでいるのではない。浅井家の当主である長政を飛び越え、実権を握る老臣たち個々人を、物資の優先供給という形で買収し、飼い慣らしているのだ。
朝倉家から見れば、浅井家が織田家と完全に結びつき、自立した経済圏を作ることは絶対に避けたい。ゆえに、老臣たちに直接手厚い利権を与え、織田との同盟を内側から破綻させようと画策している。
そして老臣たちもまた、自らの私腹を肥やす利権を失いたくないがゆえに、「朝倉への義理」という美名を振りかざし、織田との同盟を阻もうとしているのだ。
当主・浅井長政は、この老臣たちの巨大な利権の網の目に搦め捕られ、身動きが取れなくなっているのではないか。
後世の歴史書には、ただの一行も記されていない真実。
「長政様が、義理に囚われて裏切ったのではない……。この城の下で、老臣たちの強大な利権のからくりが動いているのだわ」
お市はそろばんを強く握りしめた。木肌の冷たさが、掌に心地よく伝わってくる。
表面的な記述の陰に隠された、生々しい浅井家の病根。
明日、いよいよ浅井長政との対面の刻を迎える。
単なる感情論や説得など、この老臣たちには通用しない。彼らが縋り付いている利権と裏金のからくりを、数字と道理によって完膚なきまでに打ち砕く以外に、浅井家を救う道はないのだ。
「待っていてください、長政様。この小谷城の隠された勘定帳、私が必ず白日の下にさらしてみせます」
行灯の揺れる炎の向こうで、お市の冷徹な瞳が、暗闇を貫くように鋭く光っていた。




