第1話:小谷城への輿入れ
第1話:小谷城への輿入れ
輿の網代を激しく叩く風は、濃尾平野のぬるい湿気をかき消し、不破関を越えた頃より冷酷な刺すような冷気を帯び始めていた。
長持ちを担ぐ人夫たちの荒い吐息と、湿った落ち葉を踏みしだく草鞋の音が、隊列の前後から途切れなく響いてくる。輿の中は押し殺された静寂に満ち、焚かれた名香の匂いと、新調された白無垢の重厚な絹布が擦れ合う小気味よい音が漂っていた。
膝の上に置いた己の手を、お市は静かに見つめ直す。
指先は絹のように細く、一度も泥に汚れず、労働の痕跡を知らぬ貴人の姫そのものであった。爪の先には朱の紅がほのかに差され、艶やかに磨き上げられている。
織田弾正忠信長の妹として生まれ、武家の娘として育ってきた。兄から「浅井へ嫁げ」と言い渡された日も、お市に迷いや逆らう気はなかった。武家に生まれた姫にとって、政略結婚は家を支えるための当然の宿命であり、覚悟すべき生き方であったからだ。
北近江の浅井家と同盟を結び、織田家の天下布武の礎となる。それが己に課せられた役目であると、お市は背筋を伸ばし、静かに誇りを持って輿に揺られていたのである。
――だというのに、その平穏な覚悟が打ち砕かれたのは、夫となる浅井長政の名を心の中でそっと思った、まさにその瞬間であった。
きいん、と頭の奥底で鋭く閃くような強烈な亀裂が走った。
「ぐっ……!?」
お市は激痛に耐えてこめかみを押さえ、その場に身を捩らせた。
脳裏に、激しい濁流となって押し寄せてくる「まったく異なる世界」の記憶。
暗い資料室。夜を徹して蛍光灯の下で解読していた古文書の匂い。和紙の繊維に染み込んだ数百年前の墨跡を、拡大鏡で食い入るように見つめていたあの時間。
『近江浅井氏における領国支配と北陸経済圏の動向』――それが、私、市川葵の研究テーマだった!?
「あ、頭が……私、は……市川、葵……? 大学院生で、中世史の研究者……?」
前世の記憶が、自我が、怒濤の勢いとなって「お市」という戦国の少女の意識とひとつに溶け合っていく。
研究室で過労により倒れた現代人・市川葵としての記憶と、織田信長の妹として育ってきたお市としての記憶。二つの生が完全に融合した瞬間、お市――いや、葵の意識は強烈な衝撃に打たれた。
(私、現代人だった記憶が戻った……!? っていうか、今の私、浅井長政に嫁ぐための輿の中にいるの!?)
武家の娘として受け入れていたはずの宿命に、現代人(葵)としての価値観と歴史知識が一気に流入し、激しい葛藤と混乱が巻き起こる。
(待って……浅井長政って、あの浅井長政!? 数年後に金ヶ崎で信長兄上を背後から襲って、最後は小谷城で自害して浅井家が全滅する、あの浅井長政!?)
歴史の悲劇の筋書きが、恐怖となって襲いかかってきた。
さらに、現代人の感性が蘇ったことで、面識もない男のもとへ身体と人生を差し出しにいく政略結婚という現実に対しても、突如として激しい異物感と不安が胸を突いた。
(ちょっと待って……武家の覚悟とか言ってたけど、現代人の感覚からしたら、会ったこともない男のもとに嫁がされて抱かれるの!? しかもその家は数年後に滅びて、長政様は自害するの!? そんなの、冗談じゃないわよ!)
お市は激しく上下する胸を押さえた。
だが、前世で大学院生として中世経済史を修めていた葵の冷徹な知性が、即座に混乱する脳に割り込んできた。
(……落ち着きなさい、私。冷静になるのよ)
記憶の底から、葵の研究者としての思考が急速に呼び覚まされていく。
浅井長政。昔読んだ歴史書において、彼は「祖父の代からの朝倉家への義理を優先し、信長を裏切って自滅した愚直な武将」とされていた。だが、研究者だった葵は昔からその語られ方に強い疑問を抱いていたはずだ。
戦国大名というものは、領地と領民、そして一族の存続をかけた極限の利害関係の中で生きている。単なる過去の恩義や個人的な情感だけで、当時飛ぶ鳥を落とす勢いであった織田家との同盟を破棄し、滅亡に直結するような無謀な戦に踏み切るはずがないのだ。
表面的な記録の裏には、絶対に何か生々しい家中の仕組みが存在するはずだ――金か、物資の流通か、あるいは領内における権力構造の偏りか。それを解き明かそうとしていた矢先に、自分は倒れたのだ。
「ふふ……あはは……」
お市は思わず、白無垢の袖で口元を押さえ、乾いた笑いを漏らした。
ただの政略結婚の犠牲者として、滅びゆく運命に身を任せる気など毛頭なくなった。
(私には前世の記憶がある。歴史の裏側と数字を見抜く眼があるわ!)
もし長政が噂通りの愚直な男なら説得すればいい。だが、もし長政もまた、何か逃れられぬ浅井家の病によって追い詰められているのだとしたら――。
(私がその病根を暴いて、叩き潰してやる。武家の娘としての務めも、現代人としての尊厳も、どちらも諦めない。この手で運命を書き換えてみせる!)
お市は帯の間にそっと手を伸ばした。
そこには、小さな木枠の算具――そろばんに似た道具が収められている。
つい旬日ほど前、岐阜を発つ道すがら立ち寄った津島湊で、明国との交易を扱う唐物問屋が、輿入れの祝いにと様々な献上の品を並べたことがあった。反物や香木に混じって、片隅に無造作に置かれていたその奇妙な木枠の算具に、なぜか目を奪われたのだ。
「これは、明国渡りの勘定の道具にございます。近頃、堺の商人の間でも重宝されておるとか」
商人の説明を右から左に聞き流しながらも、お市は妙にその道具が気にかかり、深く考えもせず「これを、私に」と所望していた。今にして思えば、あの瞬間すでに、市川葵としての魂の欠片が、お市の意識の奥底で疼いていたのかもしれない。
持参する気になったのも、大した理由はない。ただなんとなく、手放しがたい気がしただけだった。
それがいま、恐怖と不安を打ち消すための唯一の武器、「知識と道理」を体現する道具になろうとは、あの日の自分はまだ知る由もなかった。
覚醒したお市は、輿の御簾の隙間から外の光景を注視した。
岐阜を発ち、不破関を越えて北近江の浅井領へと至る街道。境川を越えて浅井領に入った途端、沿道の風景はあからさまに色を変えていた。
左右に広がる田畑はひどく荒涼としている。秋の収穫期を控えているというのに稲穂の立ち並びは驚くほどまばらで、土は乾ききってひび割れている。あぜ道に伏し目で見送る領民たちの姿には活気がなく、痩せこけた体に継ぎはぎだらけの布を纏い、ただ通り過ぎる武者たちを怯えた目で見つめていた。
美濃や尾張で目にした活気溢れる城下町とは、あまりにもかけ離れた惨状であった。
北近江三郡――浅井、伊香、坂田。琵琶湖の北岸を抱える交通の要衝でありながら、なぜこれほど領内が貧困に喘いでいるのか。
覚醒したお市の頭脳が、中世経済史の知識から即座に答えを導き出す。
浅井領は南の六角氏との長年の戦で耕地が荒廃しており、領内だけで自給自足を保つことができない。そのため、米や塩、鉄といった生きるための必需品を、北の朝倉領――敦賀を経由する日本海への道のりに全面的に頼っているはずであった。
この目の前に広がる貧困こそが、浅井家という組織が抱える切実な経済的弱点であり、家中の歪みの発露なのではないか。
やがて輿が大きく揺れ、北国街道から小谷山の山裾へと折れていく。
清水谷と呼ばれる険しい谷合いに沿って、山城・小谷城がその骨太な威容を現し始めていた。標高約四百九十メートルの小谷山全体に、大嶽城、山王丸、本丸、中広間といった曲輪がひな壇状に連なり、土塁と空堀が複雑に交錯している。
防衛拠点としては極めて堅固であり、敵を寄せ付けぬ圧迫感を放っている。しかし、それは同時に、下界の市場や物流の動脈から完全に隔絶された、閉鎖的な城であることをも意味していた。
谷の入口に設けられた大手門の前で、隊列が一斉に足を止めた。
浅井家の出迎えの武者たちが立ち並んでいる。その中心に、数名の老将たちが馬を下りて控えていた。
輿の隙間からその光景を凝視したお市は、胸の中で小さな不協和音を聞いた。
沿道で見かけた領民たちの極貧の装いとは、あまりにも対極をなしていたからである。
浅井家の宿老として知られる面々――赤尾美作守清綱、海北若狭守綱親らをはじめとする重臣たちの装束は、不自然なほど華美であった。上質な絹の羽織に、新調されたばかりと分かる重厚な武具。腰に差した脇差の鞘には細やかな漆塗りが施され、越前の工芸の手がかかっていることが一目で見て取れた。
北近江の貧窮した田畑と、老臣たちの身に纏う過剰な富。この二つの事象は、あまりにも不自然に乖離している。
家臣たちの表情もまた、祝言の迎えにしては異様であった。歓迎の色は微塵もなく、彼らの眼光に宿っているのは冷ややかな警戒と、織田家に対する露骨な不信感であった。
「海北若狭守、綱親にござる。御輿を、これへ」
重々しい声が谷間に響く。その響きには姫を迎える恭しさはなく、むしろ警戒すべき異分子を城内へ運び込ませるかのような硬質さが混じっていた。
輿が再び持ち上げられ、清水谷の急坂を登り始める。薄暗い谷間に、人夫たちの足音と武者たちの武具が擦れ合うかちゃり、かちゃりという乾いた金属音だけが反響していた。
お市は輿の中でそっと深い息を吐き出し、胸元に手を当てた。
私を動かすのは、この頭脳と帳簿の数字だけだ。
金ヶ崎の裏切り、小谷城の陥落、そして浅井家の滅亡。あの血なまぐさい悲劇をただ待つ気など毛頭なかった。
長政が伝え聞く通りの愚直な義理立てで動いているなら説得もできよう。しかし、この城を覆う異様な気配、領民の貧困と家臣たちの過剰な富は、もっと生々しく根深い不穏な病を物語っていた。
やがて輿が静かに下ろされた。本丸に近い中広間の前庭に到着したのだ。
「御輿をお開け召され」
侍女の声とともに御簾がゆっくりと引き上げられ、北近江の冷たい秋風がお市の頬を撫でた。
輿からゆっくりと立ち上がり、足を外へ踏み出す。
白無垢の裾を引く所作は品格に満ちていながら、その背筋は一本の太い芯が通ったように伸びていた。
周囲を取り囲む浅井家の武者たちが、一斉に息を呑むのが分かった。絶世の美女と謳われた容姿への驚きだけではない。その瞳の奥に宿る隙のない冷徹な知性と、己の運命を他人に委ねまいとする凛とした威圧感に、武者たちが気圧されたのだ。
赤尾清綱が前に進み出て、恭しく頭を下げる。
「浅井家宿老、赤尾美作守清綱にございます。お市様、ようこそ小谷城へお越し召されました。当主・長政様も、首を長くしてお待ちかねにございます」
丁寧な言葉遣いではあったが、その目の奥には一切の笑みがなかった。探るような、試すような冷たい視線。
「お出迎え、恐懼に存じます。浅井の皆様方の健勝なるお姿、何よりに思われます」
お市は滑らかな声で答え、軽く会釈を返した。しかし、その視線は赤尾の着物の襟元、上質な越前絹の縫い目をしっかりと見抜いていた。
逃げ場のない戦いが、いま始まる。




