第59話:小谷城の月夜
第59話:小谷城の月夜
朱塗りの盃に注がれた清酒の水面に、満月が静かに白い影を落としていた。
秋深まる小谷城の奥御殿。
庭の草むらからは、松虫や鈴虫の澄んだ鳴き声が心地よく響き渡り、小谷山の嶺を吹き抜ける涼やかな夜風が、縁側の竹すだれをかすかに揺らしていた。
長男・万福丸、長女・茶々、次女・初、三女・江の四人の子どもたちが、すずや乳母の手によって健やかな寝息を立てて眠りについた後。
お市と当主・浅井長政は、自室の縁側に並び座し、二人きりの密やかな夜を過ごしていた。
盃を満たす清酒が、澄んだ月光を反射して微かに揺れている。
長政は盃を縁側に置き、夜空を見上げるお市の横顔を静かに見つめた。
涼やかな秋風に黒髪を遊ばせるお市の表情は、昼間の気丈な国母の顔ではなく、どこか遠い場所を見つめるような、淡い翳りを帯びていた。
「市」
長政の穏やかな声に、お市はそっと我に返ったように瞬いた。
「長政様……」
「今宵は、妙に静かだな。酒が口に合わぬか?」
「いいえ、長政様。とても……美味しいお酒でございます」
お市は小さく微笑み、手元の盃に視線を落とした。
城下の賑わいも、安土の盟約も、子どもたちの笑顔も、すべては満ち足りていた。
だが――この秋の澄み切った月を見上げていると、お市の胸の奥底で、輿入れの日からずっと張り詰めていた一本の細い糸が、冷たく震えるのを禁じ得なかったのだ。
「長政様」
お市は、盃を両手でそっと包み込んだまま、ぽつりと零した。
「……私、昔はずっと、月を見るのが怖かったのです」
長政は眉をわずかに動かし、お市の横顔を見つめた。
「月が、か?」
「ええ」
お市は静かに目を伏せ、胸の奥に閉じ込めてきた言葉を、一言ずつ手繰り寄せるように語り始めた。
「美濃からこの城へ嫁いできたあの日……見知らぬ地に運ばれ、いつかこの城も、浅井の家も、長政様も……すべてを失ってしまうのではないかと、毎夜怯えておりました」
長政は何も言わず、静かに耳を傾けていた。
お市の声音には、これまでの大評定や交渉で見せた冷徹な強さはなく、ただ一人の脆い人間の吐息が混じっていた。
「小谷が炎に包まれ、すべてが滅び去る夜にも……きっと、空には今夜と同じ、冷たい月が出るのだと思っておりました。だから……月が美しければ美しいほど、いつか訪れる破滅の刻が恐ろしくてたまらなかったのです」
小谷城の炎上。
長政の自刃。
前世の資料室で読んだ、あの冷たい活字の記憶。
世界は救われた。朝倉は滅び、関所は外され、塩は行き渡り、子どもたちは生きている。
理屈の上では、破滅の未来などもうどこにもない。
だが――お市の心の一角には、あのあの日見た「炎と死の記録」という影が、癒えぬ古傷のようにずっと残り続けていたのだ。
縁側に、虫の声だけが静かに流れていく。
長政は、お市がなぜそのような滅びの夜を思い描いていたのか、その真の理由までは分からない。
未来の記憶など、知る由もない。
だが――目の前で盃を握りしめる妻が、小谷に来たあの日からどれほど底知れぬ恐怖を一人で抱え込み、その震える指でそろばんを握り続けていたのかを、長政は言葉にできぬまま感じ取っていた。
長政は静かに手を伸ばした。
そして、盃を持つお市の手を、自らの温かく大きな掌で、包み込むようにして握り締めたのだ。
ごつごつとした武士の手の、確かな熱。
長政はお市の手を引いて自らの傍らへ寄せ、夜空の満月を見上げた。
「……ならば、今夜の月を覚えておこう」
お市は息を呑み、顔を上げた。
「長政様……?」
「お前が恐れていた月ではない」
長政の声は低く、どこまでも深く澄み渡っていた。
「俺たちが生きている、この夜の月としてだ」
お市の瞳が大きく見開かれた。
長政はお市の手を強く握り直し、その黒い瞳で、お市の目を真っ直ぐに見つめ返した。
「市。俺には、お前が心の底で何を見て、何を恐れていたのか、そのすべてを推し量ることはできぬ。だが……一つだけ分かることがある」
長政の掌の熱が、お市の冷えた指先へとしみ込んでくる。
「お前が俺の隣にいてくれたから、俺は生き延びた。お前がそろばんを弾いてくれたから、小谷は滅びずに済んだのだ。……過去がどうであれ、お前が何を恐れていようと、俺たちがここに生きて、こうして月を見上げている事実は、誰にも奪えぬ」
長政の言葉が、お市の胸の奥深く、もっとも固く凍りついていた場所へと届いた。
「もう恐れるな、市。滅びる夜の月など、どこにもない。今夜のこの光こそが……俺とお前が生きて手に入れた、誠の月だ」
その瞬間。
お市の中で、前世の孤独な市川葵の記憶からずっと張り詰めていた最後の氷が、音を立てて完全に溶け去っていった。
張り巡らせていた警戒も、運命への怯えも、すべてがほどけていく。
目の前にいるのは、歴史書の死者ではない。
血を流し、息をし、自らの手を温めてくれている、生きた夫なのだ。
「長政様……っ」
お市の瞳から、大粒の涙が零れ落ちた。
それは恐怖の涙ではなく、魂の底から救われた安堵の涙であった。
お市は長政の胸に額を押し当て、溢れる涙をその小袖に滲ませた。
長政は腕を回し、お市の華奢な背中を静かに抱きしめた。
長政の腕の温もり。
力強く、規則正しく打つ、心臓の音。
大げさな勝ち名乗りなど要らなかった。
ただ、この温かな胸の中で息をし、共に生きている――それだけで、お市が戦ってきた日々のすべてが報われていた。
やがてお市は涙を拭い、顔を上げた。
二人は視線を重ね、静かに唇を寄せ合った。
交わされたくちづけは、激しい情熱ではなく、互いの生を確かめ合い、慈しみ合う、どこまでも深く静かな契りであった。
くちづけが離れた後、二人は寄り添ったまま、再び夜空を見上げた。
小谷山の嶺にかかる満月が、青白い光を静かに注いでいる。
遠く眼下には、琵琶湖の湖面が白銀色に輝き、丸子船の灯火がぽつりぽつりと温かく瞬いていた。
秋の夜風が縁側を優しく渡り、二人の重なる影を、どこまでも柔らかく包み込んでいた。




