第60話:そろばんの音が聞こえる
第60話:そろばんの音が聞こえる
障子越しに差し込む柔らかな光が、畳の上を薄黄金色に染め上げていた。
初春の澄んだ山気が、奥御殿の木格子の隙間から滑り込み、部屋の中には庭の梅のほのかな香りと、磨り立ての墨の匂いが静かに漂っている。
文机の前には、長女・茶々がちょこんと正座し、小さな眉を真剣に寄せていた。
茶々の手元には、お市から授けられた小ぶりの黒檀のそろばんが置かれている。細い指先が、迷いながら木玉を一つ押し上げた。
「……五足して、十……あ、母様、これだと玉が足りなくなっちゃう」
「ふふ、よく見てごらん」
向かいに座るお市が優しく微笑み、茶々の指先にそっと己の手を重ねた。
「十の位へ一つ繰り上げてから、五の玉を払うのですよ」
「あ……本当だ! 繰り上がった!」
茶々がぱっと顔を輝かせた。
その隣では、すっかり背の伸びた長男・万福丸が、手習いの草紙を広げながら、妹の様子を頼もしそうに見守っていた。
「茶々、手つきが良くなってきたな。俺がその歳の頃は、玉を弾くたびに桁を間違えて、母様に何度も笑われたものだぞ」
「お兄様、からかわないで。私、もう間違えないもん」
茶々が頬を膨らませると、部屋の隅の畳の上で、四歳になった初と、よちよち歩きを始めた二歳の江が、楽しそうに笑い声を上げた。初が小さな手で畳を叩き、江がその背中にしがみついて転がり、二人の無邪気な歓声が春の光の中に弾ける。
からり――と、静かに障子が開かれた。
朝の政務を終えた当主・浅井長政が、足音も軽く部屋へと入ってきた。
「父上!」
子どもたちの声が一斉に揃った。
万福丸がすっと立ち上がって礼を執り、茶々がそろばんを置いて駆け寄り、初と江が競うように長政の足元へと這い寄る。
「おお、皆ここにいたか」
長政は当主の威厳をほころばせ、膝をついて初と江を両腕でひょいと抱き上げた。茶々がその小袖の裾に縋りつき、長政は満面の笑顔で万福丸の肩をポンと叩いた。
「万福丸、今朝の馬場での槍の手並み、見事であったぞ。茶々も、母様のお手習いを励んでおるな」
「はい、父上!」
長政の腕の中で、江が小さくキャッキャと声を上げ、初が父の頬に手を伸ばす。
春の陽だまりの中で重なり合う、夫と子どもたちの温かな笑い声。
文机の前に座るお市は、その光景を、息を詰めるようにして見つめていた。
(ああ……)
お市の視界が、ふっと揺らいだ。
脳裏に、かつて遠い日に見た記憶の残像が、鮮やかによぎっていく。
――輿の網代を叩く、凍てつく木枯らしの音。
岐阜を発ち、見知らぬ地へと運ばれながら、頭痛の中で蘇った前世の記憶。
大学の研究室。蛍光灯の下でめくっていた古文書の、冷たい墨の染み。
『天正元年八月、小谷城落城。長政自刃』
『万福丸、処刑』
『茶々、初、江、落城の炎を逃るるも……』
死者の名前。
滅びの記録。
過労の中で命を落とした、市川葵としての孤独な最期。
かつて読んだ歴史の世界では、この人たちは皆、血と炎の底に消え去る運命だった。
お市は、そっと瞬いた。
視線を戻す。
目の前には――。
自刃するはずだった夫が、二人の幼い娘を腕に抱き、笑っている。
処刑されるはずだった息子が、誇らしげに妹たちの頭を撫でている。
炎に焼かれるはずだった娘たちが、陽光の中で無邪気に戯れている。
血の匂いなど、どこにもない。
城を包む煙も、冷たい古文書の活字も、ここには何ひとつない。
ただ、春の光に満ちた部屋で、生きている家族の確かな呼吸と、温かな肌のぬくもりがある。
(ああ……そうか)
お市の胸の奥底に、静かな、透き通った泉のような納得が満ちていった。
(私が変えたのは……歴史などという、大げさなものではなかったのだわ)
あの日、輿の中で恐怖に震えながら、帯の間にそろばんを忍ばせた時。
小谷城の暗い廊下で、一人涙を流していた若き当主の手を取った時。
私が救いたいと願ったのは、「浅井長政」という歴史上の名将の名前ではなかった。
この人の、明日だった。
今日を生き、明日を迎え、笑い合いたいと願う、この人の命だった。
(そして今――私は、その明日の中にいる)
子どもたちの輪から抜け出した長政が、縁側に腰を下ろすお市の隣へと、足音を忍ばせて歩み寄ってきた。
長政は長年の戦火を潜り抜けてきた太い指で、文机の上に置かれたお市の手を、そっと包み込んだ。
「市。どうした、ぼんやりと外を眺めて」
「……なんでもございません、長政様」
お市は首を静かに横に振り、夫の温かな手のひらを、両手で握り返した。
手のひらから伝わってくる、確かな熱。
脈打つ命の鼓動。
小谷の山肌を吹き抜ける風は、あの日輿のすだれを揺らした凍てつく木枯らしではない。
芽吹きの土の匂いを含んだ、どこまでも柔らかな春の風だった。
「長政様」
「うん?」
「……私、この世界へ来て、あなた様の妻になれて、本当によかった」
長政は一瞬だけ驚いたように黒い瞳を丸くし、それから、あの日初めて寝所で二人きりになった夜と同じ、少し照れたような、心底愛おしそうな笑顔をこぼした。
「俺もだ、市。お前がいてくれたから、俺の今日がある」
日差しに満ちた部屋の奥から、ふいに、乾いた澄んだ音が届いた。
ぱちり――。
小さな木玉が、軽やかに枠を滑る音。
お市が教えた通り、茶々が小さな指先で玉を弾いたのだ。
あの日、輿の中で恐怖を打ち消すために握りしめたそろばんは、かつて運命と戦うための武器だった。
けれど、今はもう違う。
これは、子どもたちが新しい明日を数える音だ。
遠く眼下には、琵琶湖の青い水面を白帆が行き交っている。
夫がいる。
子どもたちが笑っている。
守り抜いた領民たちの、穏やかな暮らしがある。
ぱちり、ぱちり。
重なる木玉の音は、光あふれる小谷の城に、どこまでも優しく、どこまでも温かく響き続けていた。
おわり




