第58話:継承の物語
第58話:継承の物語
安土城での大祝宴を終え、北近江・小谷城へ戻ってから数日が過ぎた。
春の柔らかな日差しが、奥御殿の濡れ縁を白く照らし、庭の若葉を渡る風が、心地よいせせらぎの音を運んでくる。
静かな一室の畳の上には文机が据えられ、その上にはお市が長年使い込んできた黒檀のそろばんと、もう一つ、新しく誂えられた小ぶりのそろばんが並べられていた。
机の前には、四歳を迎えた長女・茶々がちょこんと正座していた。
愛らしい小袖を着た茶々は、黒檀の枠に収まった木玉を小さな指先でいじりながら、ふと、向かいに座る母・お市を見上げて首をかしげた。
「お母様」
「なんですか、茶々」
お市が優しく微笑みかけると、茶々は小さな唇をすぼめ、不思議そうに尋ねた。
「どうして、私はこの小箱を覚えなきゃいけないの? すずがね、大名家のお姫様は、和歌を詠んだり、お琴を弾いたり、貝合わせをして遊ぶのがお仕事だって言ってたよ。この玉をパチパチ弾くのは……町のお商人のすることじゃないの?」
無邪気で、しかし武家の姫としては至極もっともな疑問であった。
お市は決して叱らず、慈愛に満ちた瞳で娘を見つめた。
「茶々。和歌やお琴も、心を豊かにしてくれる素晴らしいものですよ。でもね……歌やお琴は心を慰めてくれても、誰かのついている嘘を見抜くことはできません」
「嘘……?」
茶々が大きな目を丸くした、その時であった。
「そうだよ、茶々!」
庭先に面した縁側から、弾んだ声が届いた。
木剣を手に、汗を拭いながら入ってきたのは、長男・万福丸であった。万福丸は木剣を傍らに置き、妹の隣へ腰を下ろすと、自慢げに胸を張った。
「俺も最初はそう思ったんだ! でもな、数字が分かればな、お城に米がどれほどあるか、帳面に嘘が書かれておらぬか、自分で確かめられるんだぞ! 父上も、お市母様のそろばんがあったから、城内の悪事を正して戦に勝てたんだ!」
部屋の隅では、二歳の初が万福丸の真似をして「ぱちぱち!」と小さな手を叩き、すずの腕の中の赤子・江が無邪気な声を上げて笑った。奥御殿に、子どもたちの温かな空気が満ちていく。
お市は万福丸の頭を優しく撫で、再び茶々の前へと向き直った。
お市は茶々の細い手を取り、小ぶりのそろばんの木玉へと、そっと指先を添えさせてやった。
「茶々、よく聞いてね。昔、この小谷の城にはね、『朝倉様への三代の恩義だから』とか『昔からそう決まっているから』と言って、浅井の家を滅ぼしかけた老臣たちがいたのですよ」
「おじいさんたち……?」
「そう。その人たちはね、誰かが決めた古い言葉をただ信じ込んで、自分の頭で考えるのをやめてしまったのです。そのせいで、領内の百姓たちが塩不足で苦しんでいることすら、見えなくなってしまっていたの」
お市は茶々の指を導き、木玉を一つ、澄んだ音を立てて弾いた。
ぱちり。
「数字そのものは、嘘を申しませぬ。一は一、十は十です。けれどね……その数字を隠したり、都合よく並べ替えたりする人はおります。だから、数字を知って、自分の目で確かめなければならないのですよ」
「じぶんで……たしかめるの?」
「ええ」
お市は茶々の黒く澄んだ瞳を、真っ直ぐに見つめ返した。
「誰かの言うことを、ただ鵜呑みにして従うだけでは、人は幸せになれません。誰かに『こうするしかない』と言われたときに、本当にそうなのかを、自分で確かめるための道具……それが、このそろばんなのです」
お市の言葉が、静かな室内に染み渡っていく。
お市は茶々の小さな温かい手を見つめながら、胸の奥で、静かに遠い記憶を呼び戻していた。
(……誰かが勝手に決めた運命に、この子を従わせはしない)
本来の歴史において、この愛娘が辿るはずであった凄惨な運命。
小谷落城、北ノ庄の炎、そして最後は大坂城の猛火の中で自刃して散っていった、淀殿としての過酷な生涯。
時代の神輿として担ぎ上げられ、「豊臣の運命」という誰かが決めた巨大な宿命に縛り付けられて命を落とした、悲劇の姫。
(この子がいつか自らの足で立ち、時代の荒波に呑まれそうになったとき……誰かに示された道をただ辿るのではなく、己の知恵と意志で進むための力を渡すのだ)
お市は、茶々の指を包む自分の手に、そっと力を込めた。
親の庇護のもとで守り育てるだけではない。
この子が自らの頭で勘定し、真実を見極め、自らの足で未来を選び取るための知恵。それこそが、母としてこの子に遺せる最大の力なのだ。
茶々は、母の真剣な眼差しをじっと見つめていた。
四歳の幼い胸に、母が語った言葉のすべてが理解できたわけではない。
だが、母が自分を縛るためにではなく、自分を真に自由にするためにこの知恵を授けてくれようとしていることだけは、幼心にも痛いほど伝わっていた。
「……言われたままに、しないの?」
茶々が静かに呟いた。
「そうよ、茶々」
お市が優しく頷く。
茶々は、ふっと小さな眉を凛と引き締めた。
その瞳の奥に宿ったのは、父・長政の不屈の強さと、母・お市の怜悧な知性を確かに受け継いだ、誇り高き光であった。
茶々は、自らの意思で小さな指先をそろばんの枠へ伸ばした。
そして、黒檀の木玉を、力強く弾き上げた。
ぱちり――。
硬く乾いた音が、春の陽光に満ちた部屋の中に高く響き渡った。
茶々は、お市を見上げ、満面の笑みを咲かせた。
「お母様! 私、そろばんのお勉強をする! 言われた通りにするんじゃなくて、自分で確かめて、自分で選べるお姫様になる!」
「まあ……!」
お市は胸を熱くし、茶々の小さな身体を思わずぎゅっと抱きしめた。
万福丸が「さすが俺の妹だ!」と誇らしげに笑い、初が手を叩き、江がキャッキャと声を上げる。
安土の天主から見下ろした、琵琶湖のあの幾千の光。
かつて暗闇であった北近江を照らし出した新しき時代の光は、いま、母から娘へ、親から子へと、確かに受け継がれたのだ。
木玉を弾く幼い指先の向こうに、決して誰にも奪わせぬ、自ら選ぶ未来の足音が力強く響いていた。




