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第57話:安土城の宴

第57話:安土城の宴


 朱塗りの高欄に、金箔押しの瓦を連ねた宝塔が、夜の帳の中に神々しく浮かび上がっていた。

 琵琶湖南岸に完成した天下の名城――安土城。その天主最上階の広間では、織田・浅井の同盟と天下静謐の進展を祝う、壮大な酒宴が催されていた。


 広間の壁面には、狩野永徳の手による金碧の巨松と躍動する白龍の障壁画が描かれ、格天井を彩る黒漆と金箔が、かがり火の光を眩いばかりに跳ね返している。

 上段の間には、三人の姿が並び坐していた。

 黒漆の小袖に南蛮仕立ての豪華な肩衣を纏った、織田弾正忠信長。

 その隣には、当主の正装を身に纏い、引き締まった英主の風格を放つ夫・浅井新九郎長政。

 そして、朱色の打掛の裾を整え、凛とした気品と静かな美貌を湛えた正室・お市。


 下段には、両家の重臣たちが一堂に会していた。

 柴田権六勝家、丹羽五郎左衛門長秀、明智十兵衛光秀、そして木下藤吉郎ら織田の面々。その向かいには、阿閉淡路守貞征、新庄駿河守直頼ら浅井の将たちが座し、美濃や摂津の上酒が注がれた盃を和やかに交わし合っている。


 宴が温まるにつれ、下段の端に座していた木下藤吉郎が、大きな盃を両手で捧げ持ち、上段へ向かって深く平伏した。

「当主長政様、お市様! あの日、岐阜の城でお市様が示してくださったそろばんの道理……この藤吉郎、一刻たりとも忘れたことはございませぬ! 関所を外して荷を流すことが、どれほど国を富ませ、人を動かすか。……殿の命を受け、播磨や京の町筋を整える現場におきましても、あの教えこそが我が骨肉となっておりまする!」


 藤吉郎の熱のこもった言葉に、柴田勝家も豪快に盃を飲み干して頷いた。

「然り。力で領地を押さえつけるばかりが武士の道ではないと、小谷の発展を見れば誰の目にも明らかよ。近江の水運が整うたおかげで、我が織田の兵糧も玉薬も、かつてない速さで前線へ届くようになった。お市様のお手腕、まこと天下の亀鑑にございます」


 武将たちの心からの称賛を受け、長政とお市は静かに会釈を返した。

 かつて老臣たちの裏金と疑心暗鬼によって、血みどろの破滅へ突き進むはずであった二つの家。それが今や、お市が引いた流通の道筋によって固く結ばれ、誰も引き裂くことのできぬ巨大な礎となっていた。


 信長は盃を置き、肘掛けに斜めに体重を預けながら、二人を見つめた。

「長政、市」

「ははっ、兄上」

「余は、情などでは動かぬ男だ。利のない同盟など、一日たりとも保つ気はない」

 信長の声は低く、しかし天主の梁を震わせる重みを持っていた。

「だが……いま、この安土の天主から見える国の姿は、貴様たち夫婦が拓いた道だ。近江が富み、関所が消え、民の行き交う道ができたからこそ、余はこの城から天下を見渡すことができる。……礼を言うぞ」


 覇王・信長が口にした、偽りのない真実の言葉。

 長政は盃を両手で押しいただき、静かに頭を下げた。

「身に余るお言葉にございます、兄上。浅井はこれからも、織田兄上とともに、この国の確かな歩みを支えてまいる所存にございます」


 下段で家臣たちが歓声を上げ、再び酒宴のざわめきが広がっていった。


     *


 宴が盛りを見せる中、お市は静かに座を立ち、広間の端に設けられた高欄へと歩み出た。

 夜気を含んだ春風が、朱色の小袖を冷ややかに撫でていく。

 安土山の天主の最上階。地上数十丈の高さから見下ろす視界の先には、どこまでも広がる漆黒の琵琶湖が横たわっていた。


 お市は、高欄の木肌にそっと手を添えた。

 夜の湖面を、息を呑んで見つめる。


 暗闇であるはずの水の上に、無数の灯火が瞬いていた。

 白帆を下ろし、夜の水路を滑るように進む丸子船の提灯の火。

 北の塩津や海津から、南の大津や坂本へ。敦賀の湊から届いた荷を積み、伊勢の塩を運び、上方の物資を乗せた無数の船の群れが、水面の上に幾筋もの光の帯となって連なっていた。

 まるで、夜空の天の川がそのまま湖の上に降りてきたかのような、息を呑むほど壮大な光の航路。


 その光を見つめながら、お市の胸の奥底に、遠い日の記憶が蘇っていた。


 (……あの日)


 あの日、岐阜を発ち、浅井家へと嫁ぐ輿に揺られていた時のこと。

 不破の関を越える風は凍てつくように冷たく、長持ちを担ぐ人夫の足音だけが暗い山道に響いていた。

 脳裏に濁流のように押し寄せてきた前世の記憶。

 市川葵としての自分。大学の研究室で読んだ、浅井長政の自刃と小谷城落城の記録。

 見知らぬ男のもとへ差し出され、数年後には滅びゆく運命に怯えながら、輿の暗がりの中で、お市は帯の間に忍ばせた小さなそろばんを、冷え切った指先でただ強く、強く握りしめていたのだ。


 あの日の北近江は、暗闇そのものだった。

 塩は濁り、田畑は枯れ、城内は裏金に冒され、待っていたのは逃れようのない死の未来だった。


 お市は、胸元の懐にそっと手を当てた。

 小袖の内側には、あの日からずっと持ち歩いてきた、あの使い古されたそろばんが静かに収まっている。


 (あの日、私はたった一つのそろばんを抱えて、あの暗闇の中へ運ばれていた……)


 お市の瞳に、熱いものが滲んだ。

 だが、それは恐怖の涙ではなかった。

 視線を上げれば、目の前には、湖面を埋め尽くす幾千、幾万の光の帯が瞬いている。

 あの暗闇の向こうにあった小谷の城が、いま、信長兄上の安土と、この光の動脈で真っ直ぐに結ばれているのだ。

 滅びの未来は消え去り、琵琶湖の上には、人々の命と暮らしを運ぶ船の光が、どこまでも温かく輝いている。


 ふわり、と肩に温かな重みが落ちた。


 お市が振り返ると、長政が自分の羽織をそっとお市の肩にかけてくれたところだった。

「風が冷えるぞ、市」

「長政様……」

 長政はお市の隣に並び立ち、高欄に手を置いて、夜の湖面を見下ろした。

 長政の横顔は、春の夜風に吹かれながら、どこまでも穏やかだった。


「見事な光だな」

 長政が静かに呟いた。

「兄上と天下を語り合うのもよい。だが……俺は、この光を見ている方が、よほど腹の底が温かくなる。あの船の一つひとつに、荷があり、人が乗り、それぞれの家へと帰っていくのだな」


「ええ、長政様」

 お市は長政の隣で、そっと頷いた。

 二人はそれ以上、言葉を重ねなかった。

 宴のざわめきが遠く背後に響く中、肩を並べた二人の佇まいには、天下を動かす大名としての威厳と、同じ道を歩んできた者同士の、静かで揺るぎない信頼が満ちていた。


 琵琶湖の夜風が高欄を渡り、二人の羽織の裾を優しく揺らしていく。

 遠く湖面に連なる丸子船の灯火は、かつて絶望の暗闇であった北近江の夜を、どこまでも白く、どこまでも眩く照らし続けていた。

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