第56話:安土城の建設と浅井四きょうだい
第56話:安土城の建設と浅井四きょうだい
「えい、おーっ! えい、おーっ!」
安土山の山肌を揺るがす巨大な石曳きの掛け声が、琵琶湖の南岸に高らかに響き渡っていた。
越前朝倉氏の滅亡、そして京の二条御所における将軍・足利義昭の密約封殺から、数年の歳月が静かに流れ去っていた。
琵琶湖南岸にそびえ立つ安土山。
織田信長の手により、前代未聞の天下の名城――安土城の築城が、着々と進められていた。
全国から集められた数千の人夫たちが巨石を梃子と綱で引き揚げ、天を突く石垣を積み上げ、その上には、朱と漆、金箔で彩られることになる壮麗な天主の姿が、少しずつ形を現し始めていた。
信長が進める楽市楽座と、浅井家が差配する琵琶湖の水運が結びついたことで、東海・北陸・近畿を繋ぐ物流の動脈は完全に定着し、戦乱の傷を癒やす莫大な富が天下を巡り始めていた。
そして――北近江・小谷城。
かつて老臣たちの私腹によって閉ざされていたこの城は、いまや湖北の静かな繁栄の中心地となっていた。
春の柔らかな光が差し込む奥御殿の一室。
畳の上には、浅井長政とお市の慈愛のもとで育つ子どもたちの、賑やかな笑い声が満ちあふれていた。
木ノ芽峠の合戦から巡った年月の中で、長女・茶々の誕生に続き、次女・初、そしてこの春には三女となる江が無事に産み落とされていた。
お市は、生後間もない江を優しく腕の中に抱きかかえ、縁側に腰を下ろしていた。
その足元では、すっかりお姉ちゃんらしくなった四歳の茶々と、二歳を迎えた初が、畳の上にちょこんと座り、赤子の柔らかな頬を指先でそっと突いて笑っている。
「初ちゃん、見てごらん。江ちゃんだよ。私達の妹ちゃんだよ」
「あー、あい! あーい!」
初が楽しそうに小さな手を叩き、茶々が誇らしげに目を細める。
そして、その三姉妹のすぐ前で、すっかり頼もしい少年に成長した長男・万福丸が、木剣の素振りを終え、汗を拭いながら手元のそろばんを覗き込んでいた。
「お市母様。江も、初も、茶々も、みんな可愛いね」
万福丸が、父・長政に驚くほどよく似た澄んだ瞳を輝かせ、屈託のない笑顔を向けた。
かつて輿入れの折、側室の子としてその処遇が危ぶまれていた万福丸。
だが、お市が自ら「この子は浅井の正当な嫡男です」と公言し、実の母同然に慈しみ、そろばんと、当主としての道を授けて育ててきた。その歳月が、万福丸を、お市を心から慕い、妹たちを慈しむ、誠実で利発な跡継ぎへと育て上げていたのだ。
万福丸は膝を進め、お市の腕の中の江の小さな手を、そっと壊れ物を扱うように包み込んだ。
「俺、お兄ちゃんだからね。茶々も初も江も、大きくなったら父上みたいに強い武者になって、俺が守ってあげるんだ」
「まあ、万福丸様」
お市は胸を熱くし、万福丸の額に手を当てて優しく撫でた。
「本当に、頼もしいお兄さまですね」
万福丸、茶々、初、江。
仲睦まじく顔を寄せ合う四きょうだいの姿を、お市は静かに見つめた。
(……生きている)
お市の胸の奥底を、かつて前世で読んだ古文書の記憶が静かにかすめた。
本来の歴史において、この子どもたちが辿るはずであった凄惨な運命。
小谷城の落城とともに、万福丸は織田の手によって処刑され、茶々、初、江の三姉妹もまた、母・お市と引き離され、それぞれが時代の荒波へ投げ出され、やがて北ノ庄の炎で母を失い、豊臣の運命に翻弄されて時代に散っていくはずであったのだ。
だが――いま、目の前にある光景はどうだろうか。
後継者争いの影など微塵もなく、血の繋がりを超えて結ばれた長男と妹たち。
誰一人として殺されず、誰一人として欠けることなく、ただ、兄妹として、無邪気な子どもたちとして、陽光の中で笑い合っている。
(この子たちの命は、もう歴史の生贄ではない……)
お市は腕の中の江の温もりをぎゅっと抱きしめ、心の中で静かに涙を拭った。
そろばんを手に取り、老臣の病根を断ち切り、夫とともに生き抜いてきた日々のすべてが、いま、この無邪気な笑顔となって結実しているのだ。
からり、と障子が開いた。
政務を終えた長政が、足音も静かに部屋に入ってきた。
「父上!」
万福丸が声を弾ませて駆け寄り、茶々と初も「ちちうえ!」と手を伸ばす。
長政は柔らかな笑みを浮かべ、万福丸の肩を抱きながら、初と茶々をそのたくましい腕でひょいと抱き上げた。
「おお、茶々も初も元気であったか。万福丸、今日も妹たちの面倒を見てくれたな」
「うん! 父上、俺、素振りもそろばんも両方やったよ!」
「そうか、頼もしいぞ」
長政は子どもたちを畳の上へ下ろすと、お市の隣へと腰を下ろした。
腕の中の小さな江の額に、長政はそっと指先を寄せる。
「市。今日も誠に賑やかだな」
「はい、長政様。万福丸様が、本当に頼もしいお兄さまになってくださっております」
「うむ。お前が愛情を注ぎ、道理を授けてくれたからこそだな」
長政はお市の横顔を穏やかな眼差しで見つめた。
「子どもたちの声を聞いていると、日々の政務の重みも、すべて吹き飛ぶようだ」
「ええ、長政様。……この子たちの明日を守ることこそ、私たちの務めですね」
「ああ」
長政は深く頷き、お市の手をそっと握りしめた。
「どんな戦よりも、この穏やかな暮らしを守り抜くことこそが、当主の戦だ。俺はお前とともに、この小谷を守り抜いていくぞ」
子どもたちの弾けるような笑い声が、初春の奥御殿に満ちあふれていく。
吹き抜ける風は柔らかく、一家の穏やかな日常を、どこまでも温かく包み込んでいた。




