第55話:書き換わった評判と新しい浅井家
第55話:書き換わった評判と新しい浅井家
「浅井の長政様は、真に信義に厚き英主であられる」
そんな賞讃の声が、京の室町御所から尾張、美濃、北陸の諸国に至るまで、初春の風に乗って駆け巡っていた。
木ノ芽峠において、織田信長率いる軍勢の背後を守り抜き、越前朝倉氏を滅ぼし、二条御所において将軍・足利義昭の密約を封じ込めた浅井長政。かつて老臣たちの不穏な影に隠されていた若き当主の世評は、いまや天下の静謐を支える確固たる大名として、揺るぎないものとなっていた。
そして、その傍らでそろばんを執り、城内の不正を暴いて北近江の流通を根本から切り拓いた正室・お市の方の名もまた、賢夫人として天下に轟いていた。
だが――お市にとって何より雄弁に勝利を物語っていたのは、遠国の噂などではなかった。
初春の柔らかな陽光が注ぐ小谷城下、山田の河原市。
お市は小袖の上に地味な羽織を羽織り、侍女のすずだけを伴って、市の人混みを静かに歩いていた。
川沿いには、近隣の村々から集まった百姓や、美濃・伊勢・越前を行き交う商人たちの威勢の良い掛け声が響き渡っている。
「寄ってらっしゃい! 伊勢の白塩、今日もたっぷり入荷だよ!」
「一升八文! 味噌でも漬物でも、いくらでも漬けられるよ!」
問屋の店先に山積みにされた大きな木桶には、陽光を浴びて雪のようにきらめく、真っ白な塩が溢れんばかりに盛られていた。
桶の周りには、笊を持った百姓の女房たちが集まり、銭を払っては笑顔で塩を買い求めている。
その光景を見つめながら、お市の足がふと止まった。
(四十文だった塩が……八文……)
お市は胸の中で、その数字を静かに噛み締めた。
脳裏に、数年前――美濃からこの小谷の城へ輿入れしてきたあの日、輿のすだれの隙間から目にした風景が鮮明に蘇っていた。
不破の関を越え、境川を渡った途端、沿道の風景からはあからさまに色が失われていた。
左右に広がる田畑は乾ききってひび割れ、秋の収穫期だというのに稲穂は驚くほどまばらだった。あぜ道に伏して輿を見送る百姓たちは、継ぎはぎだらけの襤褸を纏い、痩せこけた体で、通り過ぎる武者たちをただ怯えた目で見つめていたのだ。
そして、城に着いて最初に出された膳の、あの塩。
粒が粗く、灰色に濁り、砂利混じりのように苦かった、一升四十文の塩。
寒気と、飢えと、未来の見えない絶望の匂いが、あの日の北近江のすべてを覆っていた。
「お市様、見てくだされ!」
すずが嬉しそうにお袖を引いた。
「あちらの河原で、子どもたちが駆け回っておりますよ!」
すずの指差す先、春風がそよぐ土手の上では、ふくよかな頬をした童たちが歓声を上げて駆け回っていた。
その小さな手には、真っ白な塩をまぶした握り飯がしっかりと握られている。子どもたちは泥だらけになって笑い転げ、その傍らでは、野良仕事を終えた百姓たちが腰を下ろし、美味そうに茶をすすっていた。
川沿いの田畑には清らかな水が引き込まれ、ひび割れていた土は黒々と肥え、柔らかな麦の青葉が一面に芽吹いている。
寒気に凍えていた人々の顔には、もう怯えの色がなかった。
泥臭く、温かく、生きる喜びに満ちた人々の営みが、川風に乗って肌を撫でていく。
「お市様」
人混みをかき分けて、油問屋の大野屋宗兵衛が駆け寄ってき、深々と頭を下げた。
「城下の塩相場、一升八文にて完全に落ち着いてございます。深坂峠の関所が外されたことで、敦賀の湊からも海産が滞りなく入り、美濃の鉄も小谷の鍛冶場へ潤沢に届いておりますぞ。……数字をいじるのではなく、荷を動かした。お市様のおっしゃった通り、人が生き返りましたな」
「大野屋。あなたがた商人が、足を止めずに荷を運んでくれたおかげですよ」
お市が微笑むと、大野屋は照れたように頭を掻いた。
(数字は、帳簿の上だけにあるのではない……)
お市は心の中で静かに噛み締めた。
関所を解き、荷を流し、正しき算用で利を配分する。
その積み重ねが、あの灰色に濁っていた絶望の景色を、この温かな日常へと塗り替えたのだ。
戦に勝ったからではない。
生きるための道筋を、そろばんを以て正しく繋いだからこそ、この世界は色を取り戻したのだ。
*
城へ戻ると、奥御殿の縁側から、軽やかな木玉の音が届いた。
ぱち、ぱち、ぱちり。
万福丸が膝の上にそろばんを置き、真剣な顔つきで指先を動かしていた。
「……五足して、十引いて……あ、母様!」
万福丸がお市に気づき、顔を輝かせて手招きした。
「見てて! 俺ね、今日城下に入った荷馬の数を、大野屋の手代から聞いて計算したんだよ! ほら、ぴったり合ったんだ!」
「まあ、万福丸様」
お市は縁側に腰を下ろし、万福丸の引いた帳面を覗き込んだ。そこには拙いながらも、墨黒々と正確な数字が並んでいた。
「素晴らしいですね。数字をごまかさず、まっすぐに見つめられることは、何よりの武士の力ですよ」
「へへっ、母様に褒められた!」
万福丸が無邪気に笑う。部屋の奥では、すずの膝の上で茶々がすやすやと寝息を立てていた。
そこへ、政務を終えた長政が、足音も静かに歩み寄ってきた。
「市。城下を見て回ってきたそうだな」
「はい、長政様」
お市は立ち上がり、長政とともに本丸の物見櫓へと登った。
初春の夕陽が、小谷山の山肌と、眼下に広がる山田の河原市、そして遠く光る琵琶湖の湖面を、黄金色に染め上げていた。
湖上には、白帆をいっぱいに孕ませた丸子船が、何艘も連なって滑るように進んでいる。
かつて老臣たちが私腹を肥やすために閉ざしていたこの国は、いまや北陸と上方とを結ぶ、天下の動脈として息づいていた。
長政は物見櫓の欄干に手を置き、遠くの街並みを見つめた。
「市。民が笑っておるな」
「ええ、長政様」
お市は長政の隣に立ち、茜色の光を浴びながら静かに答えた。
「あの日……美濃から輿に揺られて境川を越えた折に見た、あの乾いた荒れ野と、怯えた百姓たちの姿が……本当に、塗り替わったのですね」
長政はお市の横顔を静かに見つめ、それから、お市の手をそっと包み込んだ。
「ああ。……俺たちが守りたかった小谷は、この景色だったのだな」
川風が物見櫓を吹き抜け、二人の小袖の裾を優しく揺らしていく。
遠くでは、河原市の商人が店を仕舞う声が聞こえていた。その向こうでは、子どもたちの笑い声がまだ響いている。
琵琶湖には夕陽を受けた丸子船が浮かび、ゆっくりと湖面を進んでいた。
戦は終わった。
そして浅井の国には、戦のない一日が、静かに始まろうとしていた。




